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  「阿久作品私的ベスト10および極私的芸能論(3)」

 「阿久作品私的ベスト10」も、いよいよこれで締めに入る。では第7位から。

 同点第7位「舟唄」(1979年) 歌:八代亜紀
 八代亜紀といえば、レコード対象を受賞した「雨の慕情」(1980年)もあって、曲としての完成度はこちらの方が高いと思うし、どちらを採るのかいささか迷うところはあったが、「舟唄」を選ぶことにした。理由は、タイトルとなっている件の「舟唄」が、「物語内物語」のように、挿入されている曲の構成が面白いのと、当の「舟唄」の歌詞「沖のかもめに深酒させてヨ/いとしあの娘とヨ 朝寝する ダンチョネ」の「ダンチョネ」が「断腸」から来ていることを、阿久が亡くなる少し前に知って、強い印象を受けたからである。民間伝承の素朴ではあるがしみじみした恋物語が、長い時間を通して潮風に鍛え上げられていくうちに、いぶし銀のような艶を帯び、すんでのところで「神話」に成りそうな所を、含羞を含んだ秘められた高貴な粋の身振りのうちに「ダンチョネ」と、身をかわしているような佇まいに、心を動かされるところがあったのである。(有名な「お酒はぬるめの 燗がいい」という歌詞はさほどいいとは思わない。あくまでも通俗だと思う。やはりこの歌の肝は、挿入歌としての「舟唄」にある。この部分に、私は世俗世界の「オデッセイ」とでもいうような高貴なる者の横顔を見るような思いがする)

 藤沢周平が描くところの、下級武士の「鈍い輝き」にも通じるそのような歌世界に八代のハスキーヴォイスがうまく嵌まっている。天に突き抜けるような麗らかさというのでもなく、富士山頂から拝み見る大輪の太陽というのでもなく、藤沢周平の下級武士や深沢七郎の貧農の次男坊の横顔にふと横切る質素な神々しさとでもいうか、わけわからん比喩に陥りそうだが、要するにカッコいい脇役の輝きを、私は八代のヴォーカルに感じるのだ。「舟唄」に登場する地味な漁村の居酒屋もそうしたものであろう。これは私の勝手な妄想だが、美空ひばりのような生まれながらの「横綱」ではなく、一見ぱっとしないのだが、じわじわと共感が沁み込んでくる田中清(『のたり松太郎』の脇役)が、人知れず「鉄砲」に打ち込んでいるような「あすなろ唱法」(地を這うようなハスキーヴォイスをとりあえずそう呼んでみたのだが、なんだかしまらないレトリックだなあ)に引き寄せられている自分を発見する。

 と上記のようなことを書いておきながら、思いっきり矛盾してしまうのだが、八代亜紀と往年の東映の看板女優藤純子が、私の中では、どこかでつながっている。藤の当たり役である「緋牡丹のお竜」と八代の出身地が、ともに同じ「熊本県」であることが、多分その理由である。私の記憶では、ヴァラエティーのコントかなにかで、八代が「緋牡丹のお竜」を演じているのを小学生か中学生の頃観たことがある。オリジナルのお竜よりも、八代版のお竜の方を先に観ていたことになる。

 私は「任侠もの」のこのキャラクターが好きで、特にシリーズ第1作の『緋牡丹博徒』は名作だと思っている。評論家の上野昴志は、お竜という人気キャラクターを「女を捨てた女」「観念としての女」と批判している。上野の言うことはもっともだとも思うのだが、逆にそこに可能性があるのではないだろうか。お竜の「中性性」は、私の中では、ダンヌ・ジャルクのイメージと重なっている。八代のぎりぎりの範囲で許容されるハスキーヴォイスも、また、中性的な女のイメージとうまくつり合っているように思う。「舟唄」が、八代にとっての初めての「男歌」らしいが、八代は「男歌」を見事に歌うことのできる歌手である。「雨の慕情」に見られる「耐える女」も、もちろんうまい。ただ、蛇足ながら付け加えておくと、「耐える女」というのは「男気」と通じている。

