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  「『果しなき流れの果に』に見られるクラシカルかつロマンティックな青春(3)」

 イギリスのSF作家オールディスは、『十億年の宴』の中で、次のように書いている。

《まず私は、サイエンス・フィクションの書かれる根本的な動機が、科学技術的なものであると同時に、進化論的なものでもあることを明らかにしたい》

 「科学技術的なもの」であり、かつ「進化論的なもの」であることというのは、ほとんど「近代」のパラダイムを定義しているに等しいといえる。このことは、様々な角度から語ることができるが、レヴィ=ストロースの有名な「冷たい社会と熱い社会」という分類を参照するのが、最も有効であるかもしれない。  「冷たい社会」と「熱い社会」を区分する最大のメルクマールは「蒸気機関」という「科学技術」の登場である。産業革命を成立せしめた蒸気機関の発明が歴史に登場することによって、人類は未曾有の変化を体験した。ワットの蒸気機関は、十八世紀のイギリスの風景、経済、政治、世界観、とりわけ人間の生のスタイルを凄まじい勢いで変形した。さらには蒸気機関は、「青春」をも生み出したといえる。例えば三浦雅士は次のように言っている。

《好奇心のおもむくままに突っ走る青年の行動力、青春の情熱は、規範からの逸脱以外ではない。規範からの逸脱は、普通は自滅して止む。だが、青年の行動力、青春の情熱が、合理的精神と手を取り合った場合には事情は少し違ってくる。生産の拡大に結びつくからだ。
 サルの幼児期が拡大するようにしてヒトが発生したという説がある。同じように、ヒトの幼児期が拡大するようにしてヨーロッパが成立したといえるかもしれない。大航海時代がもしも富の獲得と結びつかなかったならば、それはたんなる逸脱にすぎなかっただろう。(略)
 だが、イギリスは、恒常的な富の生産に結びつけることに成功した。産業革命である。青年も青春も、この段階ではじめて美徳に転化したといっていい。(略)
 青春の発明は、しかし蒸気機関の発明と同じ十八世紀に起こったのだと、イギリスのある社会学者は主張している。ルソーの『新エロイーズ』『エミール』の刊行も、ワットの蒸気機関の発明も、同じ一七六〇年代である。》            (『青春の終焉』)

 三浦が言わんとしていることは、単純化して言えば、「熱い社会は、冷たい社会からの逸脱であるがゆえに、けしからん」というものである。「青年」というものは、何者でもないきわめて抽象的な存在である。そのような存在は、身分が出自の階級によって決められてしまっている冷たい社会の規範からすれば、怪しげでいかがわしいものに見えるだろう。だから青年は、「放浪の民」であることが唯一のアイデンティティであるユダヤ人のあり方に、とてもよく似ているといえる。けれども身分があやふやな青年(ユダヤ人)という存在は、いつかは何者かになってみせるという未来の希望を手にしている。それは、未来において、何らかの商品と交換される可能性を所有する「貨幣」のあり方とも相似である。このような未来に対する未決定性は、ユダヤ=キリスト教が依拠する直線的な時間において、成立することが可能である。最近は「スローライフ」(要するに「冷たい社会」の今ふうの言い方である)なる言葉が礼賛され、「貨幣」や「青年」が活発化する「熱い社会」(ダイナミックなスピード感に溢れている)のあり方に批判を提示している。けれどもそれがどれほど根源的に思考されているかは、いささか疑問である。冷たい社会(スローライフ)は、「熱い期待」や「若々しい夢」を断念することにおいて成立する。であるのに「スローライフ」を礼賛する者は、一方で「この国には夢や希望がありません。若者は夢を持たなくてはいけません」と、涼しい顔で矛盾したことを発言したりする。

 それはさておき、蒸気機関の発明前後の時代に、『国富論』のスミス(一七二三年生れ)や『種の起源』のダーウィン(一八〇九年生れ)、さらには『精神現象学』のヘーゲル(一七七〇年生れ)らが、ヨーロッパの近代社会に登場していることは、きわめて興味深い。これら三者の思想は、イギリスの経済の運動の影響を蒙っている。スミスの著作はもちろんのこと、ダーウィンの進化論もスミスの説く自由市場競争の理論から発想を得ていた(マルサスの『人口論』の影響も受けているといわれる)。経済主体が市場において利己的に競争しているとしても、「神の見えざる手」によって均衡が保たれるように、個々の生物どうしのあいだの利己的な競争関係が、自然淘汰のプロセスを通じて、ひとつの調和のとれた生物世界をつくっている。じっさいダーウィンは、スミスそのものは読んでいなかったが、デュゴード・スチュワートが書いたスミスの解説書はそうとう詳しく読んでいた(岩井克人「進化論と経済学」を参照)。ヘーゲルの思想の根幹もまたイギリス経済学によって形成されたという(三浦雅士『出生の秘密』を参照)。

