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  「サイボーグ文学について(4)」

三 一九世紀の女神(承前)
(iv)黄金への郷愁

 「複製」や「シミュラクル」とは、われわれの最も身近な具体的な物質で言えば、それは「貨幣」ということになろう。カール・マルクスが「急進的なleveler(平等主義者)」と呼ぶところの「貨幣」こそが、例えば「青森のりんご」と「和歌山のみかん」という質的に異なるものを、「五百円也」という量に還元することによって(「青森のりんご」=五百円=「和歌山のみかん」)、両者の質的差異を消去してしまい(「青森のりんご」=「和歌山のみかん」?)、その結果世界を平面的空間へと変貌させていくことになるのだ。重厚なSF研究書を著したダルコ・スーヴィンもまた、SF作家の視線が「未来の時間」に集中することを問題化するにあたって、その背景に「貨幣」の存在とその役割があることを指摘している。「となると、もう明らかだろう。未来への転換がなぜ起こったのか、その隠れた理由は、「自然」科学のみならず、経済基盤に立つ日常的慣習行動の拡大――商品フェティシズムと、生活の価値を測る普遍的物差しとしての貨幣の君臨――に関係がある、と。人類史上はじめて、資本主義テクノロジーが地球の統合を達成する」(『SFの変容』)

 『未来のイヴ』のエワルドとエディソンが「人造人間」ハダリーの実現を夢見ることになるのは、このような時代状況においてであった。本質的な価値の参照原基である「(黄)金」の代用品(複製=シミュラクル)にすぎない「貨幣」が、「(黄)金」という「超越性」によって支えられていた価値の秩序を均質的に水平化し、世俗的なものが勝利する時代。リラダンや彼の同時代のマラルメやユイスマンス、そして彼らよりは少し前の時代(第二帝政期)に属するボードレールやフローベールを苛立たせ、彼らの言語意識や芸術観に変容を迫ったのは、そのような王殺し(フランス革命)以後の「芸術」や「知」が共和化された時代であった。

 『未来のイヴ』においては、そのような状況は、ニュージャージー州の「メンロ・パーク」とニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアといった町々の対立という図式で描かれている。エディソンの実験室である「メンロ・パーク」が超越的価値を象徴しているとすれば、「富」のシミュラクルにすぎない「株」の取引の街であるニューヨークは世俗的価値を象徴している。リラダンのペンによって描かれるエディソンは、株の売買によって功利を図るような俗人ではなくて、松浦寿輝が指摘するように(『知の庭園』)、それとは対極にあるような――生身の歴史的存在としてのエディソンは功利主義的な俗物であるとしても――「倒錯すら感じさせるほど「精神的」な人物」であり、エワルドと彼の時代錯誤的なメンタリティーを多分に共有する人間なのである。

 第六巻第三章において、ハダリー製造のためにエワルドとともに「メンロ・パーク」に籠もるエディソンのふるまいに動揺し、滑稽な騒ぎを演じるのが、貨幣的卑小さを代表するジャーナリズムと世俗企業である。(リラダンの親友でも会ったマラルメ(一八八九年パリ万博のさなか、マラルメに看取られつつリラダンは施療院で窮死する)は、超越的な「黄金」の不在の輝きを担うのが「詩」の言葉であり、それとは対極にある卑小な「貨幣」のように記号化された言葉を流通させ、人々の感性の通俗化(凡庸化)に貢献するのが「新聞雑誌」のようなマス・メディアだと考えていた。マラルメはそのような同時代的状況を自分の生と言葉の条件だと見なして受け入れ、二つの異質な言語実践を生きようとした)エディソンの意味不明な実験室への蟄居を、世俗的ジャーナリズムは誤解し、「電気応用計算機」に関する各種の風説を巷に流通させる。このメディアの空騒ぎは、ガス会社に「メンロ・パーク」へと産業スパイを派遣させることとなり、誤解による噂の錯綜が連鎖し、ついには株の暴落が同時的に起こるといったコントのような事態にまで至る(世俗的価値体系の大混乱)。同じ第三章には、「北部に残存していた最後のアメリカ・インディヤン酋長シッテング・ブル」が「討伐に派遣されたアメリカ軍隊」に予想外の勝利を収め、このニュースがメディアや公衆の注意をエディソンから数日間そらすといった波乱のことも書き込まれている(メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の中でも、怪物が次のように語る場面がある。「アメリカがわの半球の発見のことを聞いた自分は、サフィーとともにそこの先住民の不幸な運命に涙を流した」)。これらのエピソードに見られる、時代遅れの「聖性」による現代的な「通俗性」への小気味いい復讐劇が、なかなか笑える。エワルドに欠けているのは、喜劇を通して(あるいは「笑い」を逆手にとって)、「崇高さ」を救い出すとでもいった「資質」である。

