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  「サイボーグ文学について(6)」

 五 共通感覚とのクールな戯れ

 一八世紀と一九世紀の転換期に「空間の崩壊」と「無限としての時間」の出現が起こったことを、これまでの論述で確かめてきたが、この歴史的変動は「救済の要請」のかっこうの土壌となった。ここに近代の国民国家という物語が誕生する。アンダーソンは、宗教的な支えが崩れたことに、ナショナリズムの発生の条件を見ている。「この啓蒙主義の時代、合理主義的世俗主義の世紀は、それとともに、独自の近代の暗黒をももたらした。宗教信仰は退潮しても、その信仰がそれまで幾分なりとも鎮めてきた苦しみは消えはしなかった。楽園の崩壊、これほど宿命を偶然と感じさせるものはない。救済の不条理、これほど別の形の連続性を必要とさせるものはない。そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することであった」(『想像の共同体』)

 切断ののちの再統合が、帝国主義という「資本の輸出」への反作用として、一九世紀に世界で同時的に進行した。日本も含めてネーション=ステートはそのように編成された。これに類似した統合の運動を、ハラウェイは「共通言語の探求」と呼んだ。「国民国家」にしろ「共通言語」にしろ、人工的制度というニュアンスが強いので、ここではそれよりも、人間的自然のように見なされ、そのことによって密かに共同体的構成を無傷のまま支え、再生産し続けてきた擬似概念である「共通感覚」という言葉を用いたい。「言い換えれば、「共通感覚」とは世界の〈物語〉的構成をその基底部で支えてきた装置に他ならない」(丹生谷貴志「石川淳において狂うのはいつも女である」)

 いつでもどこでもこの装置は作動し続けるのであって、それが消滅することはありえない。その理由は、単純明快であって、それが「物語」だからである。人間と言葉がある限り、物語は永遠に不滅である。物語の暴力を回避するには、物語という装置の作動振りを分析するか、事件の出来という運動に同調することによって、一瞬、物語を機能停止へと追い込むかのいずれかしかない。

 だから『未来のイヴ』のエワルドは、やはり、反動なのである。一八七〇年に成立し、一八八〇年代以降、安定し堅固なものとなる第三共和制は、例えば、それが実施した前代未聞の新事業としての「初等教育の世俗化」のようなかたちで、大衆社会の到来を促進し、「通俗性」という共通感覚を社会に行き渡らせていった。そのような社会の趨勢に嫌悪しか感じなかったリラダンは、失われた「黄金」(貴族的なもの=女神的なもの)をエディソンの技術によって取り戻そうとした。それは過去の共通感覚への逃避であろう。

 一方『フランケンシュタイン』の怪物は、共通感覚が崩れ去った環境で、必死に奪われた共通感覚を取り戻そうとする試みを続ける存在である。第十一章の冒頭で怪物によって語られる次のエピソードは象徴的と言えよう。「自分の生涯の初期のころを思い出すのは、かなり骨の折れることだ。あのころの出来事はみな入りみだれ、ぼやけて見える。数知れぬ不思議な感覚が自分をとらえた。自分はいっぺんに見、触れ、聞き、嗅いだ。そしておのおのの感覚の働きを識別できるようになるまでには、じつに長い時間がいったのだ。だんだんと強い光が神経を圧迫しだしたので、目をつぶらずにはおれなかったのを覚えている。そうすると暗闇がせまってきて、自分は不安になった」不定形へと雪崩落ちようとする存在を保護する認識の枠組みが定まらない状況において、わが身を囲繞する「暗闇」から脱出しようとする試みが生々しく語られている。別の箇所では「わかるもの、区別のできるものは何もなく、ただ四方八方から苦痛がせめてくるのを感じて、坐りこみ、そして泣いた」とも怪物は語る。

 周知のとおり「近代文学」は、自明の風景、言い換えれば共通感覚が転倒した時、産み出される。「さらにいえば、「風景」こそこのような倒錯において見出されるのだということである。すでにいったように、風景はたんに外にあるのではない。風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならないのであり、そのためには、ある逆転が必要なのだ」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)柄谷は「逆転」という「切断」の瞬間を捉えようとしているが、切断の前と後に二つの共通感覚が存在することに注意しよう。切断の前には近代以前の旧共同体があり、切断の後には近代の国民国家がある。アンダーソンが指摘したように、後者は近代小説(日本では言文一致によって担われた)を通して編成される。西洋では、帝国(ラテン語)からネーション=ステート(俗語革命)へという方向で進展する。

