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目次 A.文学系 B.サブカル系 C.ノンセクション D.どうでもいい話 Abou me
 

  「冒頭の対話――イントロダクション」

Mr. Question (インタビュアー。以下M Q と記す。)
Mr. Curious (本ホームページの作者。以下M C と記す。)
M Q 「このホームページを開設するにあたって、作者である君の簡単な経歴を紹介してほしいのだけれど。」
M C 「20世紀後半に日本に生れる。性別は男。」
M Q 「きわめてシンプルだねえ(笑)。その(シンプルな)バックグランドは、やはりそれなりに君の考え方や感じ方に影響を与えているの。」
M C 「それなりにあるんじゃないの。国籍や母国語や性別というのは、完全に偶然の産物であるわけだから、そこに何がしかの「意味」づけをしても無益だし、時には有害にもなるでしょう。けれどもやはり物質的な拘束力はあるわけで、それを無視することはできない。それにそういったものと、反発を含みつつも、長年つきあってくれば、それなりの(限定つきだけど)愛着というのは生れてくるよね。だから、僕はそれなりにナショナリストだし、それなりにマッチョでもありますよ。しかしそれらに対して不当な執着心は持ち合わせてはいない。「形式」を盾にして「教育基本法」に愛国心を持ち込んだりするのは嫌だな。そんなことをしたって健全な愛国心はかえって歪められてしまうよ。そういうのはそういうのをやりたがる連中が敵視するアメリカによって押し付けられた戦後憲法と同じなんだから、愛国心の押し付けも問題視されなければいけない。不当さを前にすれば、僕はアンチ・ナショナリストにもアンチ・マッチョにもなるだろうね。」
M Q 「なるほど。なるほど。きわめてまっとうだね。しかしそういうまっとうさは、今は、なかなか理解されにくいんじゃないかな。つまり「正当さ」を目指すがゆえに原理的な検証を行うまっとうさというのは、それなりの知力や体力や気力を持つ人間じゃなきゃ、担え続けられないでしょ。まっとうであるためには、言い換えれば明晰さを持続するためには、意志の力や忍耐力が要求されるわけじゃない。で、そういう「忍耐」とかいうものって、今だと「マゾ」って言われるでしょ。「気持ちがいい」とか「自然体」という言葉を切り札に使われて、そういう傾向のものは押し流されてしまうということがわりかしあるわけだ。」
M C 「たしかにね。でも僕はべつにマゾではないけどね。僕は自慢できるものなどひとつも持ち合わせてはいないけれど、多少なりとも頑張ってきたと言えるのは、「公正さ」を目指してきたということだ。フェアであるということは、時には自分にとって不快なことも受け入れざるを得ない局面も含んでいるよね。そういう正当な反ナルシズムをマゾヒズムと揶揄されて否定されるのは心外だね。僕はナルシズムや「気持ちのいい」ことを否定するつもりは全くない。けれどもアンフェアな「気持ちのいい」ことは認める気にはならない。」
M Q 「言いたいことはよくわかるんだが、やはり君が目指しているかに見える一種ストイックな厳格性というのは、共感が得られにくいものだと思う。少なくとも多数派では、今のところ、ないと思う。」
M C 「うーん。厳格性がそれとわかってしまうというのは、僕のやり方が下手くそなんだな。おっしゃるとおり、「多数派」ではない言説に(目指しているわけではないが)結果としてなってしまうがゆえに、こうして僕はインターネットというメディアに頼らざるを得ないわけだ。といっても所謂「マスメディア」的なものに対して羨望のような感情は特に持ってはいない。「マスメディア」的な言葉というのは、イディオムみたいなものだから、便利だし、伝播性もあるんだが、あれはある程度は鈍感でなけりゃ付き合いきれないでしょ。僕のやろうとしていることは、マイノリティーのひとりごとみたいなものだが、独善性は絶対に避けたいし、それなりにレベルの高いところは目指す。」
M Q 「けっこうマジな志しが根底にあると?よけいな忠告をしておくと、「マイノリティー」とか「メジャー」という言葉は露骨に出さない方がいいよ。「マスメディア」的な「マジメ」と「フマジメ」の単調な図式にくくられてしまうから。」
