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  「阿久悠追悼」

 今さらこの話題を持ち出すのもなんなのであるが、去る8月1日に作詞家の阿久悠が亡くなった。私にとって、阿久悠の死は、かなり大きなショックであった。70歳という年齢は、鬼籍に入るには、まだ若い年齢であろう。そしてまた、何よりも決定的なことは、私が大衆文化と出会った頃(小学生の頃)、そのカルチャーの中心的な担い手が阿久悠だったのである。もとよりこれは、あくまで偶然の問題である。けれども物心つく頃に、阿久悠的な世界と出会えたことは、個人的には幸運だったと思う。

 阿久作品を最初に知ったのは、おそらく「白い蝶のサンバ」(森山加世子)ではないかと思うのだが、「阿久悠」という名前を意識するように記憶されたのは、やはり代表曲である「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)によってであった。むろんこの曲の素晴らしさは、筒美京平のメロディーによるところが大きい(筒美自身このメロディーには絶対の自信を持っていた)。私は、音楽はメロディーを重視するタイプの人間で、その嗜好(志向)は今も変わらない。

 この頃の歌謡曲というのは、歌詞とメロディーが完璧な融合を果たしていて、阿久作品もその例外ではなかったが、阿久の書く歌詞には、通俗的でありながら、魂に響いてくるような取替え不可能な「真剣さ」があった。彼の表現は、「技術」ではなく、「必然」であった。阿久は、しばしば、「自分の飢えと時代の飢えを共振させたい」と語っていたらしいが、このことは阿久が「本質的な詩人」であったことを示している。詩人の菱山修三の作品から二つほどフレーズを引いてみよう。

私は廿一歳、私は頬に手をあてる。私は耳朶に手をあてる。私は廿一歳、私は理解している、空腹は断崖だ、と。詩は空腹だ、と。(「懸崖」)
私は遅刻する。世の中の鐘が鳴ってしまったあとで、私は到着する。私は既に負傷している。……(「夜明け」)

 阿久の中にもこのような「空腹」や「負傷」が確実にあったと、私は感じる。私はテレビ文化人には、さらさら興味がなく、ましてや会いたいと思うことはないが、阿久だけは例外的に一度対面したいと思っていた。それは阿久の中に、実存が剥き出しにならざるを得ないような、「空腹」や「負傷」を感じ取っていたからである。私は世評に反して、阿久は反テレビ的な人間だったと強調しておきたい。

 阿久は、「テレビ」というよりは、「劇画」であり、そして何よりも「映画」の人であった。「勝手にしやがれ」や「時の過ぎゆくままに」といった歌の題名を見れば、阿久の映画ファンぶりは覗えるのだし、彼が書いた小説『瀬戸内少年や球団』は映画化もされた。また、水前寺清子のために書いた「昭和放浪記」について、阿久は「劇画か映画のような人物設定と場所設定のはっきりしたもの」を意図して書いたと語っている。

 阿久の書く世界は、イメージに流れて誤魔化すのではなく、物語がきちんと立っていた。人物なり、情念の輪郭が、明確に描かれていた。阿久と同時代に一世を風靡した梶原一騎原作の劇画のように、切れば血の出る物語があった。この2人は互いにどのような印象を持っていたのかは知る由もないが、私の中では、並行して彼らなりの表現世界を築いていた。阿久が1937年生まれであるのに対し、梶原は1936年生まれであった(ちなみに私の父は梶原と同じ1936年生まれである)。彼らはまぎれもなく、あの時代(1970年代前半)を代表する同世代の表現者であり、私の人格の土台となる部分は、彼らの描いた世界によって形成されてしまった。重厚な劇画の世界から養分をもらったことについては、幸運だったと思いこそすれ、悔いることはない。むしろ1970年代後半のライトなアニメの世界から養分を受け取らざるを得なかった世代に対しては「お気の毒に」という感慨を持っている。

 例えば、「ルパン三世」TV第1シリーズからTV第2シリーズの流れが、私の考えでは、「劇画」から「アニメ」の流れをあらわしているのだが、この流れは山本リンダからピンク・レディーの流れに対応している。山本リンダとピンク・レディーは、通常、連続線において語られることが多いが、私はむしろ両者の不連続線の方を強調したい。私が山本リンダを評価しても、ピンク・レディーのことを評価しないのは、そこに理由がある。このことについては、次回の原稿で詳しく書く予定である。

