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  「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡(2)」

(2)ポップ・ミュージック

 例えば夜明け直後の静かで透明な時間の中で、事物が最初のモーションをまさに開始せんと、微かな、だが熱い期待を帯びた予感の感覚があたりに浸透し、その予兆の気配を真新しい皮膚の表面で受け止め、心地よい緊張が背筋を引き締めるような、あるいは図らずも試みは不成功に終ったが、自分にはまだ意志も気力も、そしてまたそれに見合うだけの希望も可能性も残されているのだと、空元気ではない楽天的な充実した気分とともに、再び立ち上がろうとする時の爽やかな肉体感覚、そのような溌剌とした垂直の感覚が70年代初期のカルチャーの中には感受できたように思う。

 ポップ・ミュ−ジックでそのような具体例を挙げるとすると、いくつもの候補が犇めくのだが、ここではまずは五輪真弓の「少女」(1972年)を取り上げることにする。この曲をはじめて聴いたのは1975年のことで、リアルタイムからは若干遅れているのだが、いい曲だなと思った。今回改めて聴き直してみると、アレンジ特にドラミングが結構ハードなことに驚きを覚えた。ある喪失感が歌われているのだが、この曲の少女は北風に抗いつつ荒野で一人屹立するハードボイルドなイメージなのである(じっさいは少女は「坐って」いて、立ち上がって歩き出そうとする直前の緊張を湛えた身構えが描かれている)。

木枯らしが 通り過ぎる
垣根の向こうに
少女はいつか
行くことを 知っていた

 と最終連で歌われるように、この曲の主人公は超越的な寒い場所へと出発する。少女のメンタリティーは非世俗的な場所に属している(少年少女という存在はそういうものだと言えばそれまでだが)。私の中で、この曲とまるで双生児のように、傍らに並んでいるのは荒井由実の「ひこうき雲」(1973年)である。

白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない、そして舞い上がる

 この曲の「あの子」が男の子なのか女の子かはわからない。それはどちらでもかまわない。むしろ性別がはっきりしない方がいいといえる。「あの子」はきわめて抽象的(中性的)な存在なのであり、透明な抽象性がこの曲で擁護されている。そうした抽象性を、少年少女の中間的領域と呼ぶことができそうだ。

 ところでこの曲で、「あの子」は「かげろう」に包まれながら地上から空へと上昇するのだが、ここに縦の図式が出来上がっていることに注目したい。「最後に実存の垂直軸上に悲劇的表現の軸が設定される。悲劇における運動はつねに上昇と落下の次元に属しているのであり、この運動の特権的な特性を示すのは、上昇の動きが落下の寸前で停止し、揺れ動き、その目に見えない均衡が実現される一点である。それゆえ悲劇は、空間と時間のうちに広がる必要はほとんどない。悲劇の使命は運命の垂直方向での超越をあらわにすることにあるというのが正しいとすれば、悲劇には未知の大地も夜のやすらぎさえもいらないのだ」とフーコーは書いているが、本稿が問題にしたいのはこの「垂直」の主題である。

 「悲劇」のことはどうでもいい。「熱狂や歓喜へ向かう長く厳しい努力という主題や光り輝く頂上という主題」が重要なのである。後者の主題においては「実存は、もはや生の重苦しさを知らず、知っているのは瞬間の永遠性のうちで愛がおのれを全うするような透明性だけである。この実存にとって生が可能になるのは、はるか遠くにあって高貴なこの光の空間への飛翔というかたちをとってでしかなく、大地は実存の暗い近みにあり、それが秘めているのはもはや死の切迫だけである」ここで言われている「はるか遠くにあって高貴なこの光の空間」に対する感性が70年代初期にはあったが、80年代には見失われたものなのである。

 おそらく現在の松任谷由実なら、初期のアルバム(ファースト、セカンド)のパセティックな色調を嫌うのであろうが、私はこの時期(荒井由実時代)の作品のほうが、『14番目の月』以降の風俗性が強くなってくる作品よりも好きなのである。例外としては84年の『ノーサイド』がある。