M C 「まったくその通り。ああいう退屈な図式にはほんとうにうんざりさせられる。どうせやるなら「センスのいいマジメさ」と「センスの悪いマジメさ」の対立とか、「センスのいいフマジメさ」と「センスの悪いフマジメさ」という図式をつくってやる方が、より現実的だろうに。ああいう馬鹿馬鹿しい図式に平気でよりかかれるというのは、たんに精神が怠慢なだけだ。そういえば、昔、あっただろう。「反意味」だとか「反物語」だとかいうトレンディーっぽい風潮が。」
M Q 「あった。あった。「反意味」という意味、「反物語」という物語に乗っかってるだけのずるいやり方ね。身をもって生きるということをサボってやがるんだものな。たしかに怠慢だ。」
M C 「「意味」に真に対抗し得るのは「強度」であり、「物語」を真に批判し得るのは「事件」のはずさ。見栄えのするイメージを玩ぶだけというのは、天下り官僚的な不真面目さでしかない。「強度」とか「事件」を生きることは「生」の疲弊を伴わずにはいないものだから、怠慢な精神というのは許されないはずさ。」
M Q 「君は怠慢さを自らに禁じたいというわけ?」
M C 「うん。まあね。ある意味、「精進」というものを実践したいわけ」
M Q 「何を精進するのかな?」
M C 「まあ「芸」というやつですな。さっきの話でいうと、「マジメ」か「フマジメ」かという図式で物を語る連中に欠けているのは、「芸」ですよ。「マジメ」派にしろ「フマジメ」派にしろ「芸」がないんだよ。「真面目」ということも「不真面目」ということも、要は、パフォーマンスということだよね。だったら、問われるべきはパフォーマンスの質ということになる。「真面目さ」それ自体の、あるいは「不真面目さ」それ自体の「輝き」というものがあるのであって、僕はその両方の価値をパフォーマンスによって呈示してみたいと思っている。」
M Q 「つまり芸=パフォーマンスとしての「真面目さ」や「不真面目さ」というものを実践したいというのだね。」
M C 「そういうこと。ただ断っておきたいのは、僕にとっては「真面目」とか「不真面目」とかは、ある意味で、どうでもいいわけ。僕にとって問題となるのは「質」が高いか、低いかということだけだよ。質の高い真面目さもあれば、質の高い不真面目さもある。僕はどちらも全然 O K 。「多様性」というものが「多様性」として真に機能するのはそういう世界においてだよ。質の低い真面目さや質の低い不真面目さに対しては、露骨に敵意というものを持っている。」
M Q 「それが僕の懸念するところの厳格性なんだよね。そういうリゴリズムってスターリニズムとかそのへんのところに結びついてしまう傾向があるでしょ。」
M C 「スターリニズムか。なるほど。ただ僕は世間一般が持っているようには、スターリニズムに悪いイメージは持っていない。」
M Q 「スターリニズムは悪ではないと?」
M C 「スターリニズムは、結局のところ、性善説に基づきすぎていたのではないかな。つまり、世の中の人間のすべてが85点狙いの人間であるとカン違いしてしまったのではないか。けれども世の中には15点狙いの人間はやっぱりいるし、どうがんばっても15点レベルの結果しか出せないような人間もいる。(それは自然の悪意というものだろう)自然の悪意を考慮できない85点狙いのスターリニストはこう考える。「強制収容所にぶち込んで、たるんだ根性をたたき直してやれ」と。スターリニズムは、結局のところ、人間を買い被りすぎていたんだな。」
M Q 「そのへんのところはどうするつもり?」
M C 「ポジティブな曖昧さで誤魔化していくしかないでしょ。倫理的な曖昧さとでもいうのかな。つまり自民党とは逆のパターンだよね。」
M Q 「自民党はネガティブな曖昧さであると?」
M C 「うん。道路公団の問題なんかそうでしょ。地方の自民党議員は、利権がからんでいるんだろうけれど、表面的には地方と都市部との格差を楯にして使われない高速道路を造るわけだ。まあその言葉を字義通りに受けとってもいいし、じっさい地方も救われなけりゃならないわけだけど、地方に金が移される場合、彼らにはやってもらいたいことがあるんだよね。」
M Q 「何をやってもらいたいのかな?」
