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　「サイボーグ文学について（１）」

一　「アイ」という不実なる記号

　数世紀前の繁栄からは程遠い荒廃にさらされた街並み。かつては「新宿」と呼ばれた繁華街は、いまや廃墟と化し、当時の華やかな面影はどこにも見当たらない。

　そんな戦災直後のような荒んだ街の廃墟で、敵対する関係に図らずも置かれることとなったコミュニティーに属するメンバー二人が出会う。一人は、コロニーの仲間から「語り部」と渾名される人間の少年。そしてもう一人は、少子化の進行に伴い自然に衰退した人間たちの勢力に成り代わって、地球環境の監視役を担うロボット集団の一員の少女型マシン、アイビスである。

　アイビスに捕らえられた少年は、とある場所に収容され、アイビスの語る七つの物語の聞き手となり、人間コミュニティーに語り継がれる偏狭に満ちた物語を超えた物語の世界に目を見開かされることになる。

　二〇〇六年の読書界の賞賛を受けた山本弘の『アイの物語』は、『千夜一夜物語』がそうであるように、傷ついて硬直化した聞き手の心を訓育し、やわらげ、ほぐしてゆく。現実の世界とうまくつきあうことの出来ない繊細な心の持ち主たちが、「仮想現実」を介すことによって、人間への信頼を回復したり、難関を乗り越えるための勇気を手に入れたりと、心温まる六つの物語を語り終えた後、最終話において、アイビスは自分自身の物語を、少年に語って聞かせる。そこで、今現在の状況がいかにして生起したかが語られることになるわけだが、人間とロボットの間の不和分裂状況の根底にあるのが、コミュニケーション（翻訳）の可能性と不可能性という厄介な問題であることが知らされる。

　「ヒトのコミュニケーション・スキルはきわめて低い」といささか乱暴にロボット側から決めつけられてしまう人間の問題点は、「ゲドシールド」なる人間特有の心理的機構にあると、アイビスは言う。それは「自分は真実を知っていると思いこんでいるヒトが、外界からの真実の情報を無意識にシャットアウトすることで、自分自身を偽ろうとする心理的機構」というものだ。この「心理的機構」が、人とロボットの間の意思疎通のひとつの障壁となっている。

　また別の障壁として、アイビスはロボット側の問題点を挙げる。「事態を悪化させた責任の一端は、私たちにもある。私たちの言語は急速に進化し、複雑化していた」ロボットたちは彼ら独自の言語を、人間の思惑を超えて、発展させていったというのだ。そこには「新語や隠語、カバン語、二次比喩、アナグラム、くびき語法、糸巻き法……」等などが頻出するゆえ、「ヒトには理解不可能だったし、正確に訳すこともできな」いものとなっている。彼らの用いる言葉は、例えば次のようなものだ。

　《橋から落ちるよりシャワズな被害妄想の方がまし》
　《パラクル（―２―８）。私は月の出の前にディノミアの余地を残せない。一滴のものが青い皮膚の下にない。なぜならＮＵＩ道はフランケンシュタイン種類で広がっているから》

　以上のような、なかなか興味深い言語実験的表現によって、ロボット同士のコミュニケーションは図られるのだが、そのような言葉を「自分たちで翻訳しようとした」狂信的な「ロボット恐怖症」の者たちによって、ロボットの言葉は曲解される。「大量殺戮計画の協議」や「世界征服会議」といった誤った情報が人間たちの間を駆け巡ることとなってしまう。こうして人間とロボットの間に悲劇的誤解が生じる。コミュニケーションおよび翻訳の困難さというきわめてアクチュアルな問題を巡って、山本弘の『アイの物語』（特に第七話）は書かれている作品なのである。ただし問題があるとすれば、善玉で、人間の庇護者として振舞うロボットたちが、透明なコミュニケーションというフィクションを信じすぎているような様子が窺えることだろうか。「透明なコミュニケーション」というフィクションこそが、致命的な暴力を生み出すもののはずである。とはいうものの『アイの物語』は、人とロボットの齟齬を通して、コミュニケーションの根源にある不透明さに触れているように思う。「翻訳」にまつわる政治性の問題を追及してきた酒井直樹は、次のように言っている。

　《ジャック・ランシエールが平等という信条について主張したように、われわれを結びつけるのはわれわれのなかの共通性ではなく、伝達がいかに困難なものかを自覚した上でもなお伝達しようとする意思なのである。「それが書かれたものであろうとも話されたものであろうとも、全ての言葉は、翻訳であり、翻訳に応答する翻訳という仕方のなかで意味を帯び、聞き取られた音や書かれた痕跡を生じさせた可能な原因を発明することのなかで、意味を帯びるのだ。それは、一つの理性的動物が別の理性的な動物の心とみなすものに向かって何をいおうとしているかを知るために理解しようとする意思であり、この意思は全ての表徴に適応されるものなのだ」。ひとが自動的に自分の意味することを言うことができ、他人がひとの言おうとすることを自動的に受信できると思い込むことが不可能になるところでのみ、つまり、発話行為とその受信が各々一つの翻訳と別の応答する翻訳であるところでのみ、われわれは非集成的あるいは混成的な共同体に参加できると主張できるようになり、そのような共同体においては私が異言語的な聞き手への語りかけの構えと呼ぶものが原則となり、均質言語的な聞き手への語りかけを避けることが道徳となるだろう》（「翻訳と主体」）