 阿久はピンク・レディーの作品いついて、「万博のパビリオン」のような世界を作ってそこで遊んだのだという意味の発言をしている。これはなかなか言い得て妙である。ピンク・レディーの面白さは、アミューズメント・パークの楽しさであろう。表層的な楽しさを享受していればよい。ただそれだけに尽きる。ピンク・レディー的パビリオンの世界に対して、70年代前半の阿久の作品は、繰り返して言えば、映画であり、劇画である。

 阿久の言う「万博」は、おそらく、1970年の大阪万博のことであるのだろうが、この万博は昭和のカルチャー史の分岐点としてしばしば言及される。それまで緊迫した強度を体現していた日本の文化シーンは、大阪万博以降、その緊張感を失い、白々したものへと拡散してゆく経路をたどった。この拡散が、いよいよマス的状況として日本全体を覆いつくしてゆくようになるのは、70年代末頃からである(阿久は「70年代が終わる頃から、歌の匂いがしなくなった」「79年に、ぼくはヒステリーを起こしたみたいに休筆なんて言って、ほとんど何の根拠もないのに半年休んだことがあるんです」と北沢夏音というインタヴュアーを相手に語っている。私が初めて眼にした「北沢夏音」という人物は、CDボックスセット『人間万葉歌』に収められた冊子のインタヴューと「各曲解説」を担当しているのだが、眼を見張るような充実ぶりである。歌謡曲に対する「教養」が凄いのなんのって。言うまでもなく、「教養」とは、試験でいい点数を取るための勉強という問題ではなくて、魂の経験をどれだけ積み上げてきたかという問題のことである。音楽評論家の鑑と呼べるような仕事ぶりである)

 60年代末に東映の任侠映画が、絶大な支持を受けていたが、私が70年代前半の阿久の作品に感じるのは、その世界の匂いのようなものである。日活の無国籍アクションと比べて、東映の任侠路線は「折り目正しいヤクザ」と揶揄されることが多いが、阿久作品に登場する人物たちは、どんなにやさぐれようが、凛とした気品のようなものを湛えていた。「せめて少しはカッコつけさせてくれ」(「勝手にしやがれ」)と自恃の意志を保っていた。「太陽族」と阿久という組み合わせはちょっと想像しにくい。

 当時の任侠映画の最高峰は、やはり、世評高い『博奕打ち・総長賭博』であろう。三島由紀夫が絶賛したように、この作品は、ギリシア悲劇並みの緊張感あふれる作品だが――難を言えば、桜町弘子が演じる鶴田浩二の女房が、薄っぺらに美しいところだろうか。この薄っぺらな美しさが、作品にいささか軽薄な要素を導入してしまっている――私の記憶に残って離れないのは、三上真一郎が演じる「音吉」という、今の言葉で言えば、「ヘタレ」に相当するのであろう、だらしのない憎むことのできないキャラクターである。この人物が、悲劇の引き金を引く役割を担っている。

 この映画で、とりわけ私が好きな場面は、雨の墓場のシーンで、鶴田浩二が兄弟分の若山富三郎の前で、互いに交わした兄弟杯を叩き割るところである。この直後に、印象深い場面へと続き、雨の墓場で、鶴田と三上が2人向かい合う。自分のミスで鶴田と若山を取り返しのつかない窮地へと追い込んだ三上が、土砂降りの中、土下座して、鶴田に「おじき、俺を殴っておくんなさい」と頼み込む。三上に対して、鶴田は「音、渡世から足を洗うんだ」と突き放し、三上に平手打ちを喰らわせる。この時の三上の切ない泣き顔と、鶴田の鬼のような形相が素晴らしい。

 この場面を思う時、私の胸に去来するのは、70年代前半の雰囲気なのである。70年代末にはこのような場面は、パロデイにしかならなかった。そしたまた、鶴田と三上という異なる世代に属する2人の男によって演じられたこのシーンを、歌の世界で表現できるのは、阿久悠を措いて他にいない。少なくとも私には、阿久しか考えられなかった。そのような世界への信頼を肉体的に感受できる表現者は、いまではマイノリティー扱いされるのだろうが、それがあったから自分は安易なシニシズムに逃げることなく、なんとか生き延びてきたのだ。そういうことを、私は阿久悠に伝えたかった。その機会は、永久に失われてしまった。

 今回の原稿は、総論のようで、阿久悠の具体的作品に触れることがなかった。次回の原稿で、私の好きな阿久作品について書きたい。「阿久作品私的ベスト10および極私的芸能論(仮タイトル)」へと続く。

(2007・9・12)
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