 ここまでの叙述から明らかなように、『未来のイヴ』に読まれるのは、リラダンの黄金(そしてまた黄金が黄金として定位されていた時代)への狂おしいまでの郷愁である(リラダンはその淵源を十一世紀にまで遡ることができる名門貴族の出である)。人造人間ハダリとは、「黄金」としての理想の恋人であり――その外見はルーヴル美術館のヴィナス像に瓜二つである。また「ハダリ」には「理想」の意味がある――その姿は、サイボーグというよりは女神に近い。『未来のイヴ』に触れる時、しばしばピグマリオン神話のことが言及されるが、ピグマリオンが恋するアフロディーテ(ヴィナス)は、プラトンの言うイデアのような存在である。プラトンによる「イデアと現象」という図式は、「黄金と貨幣」という図式にぴたりと重なり合うことは、容易にみてとれよう。さらにこの図式は、現代思想でお馴染みの「パロールとエクリチュール」という図式にパラフレーズすることができる。むろんこれらの図式は、根源的な事件=運動による派生的な効果であり、それは運動の軌跡=物語でしかない。それゆえ「黄金」もまた、じつは、物語中の一虚構にすぎないのである。事件としての「輝き」というやつは、物語(図式的制度)が押し付けるレッテルを無効にし、そのレッテルを成立せしめる図式について再考を促すようなものなのである。だが「黄金の物語」が機能しているかぎり、それなりに安定した秩序は維持される。このような秩序の記憶が、一八八〇年代には、かろうじて生き延びていたとするのが松浦寿輝/阿部良雄の見解である。

《「放っておけば崖の崩壊とともに危機に瀕するであろう」ボードレールの庭について語る阿部良雄氏の文章を本書の最終章に引用したが、その「崩壊」が実際に起きてしまい、西欧が一八世紀の晴朗な安定を根こそぎ失ったのが一八八〇年代だったのではないだろうか。「一九世紀の夢」とは、「崖の崩壊」という決定的な危機の到来の予感に脅えながらも、しかし同時にまた一八世紀的な静穏な秩序の記憶にもまだ依然としてゆるやかに浸されつづけているといった両価的なファンタスムだったと言える。殺伐とした二〇世紀的モデルニテと対置した場合、「崖の崩壊」以前に属するこの「夢」には、基本的に或る明るさが漲っているように思われる》(『知の庭園』跋)

 「両価的なファンタスム」を担っているのが、私の考えでは、「メンロ・パーク」の住人トーマス・エディソンなのである(ちなみに「殺伐とした二〇世紀的モデルニテ」に深刻に苦しんだのがフィリップ・K・ディックである)。「両価的なファンタスム」とは、ここでの文脈で言えば、「黄金的なもの」と「貨幣的なもの」のファンタスムである。ただしエディソンにあってのそれらの比率は、六対四(あるいは七対三)ぐらいで、「黄金的なもの」が勝っているというところだろうか。

 たとえば「メンロ・パーク」は、「ニューヨークから二十五里離れたところ」に位置していて、「ニューヨーク」に代表されるような「貨幣的なもの」から一定の距離を保ちつつ世俗性を斥けているかに見える。じっさいエディソンの生活環境は、次のような雰囲気に包まれているのである。「風は冷えて来た。昼間の雷雨が苑生の草を水浸しにして、――窓の下の、緑の鉢に咲き匂う、重い、頭にくるような香気を発するアジヤの花をもまた、しとどに濡らしていた。滑車に挟まれた横木にかけてある乾草は、気温のために俄かに生気を取戻し、森蔭にありし昔のかぐわしき想い出もかくやとばかり、馥郁の気を放っていた」近代ニューヨークの喧騒から背を向けて「ありし昔のかぐわしき想い出」の世界へとタイム・スリップしたかのようである。「メンロ・パーク」が湛える反アメリカ的、もっと言えば旧ヨーロッパ的気配は、エワルドの故郷の中世的な古城の世界と地続きになっている。エワルド自身の語るところによれば、それは「松の林と、荒涼たる湖水と、広々とした巌に取り囲まれたあの霧深い領地」に位置し、そのお城には「エリザベス女王時代の家具調度を置いてある、広大壮麗なお部屋」があるというのである。さらにつけ加えるならば、人造人間ハダリーが納められている地下室もまた、反世俗的な意匠に彩られている。「巨大な円柱が、間隔を置いて、玄武岩の円天井の前面の周辺を支えているので、入口から広間の奥の半円形まで、右手と左手に柱廊が出来上っていた。その円柱の装飾には、シリヤ趣味が若返っていて、土台から頂上まで、大きな草の束と、青味がかった地色の上にすらりと伸びた銀色の昼顔が表現されていた」

