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  「『果しなき流れの果に』に見られる クラシカルかつロマンティックな青春(1)」

 認識という行為は、結局のところは、オイディプスの姿に似てくる。テバイの王オイディプスのあまりに有名な悲劇は、自分の出生の秘密を探る彼の認識の行為を通して生起する。「探偵小説はそのきっかけを物語の中で、物語の進行とともに展開するのではなく、その唯一の主題は、すでに事前に起こったことを探り出すことなのである」(「探偵小説の哲学的考察」)と書くエルンスト・ブロッホは、認識する探偵とオイディプスを近しい関係にあるものとして捉えている(ブロッホの定義は、ミステリファンからも高い評価を受けているホーガンの『星を継ぐもの』によく当てはまる。この作品では五万年以上に遡って人類の起源が探られる)。

 「精神医学は文芸批評に似ている」としばしば言及する(『批評という鬱』その他)三浦雅士もまた、ブロッホと同じ認識を共有しているし、さらにスガ秀美もブロッホを参照して書いた評論「探偵のクリティック」において、先鋭的な批評家としての探偵を、ポストモダンの知の担い手なのだと(限定つきで)称揚する。さらに小松左京のサイコスリラー的作品「ゴルディアスの結び目」において、登場人物の一人ユーイン医師も「精神分析は、ある意味で推理小説と大変似た構造をもっている」と発言している。それに対して主人公伊藤は「自分は探偵よりは探検家という言葉を用いたい」という意味のことを言っている。「探検家」はプロメテウスの似姿と言っていいが、探偵(精神分析家)としてのオイディプスもプロメテウスもexploit(開発する=搾取する)という点において共通している。このような視点は、探偵小説と精神分析と帝国主義による植民地支配が並行しながら進行したという歴史を視界に収めうる現在では、ほぼ公認された了解事項である。

 ところで、こうした事態は、古代ギリシアの悲劇の主人公や、十九世紀に誕生したエンターテインメントの王者、あるいは高度資本主義の運動のみに固有の現象であると限定されるわけではない。このことは、真理と認識のあいだの「ずれ」に宙吊りにされた人間の条件からもたらされているのだと言うしかない(資本主義は先進国と後進国のような「ずれ=差異」から利益を得るのである)。
 真理から隔てられているという人間の宿命的な条件こそが、意味や言語を、あるいは科学を、総じて言えば文化全般としての文明を成り立たせてきた。言うなれば、マイナスの条件をプラスに転化することに成功した。真理と認識のあいだに「ずれ」がなく、ぴたりと一致している状態というのは、(虚構としての)文明とは対極にある(真理としての)自然の状態であり、そこにあるのは動物の本能的な生である。

 むろん人は動物のように生きることもできる。ヘーゲル学者のコジェーヴが、近代のプログラムが完了した後には、人は哲学のような真剣な闘争を必要としなくなり、スノビズムに満ちた動物的世界が到来すると結論したのはつとに有名である。コジェーヴは、青春の情熱との訣別を、確認したわけである。

 だが、『果しなき流れの果に』と題された小松左京の作品において、主要な登場人物の一人である野々村浩三という若者は、「青年だから」と身構える意識的な選択以前に、肉体のほとんど本能的な身振りにおいて、子供じみた情熱に身をゆだねてしまっている。一九六六年(野々村が事件に巻き込まれる年)のオイディプスと言うべきこの青年は、N大学理論物理研究所において、周囲から世捨て人扱いされている大泉教授の下で「ただ一人の助手」として働いているのだが、彼は密かに『時間と認識』という表題の研究ノートを書きつけている。野々村自身によって「幼稚なエスキース」と自己査定されるこのノートこそが、十億年もの時空を超えた壮大なプロジェクト――その過程でソポクレスの『オイディプス』のように、野々村はアイ=松浦と、相手が実の父親である事実を知ることなく、戦いを演じることになる――の指導的後継者へと野々村を押しやってゆく。松浦の所属するグループに対抗するグループでNという名で活動する野々村を、自らの後継者に指名するのは、リーダーのルキッフであるが、小松によれば、ルキッフはルシファー(悪魔)に由来するという(『SF魂』)。

 野々村のノートの同時代の唯一の読者は、野々村の恋人の鴨野佐世子である。彼女は野々村の消失後、恋人の残したノートを読みながら次のような感慨を抱く。

《その思考そのものは、依然として理解できなかったが、彼の心――特に『雄』の心の中に生まれる、ほとんど非合理的な衝動――知的な好奇心というもの、見方によっては何の役にもたたないものを、いたいほど理解できた。》

 佐世子が野々村の中に正当に見出している「非合理的な衝動」「知的な好奇心というもの」 は、ルシファー(悪魔)の属性ということになるが、小松が恐らくとらわれてしまっているのだろう善悪という平板な二元論に、本稿は与するつもりはない。「逸脱」「過剰」としてある「青春」を、そして一九六〇年代の文脈において積極的な意義を有していた「肉体の肉体性」を擁護する意図を本稿は担っている。「肉体の肉体性」は「自然の自然性」の異名でもある。

 探偵小説における名敵役(例えば、明智小五郎に対する怪人二十面相や黒蜥蜴)に相当するもので、SF小説の王道的キャラクターにマッド・サイエンティストなるものが存在する。小松の実質的なデビュー作である「地には平和を」(『果しなき流れの果に』の原型的作品といえる)にも、相当にカリカチュアされた姿で、すでにこのキャラクターは登場 している。「任意の異なった歴史」をつくりだすアドルフ・フォン・キタ博士という名を持つこの人物のことは、ひとまず例外扱いするとしても、小松作品にあっては異端の人物が 積極的な役割を担わされ、作品を活気づけてゆく。

 例えば『日本沈没』の田所博士は、そのような人物として造型されている。彼の弟子筋にあたる幸長助教授は「田所さんは野人だ」と断定し、「学者としては、アウトサイダーというより、無法者、アウト・ルールの人なんだよ」と小野寺俊夫に語る。また別の場面では、「政財界双方にわたっての、一種の黒幕業」の大物である渡老人と田所博士は対面するのだが、自宅の軒先につばめが来なくなったことに異変を察知するこの老人の「科学者にとって、いちばん大切なことは何かな?」という問いに対して、博士は「自然科学者にとって、最も大切なものは、鋭く、大きなカンなのです」と言下に答える。

 こうした事柄は、田所博士が「自然の自然性」に対する感性に恵まれていることを証しだてており、小松作品のメイン・キャラクターにふさわしい資質を有していることにつながっている。「自然に関わる図式」をなぞるに過ぎない科学者と、田所博士のように「自然 そのもの」とあい渉り合う科学者の二つのタイプがいることになるが、次の節では『果しなき流れの果に』を通して、二種類の「知」のあり方を確かめてみたい。

 「『果しなき流れの果に』に見られるクラシカルかつロマンティックな青春(2)」へと続く。

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