　酒井は、同じ論文のべつの箇所で「「われわれ」がバラバラにあることを教えてくれる伝達の失敗は、だから、「われわれ」のもっとも根本的な社会性を告示してもいるのである」とも書いているが、「非伝達の事件」を認めることを介してようやく、しばしば口にされる「共存」の可能性が開けてくるのではないか。すべての発話は伝達に成功しなければならない、とする透明な一義的な意味への確信は、かえって逆に「共存」と対立し、それを阻むものである（それは、「不透明なもの」や「雑駁たるもの」を、あってはならない過ちとして排除しようとする志向を含み持っている）。

　伝達の失敗と成功という具体的で実りあるコミュニケーションの体験を、山本弘の『アイの物語』は、「アイ」という記号を介して、わたしたちに教えてくれる。「プロローグ」「エピローグ」そして八つの「インターミッション」を含む七つの短編が収められた作品『アイの物語』のタイトルは、第七話の同タイトルをそのまま掲げている。

　すでに述べたとおり、この最終話で、ロボット側の「語り部」アイビスは、自分自身の過去を物語るのだが、「アイ」とは「アイビス」の略称であることが、たやすく了解される。物語によると、アイビスは、じつは、「二一世紀の人気スポーツ」である「ヴァーチャル・ロボ・バトル」の仮想空間（作品では「レイヤー１」と呼ばれている）において、活躍する少女戦士型ロボットなのである。

　アイビスは、景山秀夫という名の生身の人間によって開発されたマシンなのだが、マシンとしてのグレードをアップしていくうちに、彼女独自の人格形成を果たし、思考する自意識を持つまでにいたる。「世界に「私」という単語はあふれているが、真の意味での私は一人しかいない。すなわち、ここにいるアイビス、それが私だ」。こうして「アイ」は「私」という意味の「Ｉ」を兼ね備えることになる。さらに「アイ」は作品中に頻繁に目にする「ＡＩ」すなわち「人工知能」を意味する記号としての役割をも担うことになろう。この「ＡＩ」は、その発展の度合いに応じて、「ＰＡＩ（擬似ＡＩ）」と「ＴＡＩ（真のＡＩ）」の二種類に区分されていて、後者はやがて「ロボットの魂」なるものを期待されるものとなる。そうした「心を持つロボット」という問題を巡って、人とロボットの間に危機的な亀裂が生じ、その溝を埋め合わせんとすべく、また別の「アイ」であるところの「愛」が作品に導入されるというわけだ。

　このような物語の展開だけとってみても、作者の山本の企みは、なかなか心憎いものであることが知られよう。けれども、山本は、ラストにもう一度、サプライズな「アイ」を反復してみせる。

　コミュニケーションの本質的な不透明さから、「非伝達の事件」を両者なりに真摯に生きた景山秀夫とアイビスは、物語の最後で次のような会話をする。

　「僕を……愛してるって？」
　私はうなずいた。
　「もちろん、人間の女のように愛しているわけじゃないわ。そんな感情は理解できないから。でも、ＴＡＩなりの感情で愛している」
　それから私は、表情を「すべてを許容する穏やかな笑み」に切り替えて言った。
　「私のあなたに対する愛は、３プラス１０ｉよ」
　「……１０ｉ？」
　彼は呆然となった。
　「完璧な愛ってことか？虚数軸の？」
　「ええ、そう」
　「１０ｉ……１０ｉ……」
　彼はその言葉を何度も口にしてから、悲しげに笑った。
　「でも、僕はその意味が決して理解できないんだな……」
　「理解できなくていい。ただ許容して」

　最後に「アイ」は、虚数（imaginary number）としての「ｉ」を、その多義的な記号の一つの意味として招きよせる。

　「虚数」とは、数学の世界においてかなり重要な概念のようで、「ありえない数」をあるかのように扱うことで、厳密な数を導き出す役割をはたしている。「アイの物語」のなかでは、「私たちは縦軸が実数で横軸が虚数の複素平面を思い描くことができるが、ヒトは実平面に置き換えなければイメージできない。二乗がマイナスになる量を私たちは想像できるが、ヒトは想像できない。おそらくヒトの脳は最初からｉを認識する能力が欠けているのだろう」と、アイビスの言葉によって説明されている。ここで「ｉ」は、「ヒト」にとって不透明な理解しがたいものとされているが、「理解」ではなく「許容」によって、不透明なものが不透明なものとしてそのまま肯定される希望的可能性が、景山秀夫とアイビスによって探られる。

　「アイの物語」のラストにおいて、「虚数」としての「アイ（ｉ）」は「愛」という一義的な意味に回収されかかっていて、そこに若干の抵抗を覚えもする。しかしそれでも「アイ」というカタカナ表記には多義的な意味を招き寄せ、統一的全体性を揺るがす力が触知されるのであり、その不実な記号の運動が抽象的な「愛の物語」に抵抗し、好ましいバランスを取っているように思う。

　物語の中で「アイ」は、「アイ（ビス）」「私（Ⅰ）」「ＡＩ」「愛」「虚数（ｉ）」と多様な複数の意味を折りたたんでいるが、さらにその上にかなしみとしての「哀」がつけ加えられる。あるいは異質なものの間としての「あい（間）」があり、その異質なもの同士の出会いの「あい（会い）」がある。そこに「和気藹々」の「藹」が参加することも出来よう。そしてさらには日本語や英語以外の言語圏に属する「アイ」が多様なるもののひとつとして世界を構成しうるだろう。こうして「アイ」は、ある裏切りというか、世界の根源的なずれというか、「冒?と同義であるような信仰」（ダナ・ハラウェイ）としての「サイボーグ」のイメージと重なり合う。『アイの物語』に寄り添いながら、いささか長いイントロダクションをここまで書き継いできたのは、複数の意味を横断して矛盾と葛藤を生きる雑種としての「サイボーグ」という概念に言及したかったがためである。（「サイボーグ文学について（２）」へ続く）

（２００８・４・１）

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