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  「『果しなき流れの果に』見られるクラシカルかつロマンティックな青春(4)」

 「階梯」の掟に逆らい、自ら燃え尽きたアイ=松浦=野々村は、第二階梯の野々村の肉体に再び戻される。ただし五十年後(二〇一六年)の世界に。和泉の葛城山麓に、再び舞い戻ってきた野々村は、かつての恋人佐世子と再会し、彼女と残された余生を暮らし始める。「身の上話を聞かせてもらいたい」という佐世子の要求に対して、野々村は、作品の最後の一行となる次の台詞を発する。「それは長い長い……夢のような……いや……夢物語です……」こうして『果しなき流れの果に』と題された荒唐無稽な「夢」のような物語は、幕を閉じる。ところで、私たちは、「夢」そのものにどのように接すればよいのだろうか。

 認識行為を共通項として、探偵と精神分析の類似を確認することから出発した本稿は、再びこの話題へと戻ってくる。というのもこの作品は、精神分析にとって特権的ともいえるトポスを、その物語の出発点に据えているからである。そのトポスとは、野々村や番匠谷教授たちが、砂時計の謎を調査するために赴く「葛城山麓の樹林におおわれた急斜面」に位置する「古墳の玄室」である。『果しなき流れの果に』の第二章には、「あの古墳の、冥府へつながるような羨道の、かびくさい闇の奥にひそむ、あやしげな、夢幻的な秘密」という言葉が読まれるが、「古墳の玄室」とは、夢の世界すなわち無意識そのもののことであろう。

 フロイトは、夢の言葉と「昔の象形文字」を重ね合わせて、人間の無意識に接近しようとした。若年期にシュリーマンに憧れていたフロイトにとって、古代遺跡の探求ほど精神分析のプロセスに似ているものはなかった。じっさい、フロイトは、エジプトやギリシアや中国の骨董コレクションを多数保有し、それらから「夢の秘密」の手がかりを得ていて、古美術品が彼の思想にアイディアと確信を与えていた。考古学の地面を発掘するという行為は、フロイトにとって人間の心の中を発掘していく適切な暗喩であった。アイの属する管理グループに、目をつけられている「超科学研究所」所長のシンベルは、まるでフロイトのような台詞を語っている。

《一つは、――歴史の上に、点々と、道しるべのように、ばらまかれている。われわれの発見を待っている、ありうべかざる奇妙さを通じて、われわれに、なにかをうったえようとしている。われわれに、この意味を、といてくれ、読みとってくれ、と叫んでいるみたいだ。――しかし、なにをいおうとしているのかわからない。われわれに、わからない字で書かれた、落し文のようなものだ。一つ一つの現象は、まったくバラバラなカテゴリイにあらわれてくる。ある時は、土中から――深いところにある、古い地層の中から。……ある時は、太古の遺跡の中から――ある時は、突然地上にあらわれる、奇妙なしるしとなり、ある時は、意味不明のことを叫びつづける、奇妙な幽霊の形になって……》

 ここでいわれていることは、読まれるとおり、「太古の遺跡」の「われわれに、わからない字でかかれた」象形文字のことである。とりわけ興味深いのは、「幽霊」というデリダ的なタームが登場していることである。「幽霊」という言葉は、「剰余」や「ノイズ」をあらわす言葉である。そして、「幽霊」の一点において、デリダと小松は袂を分かつ。いいかえれば、小松は、デリダに比べるなら、はるかに「直線的」なのである。デリダは「イレギュラーなもの」と戯れることを、自らの倫理としているが、小松はそのような志向性を、じつはそれに幾分かは恵まれていながら、取り違えて、放棄してしまう。

 面白いのは、『果しなき流れの果に』を巡って、女性作家の大原まり子と男性作家の小松左京では、その捉え方が異なっていることである。「ハルキ文庫」版の『果しなき流れの果に』に寄せられた解説の中で、大原まり子は、この作品を「ワイドスクリーン・バロックの系譜に連なる、世界的にも希有なSFの大傑作」と呼んでいる。一方、作者の小松自身は、この作品を「ハードSF」とみなしている。もう少し詳しく言うと(『SF魂』による)、「SFマガジン」の編集長であった福島正実から、当時の現役三巨頭のクラーク、アシモフ、ハインラインを「超えるようなハードSFの長編、しかも読者にちゃんと読まれるものを書いてくれ」という注文に応じて書かれた作品なのである。『果しなき流れの果に』を巡っての、大原、小松両者のあいだには、隔たりがあるようだ。