 ところで、私にとっての日本映画史最大の女優は、藤純子である。原節子でも、吉永小百合でもない。映画の被写体としての藤純子は、とにかく凄い。そのような感慨は、私個人の(=マイナーな)ものかなあと思っていたのだが、ある時、古典的なゴリゴリの知識人イメージの強い加藤周一が、藤純子引退の折に、「さらば藤純子」というオマージュを「毎日新聞」に2回にわたって発表したことがあるという話を知った。意外であったが、「周さんたら、けっこうナンパなのね」と微笑ましさを感じてしまった。

 藤純子についてはいろいろと書きたいことがあったが、長くなりそうなのでやめておく。ひとつだけ書いておくと、「緋牡丹」シリーズの主題歌は、赤福や不二家の判断ミスに匹敵するほどの失策である。浅田美代子の「赤い風船」は、苦笑しておけば済んだが、藤のヴォーカルは、あまりに安易にブランドに泥を塗ったことへの戸惑いと怒りを感じる。あそこは吹き替えで偽装しておくべきだった。

 第9位「ミュンヘンへの道」(1972年) 歌:ハニー・ナイツ
 あまり有名な曲でないし、『人間万葉歌』にも収められていないのだが、この曲をはずすことはできなかった。「阿久悠」という固有名が、私の胸に深く刻み込まれたのはこの曲によってである、と言っても過言ではない。1972年にTBSで放映された『ミュンヘンへの道』の主題歌である。前にも書いたことがあるが、ミュンヘン・オリンピックで金メダルを狙う全日本男子バレーボールチームの道筋を描いた実録ものアニメ(一部実写)である。スポ根ものの延長で見ていたが、リアリティがあって、大人な感じがした。また阿久悠による歌詞も(もう覚えてはいないが)、レベルが高く、文学的な感じがした。旧制高校の応援歌かなにかのようであった。『巨人の星』の有名な主題歌が幼稚なものに思えたくらいである。この曲を聴いていると「前向きに生きろ」と励まされる感じがした。阿久悠という人は信頼できる人であり、目標にすべきモデルであると、幼いながら思ったのである。

 この番組後、全日本チームは、本当に金メダルを取ってしまったのである。ミュンヘン・オリンピックでは、塚原光男の「月面宙返り」にも興奮させられた。76年のモントリオール・オリンピックでの男子体操チームの逆転劇にも、夏休みの伊東あたりの旅館で、同じ年の従兄弟と盛り上がって見ていた。まるで劇画かドラマのようであった。この頃の「いいもの」を観たという記憶が、免疫作用となって、80年代のシニシズムを撥ね付ける働きとなった。70年代の免疫とは、「性善説」への信頼のようなものである。80年代は「性善説」が嘲笑され、「性悪説」がお洒落でクールなものという図式が定式化された時代であった。近年のモラルや性善説の崩壊は、べつだん、驚くようなことではない。このことは80年代に予想されていたし(忘れられた映画『コミック雑誌なんかいらない』はその気分を掬い取っていた)、当時「性善説殺し」に加担した者たちが憂い顔で、いまモラルの崩壊を嘆くさまは、醜悪すぎてなかなかの見世物である。自分たちで息の根を止めておいて、よく言うよ。テレビのわりとお堅い番組で、「日光猿軍団」レベルのものを見せられるというのは、頼みもしないのに熱湯風呂に入れられているようで、なかなかゴキゲンな気分にさせられる。

 話を戻そう。すでに書いたように、「ミュンヘンへの道」は『人間万葉歌』には収録されていない。代わりに子供向け番組の歌で収録されているのは、「宇宙戦艦ヤマト」や「ウルトラマンタロー」である。「ヤマト」はわかるとして「ウルトラマンタロー」の選曲はちょっと解せない。阿久の死後、「デビルマン」の主題歌の作詞も阿久が手がけたということを知ったが、「ウルトラマンタロー」よりは「デビルマン」だろう。「デビルマン」と同じ年(1972年)には、望月三起也の人気コミック『ワイルド7』のテレビ化もあって、この番組の主題歌はかなり好きだった。この歌の詩も、じつは阿久が書いている。72年前後の阿久の充実ぶりは、ホントに凄い。この歌の作曲は森田公一が担当している。阿久・森田コンビといえば、「青春時代」が有名だが、「ワイルド7」の方が、個人的には、はるかに素晴らしい作品だと思っている。「青春時代」を名曲だと語る人が、かなり多いのには驚かされるのだが、彼らにはかなり真剣に訊いてみたい気持ちがある。「青春時代」のどこがいいんですかあ?