M C 「自分たちが社会主義者であることをカミング・アウトしてもらいたい。言うなれば彼らは北朝鮮の工作員みたいなものでしょ。(言葉は悪いけど)都市部の税金を地方へと拉致するわけだ。この際、人類はやっぱり社会主義を必要とせざるを得ないことを認めてもらいたいよ。御当人たちは「自由を守れ」「社会主義は我々の敵だ」なんて言っているけれど、その自由(経済)が地方を追いつめているわけなんだから。」
M Q 「彼らは「自由」だとか「民主主義」とかいう言葉を巧妙に誤用しているというわけだね。」
M C 「というよりは気がついていないんじゃないかな。まともな自民党議員は「日本的民主主義」というものが「社会主義」であるということは自覚しているだろうけれど。みんなちゃんと原理的な手続きを踏まないからね。真の問題というのは原理的な手続きを通して見えてくるものだよ。」
M Q 「原理主義者ではないけれど、原理の限界や問題点をきちんと認識するためにも、原理的であるべきだということだね。」
M C 「そういうこと。だから彼らには、ぜひとも、公の場で「社会主義万歳!」と叫んでほしいね(1)。それからレーニンのレプリカ像の台座にのっかって、レーニンの頬に自分の頬を擦り付け「レーニンラブ」と言ってもらいたい(2)。さらにレーニン像の太腿に自分の股間を押し付けて「レーニンエクスタシー」と吐息を洩らしてほしいよ(3)。以上(1)から(3)の一連の行動を心の底から真心を込めて遂行するのであれば、都市部の税金の拉致については僕は眼を瞑るよ。見て見ないふりをする。」
M Q 「まずはありえないでしょうけれど。でもたしかにきちんとつめて議論をしないことには、議論というもの自体が退廃していくよね。言葉がどんどん衰弱していっているというのは感じるな」
M C 「まあ、言葉が鍛えられるのはクリティカル・ポイントにおいてだから、普通の状況においてはどんどん紋切型にならざるを得ないわけであって、少し前にやたらと騒がしかった教育の問題もそれに似ているといえば似ている」
M Q 「ゆとりなのか詰め込み式なのかといったあの問題のこと?」
M C 「うん。詰め込み式の教育システムのもとでは、たしかに、創造性といったものは抑圧されざるを得ないけれど、逆に生産性は上がると思うんだ」
M Q 「 G D P とかそういうことね」
M C 「そう。質は関係なし。あくまでも量的なもの。生産性を支えているものは何かって考えると、やっぱり競争原理とかノルマとかいったものでしょう。何をやってもよいという状況を与えられたって、すべてが生産や創造に結びつくとは限らないんじゃないかな(結びつく可能性ももちろんあるけれど)。競争原理をゆるめたら経済戦争での敗北色が濃厚になったというか、たまたまだけれどゆとり教育の導入と平成大不況の時期が重なったということが、量的なもの(高生産性)へのノスタルジーを強化してしまったように見えるね。昭和の高度経済成長期のころは、創造性(オリジナリティー)なんて関係なしで外国のサル真似で「それ行けどんどん」の時代だしね。創造性が大事なんて言いながら、本気でそれにこだわる人は少ないんだと思うよ。生産性(生活水準)が下がれば、創造性なんてくそ食らえでしょ。」
M Q 「やっぱり変化や危険が嫌いなのかな。日本人は予定調和が好きだしね」
M C 「まさにそう。「自然は真空を嫌う」っていうあれだね。でもみんなエピクロスの見出す「クリナメン」を忘れているし、見ようとしたがらない。予定調和の原子運動は、そりゃ、「生産性」には都合がいいけれども、「創造性」は原子の逸脱運動の中にこそあるのは絶対に真実だもの」
M Q 「しかし原子の逸脱運動は、確率論的にはパーセンテージが低いよね。経済的なフィールドにおいては、アインシュタインよりもニュートンの方が優勢というか。だからそこには強烈なこだわりの姿勢というか、欲望の強さが必要となるんじゃないだろうか」
M C 「たしかにね。たいていの人は自分が何を欲しているかをよく自覚していないから、「とりあえずビール」の原理で「とりあえずお金」とか「とりあえず流行」というふうに流されてしまって、創造性よりは生産性の原理が勝利を収めてしまうのだけれど、僕はやっぱりアーティストとエコノミストの戦いでは。アーティストの方を支援したいと思っているんだ」
(以下二人の対話はまだ続いてゆくが、長くなるのでここでとりあえずカットとさせて頂く。)
(2004・8・14)
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