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  「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡(3)」

(3)文学

 (本稿はサブタイトルどおり「文学」を中心に書かれるが、「文学」をハイカルチャーとして位置づけ、サブカルチャーと対立させる箇所も含まれる。文学自体はハイカルチャーとサブカルチャーの両方を含んだ両義的な文化と考えられるが、話の流れから「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡」の第三弾としてこの原稿があることを、あらかじめお断りしておく)

 日本近代文学について言及するにあたって、かならずや参照しなければならない文献のひとつに柄谷行人の『日本近代文学の起源』(1980年)がある。この書物の中で、柄谷は、近代文学の起源に認められるある転倒というか、逸脱あるいは踏み外しに焦点を合わせて次のように述べている。

 「つまり、『忘れえぬ人々』という作品から感じられるのは、たんなる風景ではなく、なにか根本的な倒錯なのである。さらにいえば、「風景」こそこのような倒錯において見出されるのだということである。すでにいったように、風景はたんに外にあるのではない。風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならないのであり、そのためには、ある逆転が必要なのだ」

 「風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる」

 「概念(意味されるもの)としての風景」が転倒する出来事のなかでこそ、主体は生成する。「概念」とは、いうなれば、コモン・センス(常識=共通感覚)のことである。一般的な感覚的風土、すなわち共通感覚とは異なる感覚に目覚めてしまうことが、主体の覚醒なのだといえる。生きるということは、共通感覚に従うこと以上に、各自固有の感覚を日々更新してゆくことだろう。その固有と思われていた特異な感覚が自分とは異なる他者と分有してしまうことを、驚きつつ喜びをもって肯定することが、魂の交流と呼ばれる体験なのであろう。

 概念の破壊=更新は、誰もが日々体験していることではある。デカルトは外国で自国とは異なるシステム(慣習)と遭遇することのうちに、ハイデガーは世間(的自己の離脱)から本来性(としての自己)への移行のプロセスのうちに、差異の絶対性を感受していた。ただし注意しなければならないのは、この「本来性」を自明視してしまうという錯誤であって、この地点でデカルトとデカルト主義は袂を分かつわけであるし、ハイデガーの場合は不覚にもナチズムにコミットすることとなった。

 風景=概念の転倒は、「真の自己(国家)」という疎外論を呼び寄せやすいものなのである。それは小さなレベルでは「自分探し」とやらにつながるし、大きなレベルでは過度なナショナリズム(失われた故郷の復活)を勃興させることになる。この罠に陥らないためには「疎外論批判」をきちんと受け止めておく必要がある。日本でも60年代に廣松渉の「疎外論革命批判」がその役割を担っていた。逆に疎外論を梃子にして「日本を取り戻せ」と保守的革命を担ったのが三島由紀夫だった。これらの左と右によるそれなりに評価に値する強度ある知性と感性は、80年代にはその論理=倫理=批評性を失い、消費社会のなかでなし崩し的に雲散霧消してしまう。

 ところで「疎外論批判」は、埴谷雄高の名高い「自同律の不快」に対応する。私の考えでは、「自同律の不快」の側にある論理=倫理=批評を手放していった過程のうちに、80年代のカルチャーとメンタリティーがある。じっさいこの時代は「自分さえ気持ちよければいい」という極端に幼児的なナルシシズムが大手を振って歩いていたのである。論理=倫理=批評の欠落と並行して80年代に始まり、そして今もなお進行している軽薄な現象が口先だけのレトリックといったものである。公正を謳う報道番組のキャスターまでもが、論理的にはめちゃくちゃな口先だけのレトリックを弄していたりする。

 ただし埴谷雄高自身も論理的にめちゃくちゃなところがあって、スガ秀美は埴谷のアフォリズム「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば俺はこれだけ」をとりあげて、結局のところ埴谷雄高の文学は同一性の文学だと批判している。同時にスガは埴谷雄高と三島由紀夫の近さを指摘している。要するに埴谷もまた「疎外論(保守的)革命」にすぎない、と。私自身は保守革命も何がしかの改革はするだろうと思っている。例えば北一輝に影響を受けた岸信介(安倍晋三の祖父)は、革新官僚であって、商工省の官僚時代、満州で着手した自由経済と計画経済の折衷である「日本型資本主義」を、戦後の日本でも応用し高度経済成長を導いた。いわゆる「1940年体制」であり、総力戦体制の戦後版であった。このパラダイムのもとで、司馬遼太郎の歴史小説も、小松左京のSF小説も書かれている。

 埴谷雄高は、戦前、治安維持法にひっかかって、獄中生活を余儀なくされた(昭和7〜8年)。彼の代表作である『死霊』はそこで構想された。この小説は特異な場所と結びついた作品であり、第1章の精神病院に始まり、墓地、屋根裏部屋など、通常の風景と切り離された場所を舞台としている。同じように自由民権運動に挫折した明治の文学者北村透谷は、自らを「政治の罪びと」に擬して、「獄舎(ひとや)!つたなくも余が迷入れる獄舎は、二重(ふたへ)の壁にて世界と隔たれり」(『楚囚之詩』)と歌った。このような壁のイメージはリビドーが内向化し、内面が内面としてひとつの実在のように存在を捉えている様を覗わせる。じっさい北村は次のような情熱に掴まれていた。

燃え上がる、あの火は?其色の白き黒き、赤き青き入雑じれるは、何事ぞ、何事ぞ!
あれ、あれ、あの火の都の方よ
その火!その火!都!都!(『蓬莱曲』)