 こうして見ていくと「人造人間」と言いながら、過剰と言えるほどに「ありし昔のかぐわしき想い出」の中へと浸りきろうとする志向が強いことが覗える。このような「黄金への郷愁」は、エディソンの肉体そのものへまで投影されている。リラダンが描くところのエディソンの外観は次のようなものである。「エディソンは当年四十二歳。彼の容貌は、数年前には、一驚に値するほど、高名なフランス人ギュスタヴ・ドレ(フランスの画家。バルザック等の作品の挿絵担当――引用者註)のそれを彷彿たらしめた。学者の顔に翻訳されたこの芸術家の顔、と申しても過言ではなかった」

 よってそうであるがゆえにエディソンは、ハダリーを製作するにあたって、彼女の音声器官をつかさどる部分に、躊躇なく「純金」を採用することになるのである。「何故って、他の金属に較べて遥かに女性的に響く音色を授けられていて、遥かに感じやすく、特に或る方法で取扱われると遥かに妙音を発する黄金は、酸化することのない最も優秀な金属だからですよ。一人の女性を作り出すために、最も稀れな最も貴重な物質の数々に助力を仰がざるを得なかったという事実は注目に値します。つまりこれはかの魅惑的な性に対して讃辞を呈することになりますな」けれどもこの台詞のすぐ直後にエディソンは、次のような言葉をつけ加えることを忘れない。「けれど、関節の中には鉄を使わなければなりませんでした」

 「純金」というアンシャン・レジーム的美学のうちに、それを貶めるであろう「鉄」という新興ブルジョワ的素材を紛れこませずにはいられないエディソンの姿勢に、エディソンが図らずも担っている一八八〇年代の「両価性」が見てとれるのではあるまいか。おそらくはエディソンの中には、エワルドが執着する古きよき貴族体制的な世界への憧憬に似た感情が存在するのであろう。だがエワルドに全面的に同調するには、彼は「科学的」でありすぎる。エワルドのように「過去」の世界にみだりに呆けきるわけにはいかない。だからエディソンは、エワルドが「過去」の方向から世俗的な「現在」を撃とうとするのに対し、「未来」の方向からそれを乗り越えようとする。

《この私、すなわちこの下界で《メンロ・パークの魔法使》と呼ばれております私は、進化せる新しき世代の人類に対し、――要するに、「現代至上主義」の同胞諸氏に対して、――今後は、欺瞞的にして平俗、かつ転変常なき「現実」よりも、実証的にして摩訶不思議、かつ誠実二心なき「幻影」をこそ選んで欲しいと申出る次第であります。》妄想に報いるに妄想を以ってす、罪悪に報いるに罪悪を以ってす、蒸気に報いるに蒸気を以ってす、――いけないわけはありますまい》

 自分の眼の前にある「欺瞞的にして平俗、かつ転変常なき「現実」」を、科学的な「蒸気」の力によってエディソンは駆逐しようとする。人造人間ハダリーの中に「かの男を欺くあでやかな浮かれ女たちが、今後は無害の女性と相成り」「これまた「科学」の力により完成された性質を授けられて移しいれられる」ことが目指されるのである。

 こうした意図のもとにようやくのこと完成したハダリーと、エワルドは、「日蝕の日のたそがれ時」に、「メンロ・パーク」の庭園の中で二人きりになって向き合う。沈黙気味で、まるででくの坊のような印象を与えるハダリー(当初のうちはエワルドはアリシヤ本人だと思っている)であったのだが、エワルドの掻き口説く言葉に、彼女は雄弁さと華麗なる修辞を以って応じる。

《よろしうございますか!精神が、夢うつつ、うつらうつら、あわや「理性」と「感覚」の重力に再び捉えられようとしていて、今申したようなあの稀有な幻覚にみちた睡眠の混合流動体にまだすっかり浸されている時、――来世の選択の萌芽が、すでに現世から、萌しているような人、そして自己のもろもろの所業や内に秘めた思念が、自己の復活、もしくは自己の継続の、未来の肉と形とを織り成しているのだと、すでに、はっきりと感じている人、――およそこういう人は、そのとき自己の周囲に、或る名状しがたい別の空間が、――私どもの閉ぢ籠められている、目に見える空間が単にその表象にすぎないような、或る異る空間が実在することを、先ず第一に意識するのでございます》