何をゴールに決めて
何を犠牲にしたの 誰も知らず
歓声よりも長く
興奮よりも速く 走ろうとしていた

 というフレーズには80年代の青春とは真っ向から対立するような「上昇と落下の次元」が垣間見られる。「落下」をしないことの凡庸なスマートさ、言い換えれば情熱を生きることを避けるやり方が、80年代の青春のスタイルだったのである(しくじった者をいち早く見つけ出してそいつを嘲笑うというのが当時のお洒落だった)。三浦雅士が言うように、70年代前半で青春は終焉したのかもしれない。
 ちょうど荒井由実が松任谷姓へと変わる頃、尾崎亜美が「瞑想」でデビューした時は「とうとうポスト・ユーミンが現われた」と思った。デビューの翌年の77年には「マイ・ピュア・レディ」が早くも化粧品のCMソングに起用され、同じ年の「初恋の通り雨」もカーペンターズの「遥かなる影」の世界を想起させる佳曲だった。70年代初期のカーペンターズ/バート・バカラックに通じる良質なポップスを、尾崎は体現していた。この時期の尾崎亜美と松任谷(荒井)由実を比べるなら、私は尾崎の方に軍配を上げる。

 ただし長期的に見るなら、尾崎も優れたミュージシャンだが、松任谷由実はそれを凌駕する巨大な才能の持ち主であることがわかる。一昨年(2005年)の愛知万博ではテーマ・ソングを担当していたようで、閉幕時に万博会場でパフォーマンスしてニュース映像で映し出されもしたが、そこでは「ユーミンの物真似をする清水ミチコの物真似」という大技を披露していた。てっきり清水ミチコが歌っているのだと思った。

 原稿が長くなりつつあるので、以下は駆け足で記すことにする。1972年というと、まずは昭和歌謡のベスト5に間違いなく数えられる大傑作「あの鐘を鳴らすのはあなた」を挙げなければならない。私はこの曲をベスト1に推す。作詞(阿久悠)、作編曲(森田公一)、ヴォーカル(和田アキ子)のどれもが素晴らしい。とりわけメロディーは「青春時代」(トップギャラン)の作曲者と同じ人間の手によるものとは信じられないほどの出来ばえである。アレンジも完璧で、楽天的なブラスセクションはこの時代のみに成立する輝きで、グランジ以降にこれをやってもパロディにしかならないだろう。作詞の阿久は、この曲について「大きな曲を作ろうとした」と回顧しているが、じっさい色褪せることのない「大きさ」を実現している。この大きさは超越的であることと同義である。73年ぐらいまでは超越的な時間への信仰が、かろうじて成立することが可能だった。

 ウイッシュの「六月の子守唄」(1973年)も、宇宙的な広がりと深さをあらわす名曲で、「星がひとつ空から落ちてきた」という最初のフレーズで私はグッときてしまう。ヴォーカルの伊豆丸れい子・幸子姉妹の声にも宗教的な艶っぽさがあって、こういう質感のあるシンガーは今はいないなあと思うのである。

 70年代前半というのは(また後で書くことになると思うが)、熱い運動の終った後の内向の緊張の強度が高まった時期であった。この時代はプログレッシヴ・ロックの全盛である。プログレは77年に実質的に終ったと思う。具体的にはピンク・フロイドの『アニマルズ』とイエスの『究極』。ピンク・フロイドは80年に2枚組みの大作『ウォール』を発表するが、私はいいとは思わなかった。84年にイエスはパロディ歌謡のような「ロンリーハート」を出して、「プログレの葬式」を自ら演じてみせた。

 77年にはセックス・ピストルズが『勝手にしやがれ』を発表し、メンバーのジョニー・ロットンは「ロックは死んだ」と発言した(70年代には「ジャズは死んだ」という発言もあった)。この年で印象に残っている曲にカルメン・マキ&OZの「空へ」という超越性を強く感じさせる曲があった。カルメン・マキはこの曲で実質的に終った。またこの年はチャーが「気絶するほど悩ましい」を発表して、ロックから歌謡曲に転身を図った年で、複雑な感慨があった。77年はロックにとってある分岐点だったようだ。

 またチューリップが終るのも、私にとっては、77年なのである。デビュー曲の「魔法の黄色い靴」から「博多っ子純情」までは、チューリップは私の中で評価の高いバンドであり、その新作が楽しみなミュージシャンの一人であった。ところが、皮肉なことに彼らの最大のヒット曲である「虹とスニーカーの頃」(1979年)で、私は心底がっかりしてしまった。正直彼らは終ったと思った。