 熱を動力源とする「科学技術」の発展と、進化論が基づく直線的な時間(資本主義の時間でもある)が世界を支配するに到った近代のパラダイムの中で、SF小説は、そのことを自覚するにせよしないにせよ、書かれている。『果しなき流れの果に』の重要な登場人物に、「アイ」という名の宇宙の秩序を管理する宇宙人が登場するが、この名からはどうしても「自我(the I)」という近代哲学用語を連想せずにはいられない(じっさい「I・マツラ」という表記が作品中に登場する)。『果しなき流れの果に』はアイの発展生成史として読める側面もある。

 近代的時間と近代的な主体との関係について、精神科医の内海健は鋭い論考を行っている。内海は、やはり、「冷たい社会」から「熱い社会」の移行のうちに、直線的な近代的時間の発生を認める。こうした「時間性から帰結される重大な変化」が生起することとなるが、「まず、過去は従前ほどの重要性はもたなくなる。それは一方では過去の軛、制約からの解放という側面を持つ。すなわち「自由」の次元の創出である。そして自由とは未来と親和性をもち、またヘブライズムから受け継いだ不可逆的方向性と合流し、未来優位の時間が形成される。ヘレニズムの円環にせよ、ヘブライズムの限定された現世にせよ、その閉じられた時間の構造はこじ開けられ、外部へとめくれあがってしまったのである」(「未来の創発」)このようにして人類は、「無限の等質的な延長としての未来時」に覚醒することを強いられ、個人レベルでは「主体に法外な自由度をもたら」されることとなった。「未来の創発は近代的な意味における「個体」を生み出す重要な因子であると言える」。自由なる個体という「近代的な主体」はこのようにして誕生した。

 ドゥルーズ/ガタリが言うところの「脱属領化」によって、無規定な未来の次元が開放され、それは同時に散乱の危機の可能性の誕生をも意味するが、個々の欲望の流れを社会体であるところの「貨幣=資本」の流れに束ねていくことによって、システムと個人の両方を安定させてゆく。近代資本主義とは、じつに巧妙に仕組まれたシステムだといえる。
 だが、無際限に開放された未来(自由)が、資本主義(近代社会)に輝かしい富と繁栄をもたらした一方で、この無限の自由(不安)は個体に凄まじいプレッシャーをも付与することになる。過剰な強度が、単独者としての主体に凄まじい力動で振り向けられ、個体は死と再生の「劇」というよりは「出来事」と遭遇するはずのクリティカル・ポイントを通過する。すなわち主体の成立条件は「外傷」にほかならないのである。「私の傷は私に先行していた」(ジョー・ブスケ)。まかりまちがえば、狂気(分裂病)の側へと送り込まれるかもしれぬ「力の一撃」を全身に蒙った者が、主体の生成を演じる。であるから、じつは、本当の意味での「主体」を担う個人は、ごく少数の数に限られるのかもしれない。「自律せよ」「一者であれ」という呼びかけに、律儀に応じた者が、この栄光と悲惨を体験する。内海健は次のように言っている。「ひるがえってみると、分裂病になる人は、けなげに一者であることを守り通した人たちであると言えるのではないだろうか。この命法が厳然と支配しているとき、その力は思春期において極大となり、主体を見舞う。というより主体化の要請として到来する。それは自律への、個体化への圧力として体験されるだろう。その際、主体はある種の死をくぐりぬける」(『「分裂病」の消滅』はじめに)思えば、『果しなき流れの果に』の登場人物野々村は、「けなげに一者であることを守り通した人」であったといえる。

 主体の個人史の時間が始まるには、消失点として抹消されるべき「始原の一撃」の存在が不可欠である。むろんこれは、それ自体として捉えられることはなく、事後的に再構成されるよりない。そのような起源にある「原光景」といったものは、小松左京にとっては、次のようなものだったのではないだろうか。

《大阪城のはずれにたたずみながら、そんなことを考えているとき、ふと私は、その風景の中に、まだ廃墟の姿が残っているのに気づいた。いや――風景のほうにではなく、私の心の中に廃墟がいきいきと生きつづけているのに気づいたのである、あの手のつけられない無秩序と、ほとばしり出るエネルギー、そして無限の可能性――戦後十九年たったにもかかわらず、まだ私の中に、あの廃墟が生きながらえているのを見いだしたとき、私は一抹のなつかしさとともに、激しい驚きを感じた。

 こうして、私は「アパッチ」の物語を書こうと思いたった。それはもはやあの鉄屑泥棒のことではなく、無秩序に満ちた、「廃墟」そのものの物語である。同時にそれは、この小奇麗に整理された今日の廃墟の姿ではなく、廃墟自身のもう一つの未来、もう一つの可能性なのかもしれない。――この荒唐無稽な、架空の物語は、私の中になおも頑強に生きつづけている「戦後」なのである》