 エワルド以上にエワルドらしい言葉が、第六巻第六章から第十章にかけて、圧倒的雄弁さとなって、ハダリーの口から迸り出る。第八章では「わたくしは誰か、と仰有いますの?……あなたの物思いの中に半ば目ざめた、夢の人物でございます」ともハダリーはエワルドに語るのだが、ハダリーはエワルドの心になりきって、エワルドを「「人間」が、或る種の夢想と或る種の睡眠との間でなければその青ざめた国境をかいま見ることの出来ないような、あの無限の国」の方へ押し出そうと使嗾してやまない。予想以上の凄まじさにエワルドは「こんな奇蹟は魂を慰めるどころか却って怯えさせるだけなのだ」と怯んでしまうが、そのようなエワルドをハダリーは次のような言葉で詰り、挑発し続ける。「あなたはわたくしをお棄てになって、あなたの軽蔑していらっしゃる或る意識の方をお選びになる。御自身の神聖を前にして後退りをなさる。縛られた理想に怯えていらっしゃる。「常識」があなたを呼び返しております。「人間族」の奴隷となって、あなたは「常識」に膝を屈し、わたくしを壊しておしまいになるのです」

 ハダリーの言葉はまさしく黄金のごとく美しい。まことに輝かしい黄金の顕現ぶりである。「人造人間」や「サイボーグ」といった言葉から連想されるいかがわしい陰影は払拭され、気高い「女神」のイメージばかりが輝いている。ハダリーはまた「天上界」という言葉を頻発する。

 けれどもそうした「女神」像を裏切る力が、ハダリーの中には蠢いているらしく、ハダリー自身が次のように語る。

「わたくしの中にはどんな後宮(ハレム)にも収容できないほど大勢の女がおりますの。お望みになれば、忽ちお望み通りの女が出て参りますわ!わたくしという幻の中にそういう女たちを探し出すのはあなたのお心次第なのでございます。(原文改行)けれど、いやですわ!わたくしの中に眠っている別の女たちみたいなもの、――そういう女たちの目をさまさないで。わたくし、そういう人たちを少しばかり軽蔑していますの」ハダリーという「女神」像には、ある抑圧が働いている。その抑圧が「別の女たちみたいなもの」を抹消しようとするわけだが、ここには「ずれ」の隠蔽がある。この「ずれ」は、巽孝之が「ガイノイド宣言」の中で指摘する西欧近代家父長制に連なる「アンドロイド」概念と、そうした「男性原理」に収まりきらないものとして措定される「ガイノイド」概念との間の「ずれ」にほぼ対応している。「ガイノイド」なるものの抑圧は、ダナ・ハラウェイ的フェミニズムの視点からも容認しがたいものであろう。ハダリーの「中に眠っている別の女たちみたいなもの」の間近に迫りながら、それを排除する方向を選び取る姿勢にリラダンの反動性と階級的限界が見てとれる(とはいえリラダン側から見れば、第三共和制下の時代思潮――拝金思想と物質主義――に対する違和感がリラダンにとっての切実な「ずれ」であり、これが「女神=黄金」幻想へと彼を駆り立てるのである)。「アウラ」を否定する写真という装置によって、絵画の「アウラ」を求めようとする奇妙なねじれがリラダンにはあるのだ。マルクス主義者であるベンヤミンは、「反動的な著作家たち」は、映画の意義を「宗教的な方向とはいわないまでも、超自然的な方向」に求めていると批判している(「複製技術の時代における芸術作品」)。

 「複製技術」によってアンチ「複製技術」への意志を体現する「女神」を生み出すことの矛盾を露呈するかのように、最終章においてハダリーは大西洋の海の藻屑となって消える。だがハダリーは消えたにしても、エワルドにはまだ、わずかながら、「一八世紀趣味の牧歌的な安らぎの空間」が残されている。阿部良雄がボードレールの姿を通して確認した「崖の縁に辛うじて身を支えるささやかな庭園」としての「エセルウォードのお城」において、エディソンへの電報で語ったように「幻の喪」に服しながら、余生を過ごすささやかな余裕を、エワルドは手にしている。

 けれども安らぎを保証する「ささやかな庭園」を奪われて、むごたらしいよるべなさを生きなければならなかった孤独な魂が、一八世紀のはじめに登場する。そのよるべなさを描いたのが、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』である。(「サイボーグ文学について(5)」に続く)

(2008・7・1)
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