 第10位「渚のシンドバッド」(1977年) 歌:ピンク・レディー
 当初はピンク・レディーを選ぶつもりはなかったのだが、世間の顔色を窺ってしまった。「世間に負けた」である。「空気を読め」ファシズムへの屈服である。そのような譲歩のもとでのピンク・レディーの登場であるが、「ペッパー警部」と「渚のシンドバッド」のどちらを選ぶかでは、迷うところがあった。「ペッパー警部」はスピード感があるのと、有名な股開きの振り付けが印象的だったのが候補の理由。けれども全体のバランスからみて、「渚のシンドバッド」がランクイン。「UFO」以降のピンク・レディーは聴くに堪えない。「地球の男にあきたところよ」というフレーズも凡庸なものにしか思えなかった。けれども人気が落ちたあとに発表された「マンデー・モナリザ・クラブ」(『人間万葉歌』特典盤に収録されている)は、それまでのピンク・レディーには見られなかった劇画的ビートの曲でなかなかいい。「渚のシンドバッド」よりもいいくらいである。

 ピンク・レディーへの私の支持が弱いのは、アイドル文化への共感が私の中にほとんどないからである(瞬間的にはあったのだが、そのことはあとで触れることにする)。当時はピンク・レディーのミーちゃんとケイちゃんのどっちを支持するという他愛のないゲームが私の周辺にもあって、私自身もお付き合いで参加し「ミーちゃん支持」を表明していた。8対2ぐらいの割合でミーちゃん圧勝といった様相であった。このようなゲームはキャンディーズの場合にもあって、私はランちゃん支持にまわった。ただしどちらの場合も本気ではなかった。キャンディーズのなかではスーちゃんが以外なほど人気が高く、この現象も私の理解を超えていた。「スーちゃんは世間をなめている」というのが私の見解であった。当時は桜田淳子、山口百恵、森昌子の「高三トリオ」というのがあって、この(仕掛けられた)ブームも理解できなかった。私と仲のよかったバレーボール部員2人が「桜田淳子ファンクラブ」に入会していて、2人の前で、うっかり、「趣味が悪いなあ」と口を滑らせてしまい、2人からシメられそうになったことがある。彼らの話によると、「桜田淳子ファンクラブ」に入会すると「桜の花」のデザインのバッジが送られてくるらしく、そのバッジだけは欲しいと思った。

 私が大学生の頃は、アイドルブーム全盛期で、辟易としていたところがあった。だからとある飲み会の席で「好きな芸能人は?」という話になり、どうしても思い浮かばず、「吉永小百合」と答えたら、周囲がどよめいてしまい、その反応を見て「なんで?そんなに反社会的な美的価値観でもないだろうに」といささか焦ったことがある。

 ただし中学生くらいまでには芸能人を見て「この人きれいだなあ。いいなあ」と思った経験が、長くて3ヶ月くらい、短いのだと5分くらいのものがあった。余興として「わがアイドル遍歴」を記憶の古い順から辿っていってみよう。きっかり10人である。箇条書きでいく。

(1)いしだあゆみ
 一番古い記憶では「ブルーライト・ヨコハマ」を歌ういしだあゆみをテレビで見て、目が釘付けになったという経験である。日本人にこんなにきれいな人がいたのかと、びっくりしてしまった。子どもの頃の私は、目がぱっちりした西洋人系の顔が、男女問わず好みだった。こういうことを書くのは気が引けるが、石森章太郎のアニメ『サイボーグ009』に登場する003が好きであった。中学生の頃、平井和正の小説を読んでいたら、ヒロインの描写に「石森章太郎描くところの美女に似た女性」というような表現が出てきて、自分の嗜好はなにがしかの普遍性があるのだなと納得した。

(2) ベッツイ&クリス
 西洋人系の顔に惹かれる私は、だから、「白い色は恋人の色」を歌う彼女たちの姿を見て、胸をときめかせたのであった。まずはあの声質に引っかかったと思う。清純派唱法というようなヴォーカルであった。曲もよかった。顔は完璧な美形というのではなく、やや崩れ気味で、ファニーフェイスなキュートさもかえって惹かれるところがあった。

