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  「阿久作品私的ベスト10および極私的芸能論(2)」

 前回(「阿久作品私的ベスト10および極私的芸能論(1)」)の続きで、第4位から順に発表していこう。

 第4位「若草の髪かざり」(1973年) 歌:チェリッシュ
 チェリッシュは、個人的に印象の強いミュージシャンなので、ここにランクイン。と言っても、「てんとう虫のサンバ」や「白いギター」のチェリッシュではなくて、それら有名曲以前のこの曲や「ひまわりの小径」(1972年)の頃のチェリッシュが好きなのである。「ひまわりの小径」の頃は5人編成ではなかったかと思われる。シングルレコードのイラストによるジャケットには、5人のメンバーが描かれていた。イラストのジャケットというのも非常に新鮮だった(たいていは歌手の写真だった)。妹がこの曲のファンで(チェリッシュの2枚組みのLPも持っていた。それを聞いてもいい歌は初期に集中していると思う)、妹の買った「ひまわりの小径」のシングルで、私はこの曲を知った。心に沁みこんでくるような感動を覚えた。

 もともと、クラシックや童謡系の愛唱歌の類よりも歌謡曲が好きだったが、小学4年生の夏、改めて「歌謡曲っていいよなあ」と、しみじみと納得したのだった。「ひまわりの小径」は、夏の日の恋の終わりを歌った歌だったが、この曲を聴いた8月の後半、夏の終わりの物悲しさと、この曲の世界が妙にマッチしていた。作曲は筒美京平で、このメロディは、私の音楽のツボの勘どころを、見事に射抜いてしまったようだ。70年代前半の筒美は凄かった。いや、歌謡曲自体が、70年前半において、私の心を魅了し続けてくれた。「メロディの70年代」と言われる所以である。陳腐な言い方だが、「ひまわりの小径」の世界には柑橘系の空気が流れていて、「若草の髪かざり」にも、同様に、押し付けがましくない甘酸っぱさがある(「てんとう虫のサンバ」はミルク系なのである。素手で牛乳に触れた時指先に残る粘ったような感触を感じてしまうのである。あのネバネバ感がヤなんだな)。メロディ、アレンジ、松井悦子のヴォーカルの三位一体の歌世界は、当時は、かなり先端的というか、通俗性を排した清々しさというか、歌謡曲のベタっぽさを感じずに聞けた。チェリッシュのラインから、私はニューミュージックの世界へと進んだように思う。

 第5位「ロマンス」(1975年) 歌:岩崎宏美
 またしても筒美メロディが冴え渡る曲がランクイン。阿久の歌詞もまた、70年代の少女マンガのテイストを思わせる楚々としたロマンティシズムが、どんぴしゃりで嵌っている。歌詞とメロディの完璧な融合である。

 同じ阿久・筒美コンビによる前作「デュエット」が岩崎のデビュー作なのだが、この曲のスピード感も私は大好きで、こちらの方を採ろうかとも思ったのだが、メジャーな「ロマンス」の方を選んでバランスを逸脱しないように配慮した次第である。当時は、歌謡曲の中で唯一持っていたレコードが、「デュエット」と「ロマンス」のシングル盤であった。
 ほかは洋楽とニューミュージックの2ジャンルに専ら集中していた。「デュエット」と「ロマンス」のジャケットをしげしげと眺めながら「天は二物を与えないものだなあ」とつくづく感じ入ったものであった。

 第6位「個人授業」(1973年) 歌:フィンガー5
 この曲を初めて聴いた時は、その歌謡曲ばなれしたポップセンスの躍動ぶりにぶっ飛んだものである。北沢夏音は、この曲に対して「山本リンダからピンク・レディーへと続く、非日常性のエンタテインメント路線」と解説しているが、私は森昌子の「せんせい」の都市ヴァージョンだと思っていた(いうまでもなく「せんせい」は地方の物語である)。だからこの曲は私にとっては、日常の光景を歌った曲なのである。山本リンダの作品についても私は日常的な場面として捉えていた。「UFO」や「透明人間」が登場するピンク・レディーの作品には、良くも悪くも、ペラペラなアニメの感じを持っていた。

 森昌子の「せんせい」は、阿久の「時代の中で、今いちばん欠落し、渇望しているものは、縦位置の人間関係の愛情だろう」という判断のもとに製作されたらしい。そういうこともあろうが、私は、映画『瀬戸内少年野球団』に登場する夏目雅子演じる先生に憧れる阿久悠自身がモデルらしいクラス長の淡い恋心の記憶が反映しているのだと思っている。このことは「個人授業」の世界にも当て嵌まると思う。

 またこの曲で忘れてならないのは、素晴らしいビート感である。フィンガー5の元ネタであるジャクソン5のモータウン・サウンドの練達の摂取といえよう。作曲は山本リンダ作品でもコンビを組んだ都倉俊一である。72,73年の頃の阿久・都倉コンビというのは、ペドロ&カプリシャスのヒット曲(「ジョニイへの伝言」「五番街へのマリーへ」)も手がけていて、当時の大衆音楽文化に多大な彩りを添えていた。この頃の阿久・都倉コンビは、まるで、ジャイアンツV9時代のONのようであった。この2人が蔭で「アクトク・コンビ」と呼ばれていたというエピソードはなかなか笑える。

 第7位「コーヒーショップで」(1973年) 歌:あべ静江
 あべ静江と言えば、「みずいろの手紙」が有名であるが、歌に入る前の「語り」が嫌だったのと、この曲のさらりとした叙情――今最も欠落しているもの、ベタな叙情はやたらとあるが――が個人的にたいへん気に入っているので、こちらを選んだ。