 「ワイドスクリーン・バロック」にしろ、「ハードSF」にしろ、その定義は、定義者によって異なるだろうが、ちなみに「ワイドスクリーン・バロック」の場合は、その提唱者のオールディスによると、「絢爛華麗な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍の楽しさに満ちた、自由奔放な宇宙冒険物」(『十億年の宴』)ということになる。これに対してあえて異を唱えるつもりはないのだが、『新・SFハンドブック』(ハヤカワ文庫)に収められた対談「ぼくたちは、こんなSFを読んできた」でなされている定義(?)が、なかなか的を射ているように思う。その対談の中で「ワイドスクリーン・バロック」のことが話題になるのだが、出席者の一人森岡浩之の「でも、ワイドスクリーン・バロックって人に薦めるときにむずかしいんだよな」という発言に対して、司会の大森望は次のように応じている。「ガ―ン、ドーン、バーン、すげえ!みたいな」ここに登場している擬音語の「ガ―ン、ドーン、バーン」とは無意識のリズムのことではないだろうか。無意識のリズムに身を同調して疾走するさまが、オールディス云うところの「飛躍」や「自由奔放」に繋がるのではないだろうか。それに対して「ハードSF」というのは、確立された科学体系に従い、緻密に論理を積み重ねる意識的整合性に重きを置くジャンルということになろうか。大原まり子も「ワイドスクリーン・バロック」に分類する作家ヴォクトは、小説のプロットを考えるのに、九十分ごとに眠りから覚めては、いま見た夢をノートに書きとめるという方法をとっていたという。ヴォクトもまた、無意識に近いところで、書いていた。むろん、無意識の力の無いところで書く作家などいはしない。言葉の無意識に共鳴することが、文学を読む体験なのだとすらいえる。とはいえ、こういったからといって、「ハードSF」を貶めるつもりは、まったくない。白熱する論理のスリリングさも、この上なく貴重なものであるし、論理が亢進した果に論理自体がめくりあがる(発狂する?)という出来事も、SFの醍醐味であろう。本稿の趣旨は、無意識寄りの傾向があるが、凡庸な無意識(のイメージ)には批判的である。だから「ゴルディアスの結び目」は、エンターテインメントとしては面白いと思うが、あくまでも通俗小説だと思う(「ボール」のイメージから、一挙に、本編のストーリーへと飛躍する跳躍力は、この上なく凄いといえるが)。

 話題を『果しなき流れの果に』へ戻そう。先に、アイと松浦や野々村の関係を通じて確認したとおり、この作品は、潜在意識(無意識)と意識の相克のリズムの上に作られている。だから「ワイドスクリーン・バロック」とも「ハードSF」ともいえるように思うが、何度か述べてきたように、小松は、イレギュラーなもの(無意識)をレギュラーなもの(意識)のパースペクティヴのもとに回収してしまう。むろんそうしなければ、自己も秩序も公共性も、精神分析学でいうところの象徴界も成立はしない。けれども私が微かに違和感を感じるのは、それがあくまでも不完全な(暫定的な)レギュラリティであることが、どれだけ自覚されているかということだ。秩序の限界に敏感であることは、最低限の謙虚さであろう。精神分析学が教えるところによれば、象徴界には閉じきってしまうことのできない「穴」が開いているという。この亀裂こそが、外部との接点であり、そこから他者のリズムが侵入する。幽霊が回帰してくるといってもいい。

 小松とて、この穴の存在にけっして鈍感というわけではない。第十章において、野々村を吸収したアイ(というよりは野々村に同調したアイといったほうがよかろう)が上昇し続けて最後に到達する「さらに高次の、空漠たる一つの『場』」は、空の上に開いた穴であるし、第一章における葛城山の「古墳の玄室」は、大地に穿たれたもう一つの穴である。だが、差延の運動の痕跡への入口たるその穴の間近に迫りながら、小松はその運動を抑圧してしまっているように思う。象徴界の唯一の使命は、運動を運動の図式に置き換えることで(つまりは去勢を遂行することで)、空間の全域に偽りの安定を波及し、伝播させることである。