 1979年というのは、私にとって兆候的な年で、オフコースが彼らにとっての最大のヒット曲「さよなら」を出して、またしても私をがっかりさせてくれたのである。とにかく私に超越的な世界を垣間見せてくれた偶像的なミュージシャンが、雪崩をうって瓦解していくのがこの年なのである。

 オフコースといえば、私は彼らのサード・アルバム『ワインの匂い』(75年)が大好きだった。このアルバムに収められた「ワインの匂い」と「愛の唄」は今でも好きである。「愛の唄」はカーペンターズが気に入ってカヴァーしようとしたらしい。どちらの曲も不思議なメロディーで、類似の曲を見出せないのである。とりわけ「愛の唄」は、歌詞は他愛のないラブソングなのだが、その旋律は独特な魅力があり、私には教会の中でこの曲が流れているイメージがある。クラシックの定番の「アヴェ・マリア」と同列にある。「さよなら」は通俗歌謡でしかない。

 五輪真弓の「恋人よ」(1980年)にも、五輪が特別なミュージシャンであっただけに、がっかりしてしまった。五輪本人はこの歌を自分の最高傑作と思い込んでいるらしいが、私に言わせれば、彼女の「少女」に遠く及ばない。「虹とスニーカーの頃」も「さよなら」も「恋人よ」も、箸にも棒にもかからぬ通俗歌謡でしかなく、これらの凡作をミリオンセラーにしてしまった当時の感覚的風土が腹立たしくてしょうがない。

 70年代前半に清々しい緊張感とともに登場したミュージシャンたちが、ダメになっていくのが79年なのである(セールス的には成功を手に入れたようだが)。同時期に登場し、それなりの緊張感を維持し続けたのは山下達郎くらいだろうか。山下の硬質な純情ぶりは貴重である。79年というのは邦楽も洋楽も、とにかく聴くものどれもが退屈で退屈で、しかたがないからジャズやクラシックに手を伸ばしていたくらいである。この頃一瞬フュージョン・ブームが起こって、この頃印象に残っているのは、デーブ・グルーシンの『マウンテン・ダンス』やクルセイダースの「ストリート・ライフ」である。

 80年代で音楽の超越的な時間を感じさせたのは、坂本龍一の「メリークリスマス・ミスターローレンス」であり(YMOは面白いと思うものの好きにはなれない)、尾崎豊であり(尾崎はファースト・アルバム以外は駄目)、渡辺美里の「マイ・レヴォリューション」あたりだったろうか(ただし渡辺はこの曲以外は駄目)。当時の渡辺はコンサートで70年代のメッセージフォークを歌っていたらしく、取材した新聞記者は「時代はあっという間に変わる。少し前は暗いと言われたのに」と呆然としていた。とはいうものの80年代は他人の視線ばかりを気にしているような変化球みたいな音楽が横行していた。ある英国のミュージシャンは、中学生時に聞き始めた80年代の音楽を振り返って、「カスばかりつかまされていて、頭きちゃうよ」とインタビューで語っていた(付け加えておくと、パールと今井美樹/上田知華も70年代のオーラを担っていた。短命を宿命づけられている超越系ミュージシャンの中で今井は息が長い)。

 90年代に入ると、「理念」という言葉とともに音楽の超越性が復活する。早い時期ではエポの「百年の孤独」(92年)があるが、渡邉大輔は「日本の音楽シーンでは浜崎あゆみ、MISHA,鬼束ちひろ、宇多田ヒカル、中島美嘉など、1980年前後生れのアーティストの作る楽曲の多くが、ある種の「純粋性」=サブライムへの再帰的な欲望(とその不可能性)を表現していた」と書いている。それ以外にもボニーピンク、平原綾香、椎名林檎などの名が挙げられる。椎名は「エロさ」で語られがちなところがあるが、「エロかっこいい」の倖田来未とはかなり傾向は異なっている。当たり前のことで書くのは気が引けるが、椎名は倖田に比べてはるかに「寒い(超越的な)世界」の住人なのである。

 70年代(前半)の音楽についてよく語られることに、学生運動の挫折後の内向や内省がある。挫折後の内向は、特に文学に顕著で、60年安保挫折後の『万延元年のフットボール』(大江健三郎)が政治運動に挫折後明治10年代に自己幽閉者となった北村透谷と結びついていることを、柄谷行人は指摘している。けれどもこの話題は音楽から逸脱するがゆえ、稿を改めることにしよう。「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡(3)」へと続く。

(2007・1・10)
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