 私はこの曲に、阿久悠の「旧制高校」的な感覚を感じる。「コーヒーショップ」「フォークギター」「読書する若者」といった道具立てが、旧制高校の学生の貴族的反俗精神や硬質な星菫派といったものを喚起するのだ。この曲から、私は、70年代の隠れた少女マンガの名作『希林館通り』(塩森恵子)の世界を連想する。将来的に「良識」や「理念」というものを担うであろう人材を育むのはこのような雰囲気を持つ世界ではなかろうか、と私は前々から思っている。『希林館通り』は、ムック「このマンガがすごい!」でもとり上げられているが、そこでは「現在の高校生が、コギャルだなんだと騒がれているのに比べ、昔の高校生の賢くマトモなことよ……」というコメントが寄せられている。「硬質な星菫派」的世界は、「理念」とともに、80年代に消滅していったものである。その消滅していったものを、反動的ノスタルジックに「デカンショ」(デカルト・カント・ショーペンハウエル)的感覚と言ってもいい。デカルト・カント・ショーペンハウエルは、かつての旧制高校生の「マスト・アイテム」であった。

 今現在、無自覚に=惰性的に「理念」云々とメディアで謳われているのは、カントの再評価からもたらされている。日本において、「理念」という記号を復活させたのは、私の見るところ、柄谷行人である。最近、柄谷についての文章を読んでいて、『群像』新人文学賞受賞時の柄谷の「受賞の言葉」に眼を惹かれた。

「おそらく漱石が安定した学者としての地位を放擲して、一介の小説家に転じることを決意したとき、こういう<自然過程>に対して<意識>の痕跡をわずかでも刻みのこさずにおくものか、という心境だったのではないだろうか。私の、ものを書きたいという衝迫もまた、こういう鬱然たる怒りとひそやかな希いに発している、といっていいかもしれない」

 この一節を読んだ時、「柄谷という人は、徹頭徹尾、メタフィジックスの人だ」と再確認したのだった。そしてこのことは、日本の風土においては、孤立せざるを得ないことを意味している。何かと言えば「自然体」という言葉を口にして、「自然過程」の中になし崩し的に逃げ込むことをよしとする環境にあっては、「理念」を生きるという反自然的態度は、生半可でない覚悟がいる。中途半端に「理念」という言葉を口にしたところで、それは「理念」殺しにしか加担しないだろう。

 当たり前のこと過ぎて書くことが躊躇われるし、であるのになぜ柄谷行人が80年代のサブカル文化人にとって、参照対象として意識されていたのか、いまでは理解しかねることでもあるが、柄谷という批評家が本質的な批評家であることの理由は、「突き放される」という体験に精神のふるさとを見いだす存在だからである。心地よさが切断され、精神が緊張に引き締まることのうちに、柄谷は批評が真に発動することの喜びを覚える。これは、80年代のサブカルとは、まるで正反対である。その具体的な柄谷の見解を以下にいくつか並べてみる。

「安吾は「ふるさと」を発見する。だが、それは一切の“人間的な”親和性を寄せ付けぬ、抽象的で無機的な世界である。彼はそこに根をおろす。「根」からいわば“突き放された”かたちで根をおろす。安吾が安吾として、「確信的な何か」をもってあらわれてくるのはそこからである」(「『日本文化私観』論」)
「こういう光景にはどこかで見覚えがある。それを明瞭にいうことはできないのだが、たとえば、その一つは「くそまじめな精神」に対する嘲弄である。これはもっともありふれたもので、私はこんなふうにケッケッケッと笑って逃げ出したこともあれば、逃げ出されたこともある。しかし、そういうときには嫌味な後味がすることも事実であって、嘲弄というものにはどこか下品なところがある。「真蒼な顔をして立ち竦んでいる」閭の立場が気の毒になる。
 もう一つは、ここには何かひとを拒絶する原型的な光景があるということである。拒絶のあざやかさ、絶対に踏み込むことを許さない拒絶のきびしさがある。どんな辛辣な拒絶も結局、高が知れている。だが、逃げ出されるような拒絶に出会ったことのない者は幸せであり、且つ盲目であるといわねばならない。この世界に、私を拒絶する、ただはねつけるのでなく私がどんな努力をしようが絶対的に拒絶する光景があるということは、しかし必ずしも私を意気阻喪させない。むしろ激励するようなところがある」(「寒山拾得考」)

 「逃げ出されるような拒絶に出会ったことのない者は幸せであり、且つ盲目である」と柄谷は言う。だが盲目であることの幸せが、状況的には勝利したのだと、言わざるを得ない。「切断という事件」は、もう露呈しないのだと、「切断」という言葉が何事かを意味した時代を、私は懐かしく思う。今は「空気を読め」の大合唱である。

 「理念」「崇高」は、むろん、「切断」の側にある。不快を通して快を得る=困難に打ち克つという快感原則の彼岸で演じられる劇であるが、「切断との遭遇」など、結局、恐ろしく少数派でしかないと、つくづく思う。私にとっての「理念」とは、自堕落にスローガンとして掲げるものではなく、「空気を読め」という嫌な空気に同調したふりを装いつつ、「理念」という言葉を一言も発っすることなく、「理念」の擁護に貢献するという、呪われたスパイのような徒労にコミットすることのうちにあるかもしれない。私の「本気」の所在はこのへんのところにある。「古典」の類が絶望的なほど読まれない状況を鑑みるにつけ、理念にそぐう精神は「少子化」の運命を辿っているのではないか。「理念」のような言葉を前にすると、絶滅種の動物の類と逃避行を共にする愚かしい運動家のような気分に陥る。

 話が妙なところにきてしまったので、今回の原稿はここで終了。次回は、同点第7位「舟唄」(八代亜紀)から第10位まで一挙に。「阿久悠私的ベスト10および極私的芸能論(3)」へと続く。

(2007・10・5
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