(3) 南沙織
 沖縄と思しき浜辺で、ロングヘアーを風になびかせながら、「十七才」を歌う南沙織のプロモーション・ビデオ風の映像を見た時は、衝撃が走った。アニメのヒロインが現実世界に到来したかのようであった。当時スポーツ刈りを強要されていた私は、髪の長い女性に弱いところがあった。だからこんなことがあった。クラスメート2人と小学校からの下校途中、「将来どんな女性と結婚したいか」という、とても小学3年生がするとは思えないような話になった。私は「髪が長くてきれいな人」と答えた。I田君というやや肥満気味の男の子は「やせていてきれいな人」と答えた。もう1人のS原という、なにかと「自分は他人とは一味違う」というようなところを見せたがる嫌味なガキは「たとえ見た目が醜くても心のきれいな人」という予想だにしなかった言葉を発したのである。当然、私とI田君は、かつーんときてしまった。「だったらおまえ、将来、O谷と結婚しろよ」と私たちはS原に迫った。O谷さんとは、私たちのクラスで一番のおデブちゃんで、顔も下から順位を数えた方がいいような女の子で、まあブスの代名詞のような存在であった。「明日学校へ行ったら、O谷にプロポーズしろ」と、私とI田君は、下校中、S原を攻め続けたのであった。

(4) ジャネット・リン
 ある一時、ジャネット・リンを心の恋人とした人は多いのではないだろうか。私もその1人だった。札幌冬季オリンピックのアイドルであった。あの後世に語り継がれる女子フィギュア・スケートのフリー演技を、私はテレビで何気なく見ていた。はじめはなんとも思わなかった。「美人だ」とは、とても言えるような顔立ちではなかった。彼女が着ていたオレンジ色の衣装が鮮やかで、健康的な雰囲気によくマッチしているなあとは思っていた。そしてあの有名な「しりもち」である。絵に描いたような「しりもち」で私はびっくりした。「どうするだろう」とはらはらした気分で見ていたら、彼女はそのような場面でしか見ることのできないような笑顔を見せ、果敢に立ち上がって演技を再開したのである。その瞬間、私のハートのど真ん中は、ドキューンと、見事に撃ち抜かれましたね。「アメリカ人に生まれたかった」と、かなり本気で思った。1976年のモントリオール五輪のコマネチも話題となり、周囲の同級生たちが騒いでいたが、私は関心がなかった。この年は、ジョディ・フォスター(13歳の娼婦役)やアグネス・ラムが、周囲の男どもの話題になることが多かったが、その騒ぎを冷めて見ていたように思う。それよりもこの年は、周囲の誰もその名を口にすることはなかったが、私に衝撃をあたえた「スゴ珠」が登場する。彼女の話題は後で取り上げる。

(5) 島田陽子
 小学校の高学年では、『ポセイドン・アドベンチャー』に出演していたパメラ・スー・マーティンがいいなあと思っていたのだが、小6の時に、島田陽子にかなり入れあげた。芸能人にかなり真剣に入れ込む経験というのは、この時が最初で最後である。当時島田が出ていたタイトルは忘れたが、浅草あたりの車屋が舞台のテレビドラマの影響による。萩原健一が若い車夫を演じていて、伴淳三郎がその親方。島田は目が不自由という設定で、萩原と島田の恋物語である。相当にベタで、今見たら真剣に見ることはできないと思う。背が高いのに可憐な感じが新鮮だったし、笑うと片頬にえくぼができるのにやられてしまった。小6の3学期は、島田熱に浮かされているような感じだった。島田見たさに『砂の器』を見に行ったくらいである。その映画での島田は、不幸な役柄だったし、ものすごく悲惨な死に方をした。さらには島田はヌードを晒していて、そのヌードも胸が薄いわで、私は呆然となっていた。映画のストーリーも、子供にとっては、重苦しく、散々な眼にあった。拾い物だったのは、映画のサウンドトラックの「宿命」で、この曲を聴けたのが救いであった。この曲によって、私はそれまで関心のなかったクラシック系の音楽に少し興味を持つようになった。