 『日本アパッチ族』の「まえがき」からの引用である。小松にとって、彼固有の時間が真に開始されるのは、「廃墟」の風景とともにある「ある切断の時」からだったようだ。「切断の時」は死と再生が同時に生成する残酷な時間であるが、その力の一撃こそが主体を垂直に立ち上がらせる。「小奇麗に整理された今日の廃墟」のような与えられた「法」ではなく、自ら「立法者」たらんとする「途方もない法創設的な力の顕現」が刻印されている風景こそが、リアルな「生」だと感じてしまうような精神がある。「ここには呼び声を聞いてしまった者の運命がある」(内海健「カフカ 主体の死」)。彼は「主体を与えた力の一撃の痕跡」にひきつけられてやまない。「反復強迫」とも呼ばれる生の様態だが、小松は、おそらくそうとは知らずに、リアルな感覚を求めて「廃墟」を反復し続けた。七〇年代に日本が大がかりに「沈没」させられてしまったのも、小松の中で「なおも頑強に生きつづけている「戦後」」を反復しようとする無意識の欲望ゆえのことであったろうし、『果しなき流れの果に』において「太陽黒点の異常活動」から地球が滅びるのも「戦後の廃墟」の反復だといえる。

 けれども、ここで注意を喚起しておかなければならないことは、「起源の風景」はけっして現前化されることはなく、「非現前性」として彼岸へと逃れさろうとするものであり、私たちが知りうるのはその「効果」のみだということだ。「起源の風景」の神話化ほど反動的なものはない。この「神話化」の反動性について、内海健は「デカルト 戦略的エポケー」の中で次のように言っている。「デカルトの開示してみせた根源的シーンはすぐさま隠蔽される。何によってか?デカルト主義(cartesianism)によってである」言わずもがなの解説をつけくわえておくと、デカルト主義は「デカルトの開示してみせた根源的シーン」の出来事性を、物語(表象)によって置きかえて(隠蔽して)しまったのである。内海によってなされた「デカルト」と「デカルト主義」の区別は、デリダによってなされた「メシア的なもの(ユダヤ性)」と「メシアニズム(ユダヤ教)」の区別に対応している。「メシアニズム(ユダヤ教)」がイスラエルの国家的暴力に行き着いたことは、私たちが知るところである。それに対して「メシア的なもの(ユダヤ性)」は「メシアニズム(ユダヤ教)」を脱構築するものとして働く。私のみるところ、小松の中で、この両者の区別が厳密になされているかは、いささか疑問である。これから書かれることになる「小松左京批判」は、この一点を巡ってなされるだろう。

 先述しておいた『果しなき流れの果に』の宇宙人「アイ」の話題に戻ろう。「アイ」という名称にどのような由来があるのかはわからないが、すでに述べたとおり、この名前からは「自我」のことが、とりわけヘーゲルの想定した「自己意識」のことが連想される。感覚という意識の最も低次の段階から、経験を通じて、精神が「絶対知」に上昇していくプログラムを、ヘーゲルは描いた。『果しなき流れの果に』においても、肉体を所有している(言いかえれば肉体の拘束を受けている)地求人は低次の「階梯」に所属するとされていて、その上位の「階梯」に所属し、低次のものを管理する宇宙人は、「意識体」として描かれている(第十章には「超意識体」という言葉も登場する)。ただしなぜか地球人の「肉体」をかりれば、彼らは「活動的」になれるらしく、アイは責任遂行のために松浦と融合する。その時、松浦は「明確に、自分の意識ともいえるものが、ふつうの人間の潜在意識に相当する位置におしこめられていく」のを感じる。あきらかにこれは、自己意識の統合の運動である。同一化の原理のもとに、他者を同化することで自己を生成し、自らを全体性として統一することが、ヘーゲルの哲学だからである。のちにアイは、野々村の意識をも吸収し、完全な「意識体」アイとして上昇運動を続け燃え尽きる。

 ところでヘーゲルは、人間の意識の展開を、同時に人類の歴史の発展としても描いていた。ヘーゲルはナポレオンに世界精神の体現を見ていたが、歴史的にはこれはヨーロッパの統合に対応している。第二次世界大戦後には、アメリカがナポレオンの役割を果たし、世界を統合したというわけだ。ヘーゲルの弟子筋の日系アメリカ人フランシス・フクヤマが、『歴史の終わり』でそのさまを言祝いだ。アイと松浦や野々村の関係を、ヘーゲルの図式に当て嵌めることができる。

 以下の解釈は、私のうがった見立てであり、「個人的な妄想」といわれるかもしれないが、べつだんこの解釈に執着しているわけではなく、ひとつの関係性のモデルを呈示してみたいだけである。