 早口でまとめると、近代文学には二種類あって、ひとつは共通感覚が雪崩に巻き込まれる中、一種の神経症的臨界症状の領域で営まれる「非物語」としての近代文学であり、もうひとつは切断という「真空」の上に国民国家に代表される新たな「意味(=センス=感覚)」を構築する「物語」としての近代文学である。後者が由緒正しき「国民」を従属登録する装置であるのに対して、『フランケンシュタイン』の怪物=サイボーグが前者に属するのは言うまでもない(小松左京の『日本アパッチ族』はこの中間にあると言えよう)。怪物は「(自分の伴侶を創造してほしいという願いを――引用者註)聞き入れてもらえたら、あんたにもほかの人間にも、二度と姿を見せないようにするつもりだ。おれは南米の荒野へ行こう」と語っていて、ヨーロッパの中には自分の居場所がないことを承知している。

 ところでハラウェイは『フランケンシュタイン』に対して「サイボーグは自らの父親の手で復楽園をもたらしてもらえるものと思っていない」「サイボーグは、生物家族をモデルに社会を築くことなど夢見ない」と批判的な言葉を述べている。なかなか手厳しいが、「有機的統一を夢見て部分的可能性のいっさいがっさいを見栄えよくまとめあげようとする試みすべてに対し、サイボーグは関係を持たない」と考えるハラウェイにとっては、「全体化志向」や「自然との一体化」を内包する物語は峻拒すべきものとしてある。ハラウェイのそのような考えに同調する時、『ハイブリッド・チャイルド』のあの圧倒的に美しいラストの光景にいささか居心地の悪い思いを覚えずにはいられない。世界を管理する超越的な母性神としての人工知能ミラグロスが、プログラム障害ゆえに、世界を崩壊に晒している状況から、一転してミラグロスが「大きな木」へと変貌を遂げ、世界が花々に覆われる状況へと劇的に変化する感動的な場面。この稀有な作品は、ここで、宗教的な高みにまで達している。「木」を背景にして、ドレイファスもまた、母と和解の劇を演じる(「母は泣き疲れた赤い目をゆっくりあげ、息子を見つめた」)。カソリックの聖母信仰に触れ、和やかな生気が回復するような思いにもなるが、カソリシズムは日本の文脈においては天皇制にあたる。「ハイブリッド」は「有機的統一体」を前にして、そうやすやすとその雑種性を放棄してよいものか……

 ともあれ国民国家という共通感覚は、不可避的に暴力を内包せざるを得ないのだから、それは「絶対的な善」なのではなく、「相対的な善」(悪く言えば「必要悪」)にすぎないという認識は手放すまい。それはとりあえずの虚構であり、そのなかでの永遠の微睡を保証する環境ではない。一日のうち八時間ぐらいはリラックスできる場を保証するのであれば御の字であろう。たいていの「家庭」がそうであるように、留まる(従う)ことも、出て行く(反発する)ことも、ともに自由に認められるべき場所のはずである。そのようなコミットのしかたを、とりあえず「戯れ」と呼んでみたのだが、そうした振る舞いは「技術」の問題というより、むしろ「倫理」の問題である。有機的統一体としての擬似概念である国民国家への疑義を表明する酒井直樹は、「近代に内在するその余剰からの国体(ナショナリティ)の脱構築は、その社会編成を広く支配しているようにみえる、社会の究極の形態を合体の感じ(コミュニオン)にみるような均質志向社会性(ホモソーシャリティー)への有効な批判を模索するためにも、われわれがとり上げなければならない課題なのである」(「死産される日本語・日本人」)と語っているが、この言葉はハラウェイの言説と呼応しあうものである。

 サイボーグという雑種性、非国民性は、擬似概念にすぎない共通感覚が隠蔽し、あるいは取りこぼしているものへの回路を開き、個別で具体的な感覚を鍛え直してくれる機会を提供するものなのである。サイボーグという概念は、SFという一ジャンルを超えて、「より良い世界」への展望を開く装置として、これからも有効に機能し続けるであろう。  なお本稿は、一九世紀に偏重し、二十世紀および二十一世紀のサイボーグ文学についてほとんど言及することができなかった。それらの作品について論じることは今後の課題としたい。

(2008・9・1)
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