(6) ザ・リリーズ
 中学校に入学すると、3週間ほどザ・リリーズのファンをやっていたことがある。雑誌の広告か何かで彼女たちの写真を見たのがきっかけだったと思う。久々の正統派アイドルのヒットという感じだった。もともと私の美的価値観は60年代よりで(だから「いしだあゆみ」「石森章太郎の描く美人」となる)、70年代にあるストリームを作りつつあった「隣のお姉さん」的なアイドルの隆盛が解せなかった。伊藤咲子とか清水由貴子とか、なんでアイドルなのか世の七不思議のひとつであった。この流れは、『赤い嵐』での怪演が語り草となる能瀬慶子において退廃の飽和点に達し、ついに自壊する。そのようなよくはわからない75年前後のアイドル状況において、ザ・リリーズは、頭ひとつ(ルックス的には)ぬけ出ていた。身近な周囲には見当たらなかった。件の写真を見た時は、「She(あるいはThey) is(are ) just my type.」という感じだった(当時はそんな英語のフレーズは、もちろん、知らなかったが)。けれども彼女らの歌う歌(「好きよキャプテン」)を聴いて、膝から力がぬけていった。歌の内容が、わざとらしくて、ダサかったし、歌唱力も劣っていた。何よりもタレントが持っていなければならないであろう「リズム感」が、決定的に、欠けていた。接したことはなかったが、「喋り」も下手そうだった。短命なアイドルでしたね(今も活動はしているらしいが)。

(7)斉藤友子
 NHKの「少年ドラマシリーズ」が好きで、中学2年生までは、それを見る習慣があった。斉藤友子は、そのシリーズの『明日への追跡』(1976年)で、デビュー。『明日への追跡』は、シリーズ中、なかなかの名作だった(と記憶している)。光瀬龍の原作もあわせて読んだ。シリーズでのベスト1は、『タイムトラベラー』というのが妥当なところなのだろうけれど、ここでは『ぼくがぼくであること』を挙げておく。斉藤は、いかにも70年代的な可憐なヒロインを好演していて、注目した。「少年ドラマシリーズ」の成功によって、メジャー化するタレントは多いようで、斉藤も、その後、民放の青春ドラマの常連となるのだが、私自身は、特に日本テレビで放映されていた「学園もの」が、苦手でならなかった。小学生くらいまでは、まあ、見ることはできたが、中学生になると、まともには見ることは不可能である。高校生になると、噴飯ものであった。「青春学園ドラマ」というのは、高校生世代にとっての、『水戸黄門』ではないだろうか。まともな神経を持ち合わせていたら、ついていけない。お笑いでネタにされるのも、そのためである。ある時、たまたまつけっ放しのテレビで『水戸黄門』が流れていて、何の気にはなしに見ていたが、ものすごいストーリーに、こんなの観続けていたら脳みそが腐ってしまう、と思ったことがあった。東野英治郎のシリーズは、フィルムの質感や肌触りに「昭和」を感じて、再放送で見ると見ていて和むところはある。似たような感慨は「NHKのど自慢」にも持っている。この番組を見ていると、「日本には田舎があるなあ」と思うし、時間の次元で言えば、「昭和だなあ(「昭和」=歴史上の田舎?)」と、思うのである。番組内容は、出演者の中に着衣の小島よしおみたいのが混じっていたりして、不快になったりするが、あくまでも浅く見る程度である(べつに小島よしおを嫌っているわけではない。江頭2:50の成功した後継者であろう。江頭の自滅する快楽に取り憑かれているとしか思えない芸風にはシンパシーを覚えてしまう)。「NHKのど自慢」は、私にとっては、「環境ビデオ」としてある。「昭和」のシャワーを浴びる、といったようなもの。昭和40年代までは、よく見かけた「ブロック塀」が、やたらと懐かしい。たまに見かけるとしげしげと見入ってしまう。この手の風景がどんどん消滅してゆくが、「ブロック塀のある風景」なんとか保存されないかなあ(けれどもそれでは「生きた風景」ではないだろう)。