 ところで、『果しなき流れの果に』の「古墳の玄室」の場面を読みながら、私が連想していたのは、デリダの「Fors」と題された文章のことだった。この中に、「クリプト」という言葉が、非常に重要な概念として登場する。クリプトというのは、納骨堂として用いられる、教会の地下の窖、または教会の地下の礼拝堂のことを指す。まさに、『果しなき流れの果に』の「古墳の玄室」と、ぴたりと重なり合うイメージである(ニコラ・アブラハムとマリア・トロックによる『オオカミ男の言語標本』の序文として書かれたこの文章の中で、デリダはクリプトを無意識と重ね合わせている)。デリダは「クリプトとは何か」と文章を書き始めながら、「読解可能性」を打ち消すように迂回に迂回を重ね続け、納骨堂という迷宮と戯れる。「クリプトとは自らを現前[現在 ]化しない。場の或る種の按配が隠匿するべくしつらえられているのだ――何ものかを、そしてつねになんらかの仕方で死体を隠匿するために。しかしそれはまた隠匿を隠匿するためである」と書かれてあるように、「読解不可能性」が守られるべき自由であるかのように肯定されてゆく。「クリプトという要塞 place-forte はこの象徴の断片化をひきおこす」「「クリプトとはそれ自体が破局、あるいはむしろ破局の記念碑である」

 さらにまた、クリプトには「クリプテ」という動詞形があり、その言葉は「暗号化する」という意味を持つ。もちろん、「暗号解読は不可能であろうし」、知覚は意味から徹底して遠ざけられる。「このクリプト語においては何一つ純粋に言語表現的ではないにしても、また何一つとして知覚にそれ[その人 ]自らとして与えられる物としてそこに姿を現わしもしない。知覚そのものも、すべてもの言わぬ絵のように、暗号の法則のもとに置かれている。すべてはクリプト的であり、「ヒエログリフ的」である」ヒエログリフとは、古代エジプトの象形文字のことだが、それは、再び繰り返せば、フロイトにとっての夢の言葉であった。そのような「恣意的となった記号」といかに接すればよいのか。「クリプト的動機づけの足跡をあばくためにはどんな迷路、さらにはどれも異質な場のどんな多様さに身を挺さなければならないことか」分析家にできることは、「もの」のようなシニフィアンの断片と素肌で接し、「もの」としての言葉のリズムを触知することだろう。「そして私はそのとき、舌で、砕かれた言葉の鋭い稜角を感ずる」(じっさい、デリダは、砕かれた言葉の鋭い稜角――具体的にはtrやgl――との戯れを試みている)。

 それにしても、なんとまあ、SF以上にSF的な奇怪なテキストだろう。けれども、デリダの側からの小松批判を、これ以上、発展させようというつもりはない。むしろここからは、デリダと小松が共有しあっている(いまや死語となっている)懐疑精神を擁護したいと思う。

 『果しなき流れの果に』の中で、松浦は、野々村のグループを「宇宙の涯てから涯て、時空間のあらゆるひだや、淀みにひそみ、この宇宙の全秩序を律するものに、叛逆をくわだてたルキッフの徒の裔」と呼んでいる。「ひだ」という言葉が「穴」のイメージを連想させもするが、「叛逆をくわだてた」野々村たち若者集団は、ドストエフスキーの『悪霊』に描かれたロシアの急進的な青年たちのことを、思い出させる。小林秀雄は次のように書いている。

《叛逆や懐疑や飢餓を感じていない精神とは、その特権を誰かに売り渡して了った精神に過ぎない。精力的な精神は決して眠り度がらぬ。肉体の機構が環境への順応を強いられている様な正確さで、精神は決して必然性の命令に屈従してはいない。本能的に危険を避ける肉体は常に平衡を求めている。満腹の後には安眠が来る様に出来ている。だが、精神は新しい飢餓を挑発しない様な満腹を知らない。満腹が与えられれば必ず何かしら不満を嗅ぎ出す、安定が保たれている処には、必ず釣合いの破れを見付け出す。単に反復を嫌うという理由から、進んで危険に身を曝す》    (「『悪霊』について」)

 いまどきこのような文章を引くことは、反動的なことであるのかもしれない。ここにはテロリズム的なものも含まれているがゆえ、注意を払わねばならないが、「精力的な精神」をもが不当な眠りの中へと押し込められていいわけではないだろう。ところで、ここで「精力的な精神」と呼ばれているものは、いわゆる「精神と肉体」という平板な図式の中に納まっている「精神」とは異なるものである(そのような図式の中では「精神の精神性」は消されている。「平板な図式」こそが小林秀雄のいう「安眠」である)。それは「精神と肉体」という図式に先立ち、その図式が成立した瞬間、その痕跡を抹消し、自ら姿を眩ます。それは、図式にとっては一種の過剰であり、だから、「精力的な精神」とは「肉体性を失わない肉体」と同義のものである。