 二十一世紀末に太陽の異常爆発によって、地球人の住処である地球と火星は滅亡するという設定になっているが、この出来事は太平洋戦争における日本の敗戦に相当する。そして人類の前に宇宙人が現れ、人類を彼らの管理のもとにおくが、これはアメリカと日本の戦後の関係に対応している。宇宙人たちに刃向かうものとして、ルキッフ引き入る野々村たちのグループがいるが、これは六〇年安保闘争を担った全学連の反米ナショナリズムである(『果しなき流れの果に』は一九六五年に「SFマガジン」で連載されているので、全共闘の七〇年安保闘争には相当しない)。さらに、アイの意識に吸収される地球人松浦は、日米安保条約を護持せんとする日本政府の姿に似ている。第七章で「I・マツラ」の姿は、次のように描かれている。「二つの意識を持つ男。おろかものの怒りと、悟達者のシニックな笑いとの間に引き裂かれ、すべての事を知りながら、なお次々に驚きと、悲しみと、怒りにさいなまれつづけている奇妙な存在」この姿は、大江健三郎が描くところの、六〇年安保闘争に敗北した「性的人間」のイメージと重なり合う。

 先に述べた「直線性」というフィールドにおいて、自己(意識=アメリカ)と他者(潜在意識=日本)が闘争の運動を演じているわけだが、この作品では、意識が無意識に共鳴するさまが描かれている。例えば第七章で、アイの上司がアイに次のように語る場面がある。「君は、松浦の意識を吸収してから、すこしかわったな、アイ……」「君は――君はまるで……地球種の意識体みたいにみえる」そうとは知らぬ自分の息子の野々村のことを意識するようになってから、アイ(松浦)は徐々に変化の兆しを示すようになり、自身の潜在(無)意識の蠢きに戸惑うようになる。第八章では、「やつらは、たてついているんだろう?(略)小気味いいじゃねえか!(略)どうせ、おいつめられ、くたばっちまうのはわかっているが、まあそれまで、がんばれよって、いいたくなるじゃないか!」と野々村たちの肩を持つひねた叛逆者ワゴオに対しても、アイ(松浦)はシンパシーを抱くようになり、ワゴオの自殺後「私にできることは、彼の反抗的態度をだまっていてやることだけだ」と部下の隊員に語り、部下もまたアイ(松浦)の台詞に次のように答える。「私も――さからって見たくなりましたよ。たとえ螳螂の斧でもね」さらに第九章では、アイ(松浦)はとうとう野々村を追いつめるのだが、ほんの一瞬ためらい、けっきょく野々村を逃してしまう。「それ以上に、彼を狼狽させたのは、彼の冷然たる狩人の心に、一瞬、相手のやみくもな意思が、奇妙な共鳴をまきおこし、獲物の最後の自殺的な反抗を、やらせてみたい、といったような気が、ふと起こったのではないか、という感じだった」

 こうしたところに、私は、小松の無意識に潜むナショナリズムの情動の噴出を見るような思いがするのだが、私はそれに好感を持っている。けれども、同時に私はそれに疑問を感じ、距離をとってしまう。そこでは「直線性というフィールド」が、言い換えれば「同一性の原理」が自明視されており、日本のナショナリズム的反抗は、けっきょく、アメリカの統合の論理の模倣でしかないからだ。この叛逆は、「実存的ロマンティシズム」であり、「疎外論」的反抗でしかない。「疎外論」というのは、「われわれは本来性から疎外されているがゆえ、本来性を取り戻さなければならない」という論法である。つまりは、起源にありもしない「本来的な日本」を想定して、「同一性の原理」の強化に貢献してしまう。問われなければならないのは、自己と他者を選別し、その差異を固定化し、差別の論理を作動させる「同一性の原理」そのものの暴力のはずである。であるがゆえに「直線性というフィールド」の図式を、括弧に入れ、それを懐疑精神のフィルターにかけてみる必要がある。叛逆者たる野々村が、「二十五世紀で、三十世紀で、達成された認識を、全面的に1万年前の世界に、フィードバックするんだ!一万年前の世界に、三十世紀の科学と知識をうえつけるんだ――1万年かかってやっと到達できる知識を、もう一度もどしてやるんだ」と言う時、私は野々村に反対せざるを得ない。野々村は「同一性の原理」の権化となって、歴史を透明な表彰空間に置き、それを操作しようとしている。それは歴史の肉体を抹殺する行為に等しい。自己と他者を肯定するためには、つまりは世界を肯定するためには、剰余としての精神を、ノイズとしての肉体を、世界に導き入れようと試みることだ。

 「『果しなき流れの果に』に見られるクラシカルかつロマンティックな青春(4)」へと続く。

(2007・6・5)
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