 話がそれているので、斉藤友子に戻ると、80年代に入ると斉藤の人気は、一挙に凋落する。その劇的な凋落に、私は共感を覚える。とりわけ印象に残っているのは、84年の秋ごろ放映された斉藤の出演した2時間ドラマである。題材は、当時の話題の人「三浦和義」。ずばり80年キャラである。当時ブレーク中の萩原流行が、三浦を演じた。三浦の妻を演じたのが、70年代アイドルの斉藤友子。ドラマの中で、萩原が斉藤を風呂場で容赦なく痛めつけるシーンがあった。その場面の陰惨なこと。まるで70年代が80年代になぶり殺しにされているかのようであった。84年には、ちばあきおとリチャード・ブローティガンの自殺があり、その場面と彼らの自殺が、私の中では、つながっている。84年ごろ、私は70年代の死を確認したように思う。現在もなお、斉藤は芸能活動を続けているようで、近年は広島の被爆問題と関わりをもっているらしい。斉藤が、いまもなお、70年代の気風の持続を負っている様子であることに、私はホッとさせられるところがある。

(8) 真行寺君枝
 真打登場。1976年、資生堂秋のキャンペーンは「ゆれる、まなざし」。そのキャンペーン・イメージ・キャラクターに真行寺が起用された。そのコマーシャル・フィルムの一場面で、冬の結露で曇った窓ガラスを左手の掌で拭う真行寺のはっとさせられる美しさには、鋭角的に突き刺すような力があった。「ビュ、ビューティフルだあ」と畏敬に似た感動を覚えた。その感動には宗教的なものすら含まれていたように思う。窓ガラス一枚で隔てられた決定的な「遠さ」が、美における崇高のようなものを喚起させた。75年ごろまでの資生堂のCMは、アート志向が強かったように思うが(時代の美学が「映画」「劇画」よりだった)、「ゆれる、まなざし」もそちら側だった。もちろんガラスの向こう側の真行寺の画面は、アイドル文化圏に属するものではない。この時の真行寺がまだ17歳だったというのには驚かされる。驚くべき存在感である。また、このCMに登場する煙草をふかす男も、意味不明だが、存在感だけは強烈である。いかにも70年代の2枚目といったふう。80年代にこのタイプの男は、テレビの画面にはいなかった。この匂いを感じさせる男というと、佐藤浩市ぐらいしか思い浮かばない。「煙草をふかす男」は、ネットで、CMフィルムを見直して思い出したものである。真行寺についても、冬の窓ガラスの場面のみ記憶していた。ポスターもこれが使われていたように思う。今回CMフィルムを見直して、窓ガラス越しのアンニュイな真行寺が植物的だとすると、サングラスでおどけてみせる真行寺は、また違った表情をみせている。野生的な猫といった風情である。植物系の真行寺は、今現在は、高い支持は得られないと思うが、猫系真行寺は、今でも、支持率が高そうである。このコマーシャルのタイアップの曲は、小椋佳の「揺れるまなざし」。この曲が映像とばっちりはまっている。小椋はこの時期がピークだったように思う。植物系の真行寺=小椋の美学は、1976年の冬を境に、下降期に入ったように、今振り返ると、思う。ところで、作家の村上春樹が真行寺のファンだという噂があるらしく、それを知った時は、「春樹殿。さすがにお眼が高い」と思った。けれどもここはフェイントをかけて、「吉沢京子」ファンを宣言して、村上美学に異化効果を導入してもらいたかった。「ほんとは一条直也になりたかったんだ。鉄下駄と汗の饐えた臭いの似合う男になりたかったさ。『風の歌を聴け』だって、最初は、「僕」という人称ではなくて、「おいどん」を使って書いてたくらいだもの」(近藤正臣演じる一条直也のライバルで、足でピアノを弾いて人気沸騰した結城真吾のニヒルさは、村上作品に通じているようだ)。吉沢京子と左門豊作キャラの恋愛物語によって、ノーベル文学賞を目指して欲しい。ところでこの時期になると(中学2年生)、さすがに芸能人に入れ込むというようなことはなくて、真行寺君枝に対しても、男としてのある感覚(たんなる性欲というのとは違うある種の官能性)が慄えることはあっても、それは瞬間的なことであって、自分の生活圏とまったくかけ離れた次元での話しだなあ、と関心は身近なものへと移っていくのであった。とはいえ、真行寺君枝が開示してみせてくれた世界は、自分の実存を理解するうえで、本質的な感化力を持っていたのだと納得される。