 そしてまた北村透谷は次のような興味深い文章を書いている「労働と休眠は物質的人間の大法なり、然れども熱意は眠るべき時に人を醒ますなり。快楽と安逸は人間の必然の希望なり、然れども熱意は快楽と安逸とを放棄して、苦痛に進入せしむることあり。生は人の欲する所、死は人の恐るゝ所、然るに熱意は人をして生を捐て、死を甘受する事あらしむ」(「熱意」)文学における「不眠」の系譜というのは確かにあって、田村隆一や吉本隆明、古井由吉もそうだし、ヨーロッパに眼を転じれば、ブランショが殊のほか有名で「夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ」という言葉を残している。

 大江健三郎の『万延元年のフットボール』の蜜三郎もまた、熟睡することを禁じられた人間で、「僕は、自分の内部の夜の森を見張る斥候をひとり雇ったのであり、そのようにして僕は、僕自身の内側を観察する訓練を、みずからに課したのである」と告白している。彼は、穴ぼこに蹲りながら、うしなわれた熱い期待の感覚をさがしもとめている。穴ぼこに蹲りながら彼も、透谷と同じように、燃えるような赤に反応する。「ハナミズキの葉裏はすべてあかあかと光をやどして、その色彩は、僕が谷間の村の寺で潅仏会ごとに見た地獄絵の(それは曽祖父が、万延元年におこった不幸な事件のあとで寄進したものだ)炎の色に似た、脅威的でかつ懐かしい燃えるような赤だ。僕は、ハナミズキから、意味の十分にはさだかでないひとつの信号をうけとめ、よし、と心のなかでいった」穴ぼこに蹲る蜜三郎の姿は、地下倉に自己幽閉しつつ明治4年の一揆では指導者として活躍した蜜三郎の曽祖父と重なり、それは日本の近代文学の根源にある自己幽閉者としての北村透谷にもつながっている。ここに埴谷雄高の『死霊』の登場人物たちを付け加えてもよい。

 四半世紀に及ぶ長い中断期を経て『死霊』第5章が発表されたのは1975年のことであった。それは周囲を戸惑わせ、一部からの失笑を買った。日本近代文学が実質的に終焉を迎えるのはこのあたりではなかろうか。埴谷雄高をはじめとして、三島由紀夫や吉本隆明のような「地下室の思想家」が根こそぎ飲みつくされ、精神の地下室が消滅してしまった、と柄谷行人が書いたのは1971年の終わりごろである。

 1970年前後、最も重要な作家であった古井由吉による「解体」の妖しい魅力を体現していた文体から、その狂気が払拭されてゆくのが、やはり70年代中期である。三浦雅士は、内側から生きられていた狂気は、外側から眺められるようになる、という意味のことを書いていたように記憶する。古井が散文の狂気であるなら、言葉そのものが狂気を演じていたのが山本陽子による詩作品であった。

 67年から70年にかけての山本の詩は、日本現代詩のある臨界点に達していた。瀬尾育生は、山本やその近傍にある支路井耕治の試みを、テロリズムであると見做したが、このような作品行為はもう現われないような気がする。かりにこのような傾向性が出現するとしても、それを受容する感覚的風土は存在していないがゆえに、犯罪や自殺という不幸な結果にいたりつくのではないか。山本は77年に生前の唯一の詩集『青春――くらがり(1969……)』を刊行した後、84年8月に肝硬変のために死去。

 1977年は、中上健次の傑作『枯木灘』が発表された年だが、このあたりから文学の超越性を支える情熱のようなものの衰弱が顕著になり始める。団塊の世代に属する作家がこぞって登場してくる頃で、浅はかなシニシズムが不当にもお洒落だとされてしまう感覚があたりを蔽いつくすようになる。旧世代の肉体化されていた倫理のようなものが、みるみるうちにバカにされ始める。当時文芸時評を担当していた柄谷行人は次のように書いている。

 「たとえば「中間小説」――最近はこういう語をあまりきかない――を書きまくった北原は、それと「純文学」を峻別していた。「体は売っても心は売らぬ」というようなものである。そこには、永遠なるものへの信仰があった。(略)しかし、「野生時代」に「さすらいの甲子園」、「群像」に「葡萄畑」を書きわけている高橋三千綱には、もうそれはない。若い作家たちは、北原が信じていたような「時間」を信じていない。彼らの試みになんら新しいものはないとしても、一つ確実なのは、彼らが「文学」を信じていないことである」

 柄谷の文章に登場する「信仰」という言葉は、私は避けたいと思う。もっと唯物論的な言葉を用いたい。「良心」の疼きを惹起するような「本能」とでも言ったらよいか。旧世代の文学者江藤淳を論じた文章のなかで、同じく柄谷行人は次のように書いている。「ただ個体が生存することがそのまま本質的であるような状態への本能的な飢渇が彼を反逆的たらしめるだけだ。「良心」とはまさにこういう「本能」にほかならないのである」「「良心」を支えるものを、氏が「感覚」とよび、けっして「信仰」とはよばぬことに注意すべきであろう。氏のいう超越性は、われわれの「存在」、われわれの肉感に根ざしたものである」本能的な飢渇こそが、ありうべき世界への欲望を支えるものなのだ。それは、違和感や不快として個体に体験されるものであるが(例えば「自同律の不快」のように)、この世界変革の根本にあるものを、意図せずに吹き払ってしまった作家が1979年に登場する。その作家の名は、村上春樹である。「意図せずに」と書いたが、80年代に起こった「良心」という「本能」の消滅は、村上1人の責任というよりは、村上を誤読したサブカル文化人の側により多くあると私が思うからである。

 話が長くなりそうなので、唐突だが、ここでいったん原稿を締める。この続きは「情熱の消滅」という(仮)タイトルで、「文学系」のコラムとして発表したいと思う。

(2007・2・12)
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