 それをざっくばらんに「コギト」と呼んでもいい。一般的に言って、「コギト」は「懐疑精神」のことだが、繰り返し言えば、「コギト」は認識の構図(例えば「精神と肉体」「意味と無意味」「主体と客体」等々……)の成立に先立つ。内海健は、コギトの特異性に注目し「それゆえ、コギトはテクストのなかでは語られえないという否定的形態でのみ指し示されるものであり、世界内には存在しない。すなわちコギトはけっして現前化されえないものである」(「主体と時間」太字原文)といっている。さらに内海は、コギトと無意識を重ね合わせる。「コギトと無意識の連関はけっして奇異なものではない。というのもコギトは世界内に存在せず、狂気のさなかにおいても成り立つ以上、ラカン的文脈では「現実的なもの(le reel、現実界)」以外のものではありえない。そして「現実的なもの」とは、本来的なものにおける無意識、すなわち抑圧されたものと同一視されない限りにおける無意識とほぼ同義である」(同前)コギトとは、象徴界に収まらぬ剰余としての「個」のことである。よく言われるように懐疑精神は、システムとシステムの間隙で発生する。

 そろそろまとめに入ろう。「青春」というやつは、「時間の関節が外れてしまった( The time is out of joint. )」(『ハムレット』)という危機の時間帯である。その時、従来の秩序の枠組みは脱臼し、足場を失った個体は、途方もない自由と不安が広がりだす「本質的な見失い」の場所へと連れ出され、彷徨が開始される。直線を乱すノイズの侵入を防ぐために、ハイデガーなら、そこで「本来性」という虚構を差し出すだろうが、いうまでもなく、それは真の自由(無根拠)である間隙と停滞を、制度が好ましいと判断する方向へと導く「アンチ・ジュ(anti-jeu )」という組織編制に他ならない。一部のフランス人が偏愛する jeu という言葉は、遊戯と賭けという両方の意味を兼ね備えた言葉である。この言葉には自由が賭けられている。丁の目が出るか半の目が出るかは、骰子を振ってみなくてはわからない(丁か半かが決まる直前の不透明な時間帯が自由の根拠である)。丁の目出したさに、鈍感な人間は、街に監視カメラを設置し、経済行為のフィールドから性善説を締め出そうとする。それは計画経済の発想に似ている。遊戯性を孕む貨幣という媒介(不透明性)をなくそうとした計画経済は、経済自体を殺してしまったと、岩井克人と三浦雅士は確認する(『資本主義から市民主義へ』)。別の角度からであるが、内海健もまた、人間存在の複雑さに対する繊細な視線が消滅しつつある現状に苛立ちを隠さない。

《遠近法が可能にした等質空間、これがあまねく浸透しようとするとき分裂病が発生したとするなら、このあられもない空間の中に、そこには書き込まれない密かなトポスを作り出すことが、治療的いとなみとなる。それに対し、あくまで科学的であることを渇望する精神医学は、この等質空間の平板な論理をあくまで遂行しようとするだろう。だがそれは、妖精を捕獲しようと、彼らの棲む森を無残にも更地にして、そこに何も見出さぬようなものである》     (『「分裂病」の消滅』あとがき)

 ここで「妖精」といわれているものは、「悪霊」でもあり、「ルシファー」でもあるだろうが、これらの呼称はすべて「等質空間」の側からのものである。等質空間が世界に浸透し、それを蓋わんとすることもあろうが、世界そのものとぴたりと重なることはない。もし仮にそのようなことが起こってしまったとしたら、それは世界の死を意味し、人類にとって限りなく不幸なことであろう。「そこには書き込まれない密かなトポスを作り出」そうとする野々村やエンのようなSF的希望を担った連中が、「時間の関節」を外すために、そして遊戯と賭けという青春の特権を活用するために、SF的運動とのコミットを企てようとするだろう。「密かなトポス」の力に触れて、生が賦活される体験をわが身に引き受けることこそが、「センス・オブ・ワンダー」と呼ばれる体験ではなかったかと思い込むのは、私個人に属する愚かな偏見であろうか。

(2007・7・1)
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