(9) 夏目雅子
 夏目雅子は、1977年のカネボウのキャンペン・ガール。そのCMはテレビでも見ていたのだろうけど、記憶に刻まれる強度として接したのは、映画館であった。その年のアカデミー賞受賞作品『ロッキー』を、私は同級生たちと渋谷の東急会館に観に行った。劇場は1階の方ではなく、5階であった。映画本編の前に必ず何やかやとコマーシャル映像が流れるが、そのうちの1つが「クッキー・フェイス」であった。どこかの砂漠を駱駝の小隊が歩くさまが、遠景のショットで映し出され、やがてズームで寄ると、白装束で肌を隠した1人の人物を捉える。身に纏った衣装を、勢いよく剥ぎ取ると、ビキニ姿の夏目雅子が……。「どっひゃー。ステキー!」と心の中で叫んでいた。当時ピンク・レディーが「健康的なお色気」と言われていたが、夏目の場合は「スポーティーなお色気」というものであった(ピンク・レディーに色気を感じたことは私は1度もない。たぶん彼女らがアニメだからである)。ただこの時も「入れ込み」は瞬間的であって、映画が始まると、その世界に没入し、映画館から出る頃には、「ロッキーの恋人のタリア・シャイアもなかなか魅力的な女性ではないか」と、今では信じられないような気持ちになっていた。詐欺に引っかかったとしか思えない。

 (10)メアリー・マクレガー
 最後はメアリー・マクレガー。これも中学3年の春。きっかけは彼女の全米ナンバー1ヒット曲の「過ぎし日の思い出(Torn Between Two Lovers)」であった。アバの「ダンシング・クィーン」と1位争いをしていたのではなかったか。ものすごくシンプルなプロモーション・ビデオが新鮮であった。歌うメアリーのバスト・ショットを正面から捉え、背景も木立か何かというものだったように思う。カーペンターズ系のメロディの美しい曲であった。ジャネット・リン、カーペンターズのカレンに連なるアメリカの清純派といった女性であった。メアリー・マクレガーに注目したのは、私と当時所属していたバスケットボール部のキャプテンI津であった。メアリーも「過ぎし日の思い出」も実にいい、と私とI津は語り合った。曲のタイトルの「Torn Between Two Lovers」と邦題の「過ぎし日の思い出」は、かなりのずれがあるが、当時はまったく気にしていなかった。学年トップの秀才であったI津(彼は難関校といわれる早稲田高等学院に合格した)が、その原題を調べ、「どうやら三角関係の歌のようだ」と私に報告した。「えぇーっ。そんなばかな」と私とI津は、「夕陽と汗とストップ・ダッシュ」という少年の無垢な幻想にしがみつこうとした。ちなみにこの曲がヒントとなって、竹内まりやは「けんかをやめて」を書いたらしい。またあるときはI津と私は、マイケル・フランクスの「アントニオの歌」の素晴らしさを語り合った。おそらく松任谷正隆の「もう二度と」にも影響をあたえているだろうこの名曲を知っていたのは、目黒区立第十一中学校(東京工業大学の隣にある。「工大のオマケー、十一中、十一中、十一中」という男子バスケットボール部に伝わる応援歌もあった)で、私とI津だけであった。「おれたちだけはトゥルー・ビューティーを理解できるよな」と私とI津は、お互いの眼を深く覗き込んだのであった。ところがである。I津という男は、卒業間際になって、思いつめたような暗い表情で私のところに来ると、「来月キャンディーズが解散するんだぜエ。生きる気力がなくなるよ。後楽園のさよならコンサート絶対に行くよ」と、耳を疑うようなことを申したのである。私は腰がぬけそうであった。「いつからおまえは堕落してしまったのだ?」と抗議したいくらいだった。高校の時にクラス会で会った時は「ノーランズのコンサートに武道館行ってきたぞ。ミーハーなんて言うなよな」とも申しておった。

 それにしても長々と書いてしまった。今回の原稿はここで終了。

 最後に遅れてしまったが、
 阿久悠氏のご冥福をお祈り申し上げます。

(2007・11・9)
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