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  「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡」

(1) コミック

 1960年代の「ヤクザ映画」に煽り立てられ、ヤクザ映画評論で映画評論家デビューを果たした上野昂志は、東映の大部屋俳優集団「ピラニヤ軍団」について論じた文章(「反英雄たちの夢――ピラニヤ軍団」)の中で、次のように述べている。

 「いずれにせよ、スクリーンの内外を通じて映画なるものの底を支えてきた部分が川谷らの「ピラニヤ軍団」で、その浮上は、映画の底が露出してきたことを意味しているのだ。従ってそこに見られるのは、下積みの苦労を重ねてきた端役がその芸を円熟させていつか名脇役になっていたというような美談ではなく、逆に、どのようなスターの光をも失わせしめるような「映画」の崩壊過程が、否応もなくその土台をさらけ出したということなのである」

 上野の文章は、1968年の『博奕打ち・総長賭博』(山下耕作監督)で頂点に達し、70年代に消滅する「任侠映画」が「「任侠」という虚構を生み出す場」の「崩壊」に直面し、73年の実録映画『仁義なき戦い』に変質したという見立てのもとに書かれている。上野は、また、「同時に、映画を作り出す会社という物質的基盤の崩壊が白日の下に晒された」とも書いているが、世界の映画史においても「映画の死」を厳しい現実的条件として受け入れた「73年の世代」が登場する。その中の1人であるヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』には73年のジョン・フォードの死亡記事が大写しになる画面が登場する。

 なるほど、確かに上野が言うとおり、73年のあたりにひとつの切断線が走っている。やくざ映画史で見れば、72年の藤純子の引退によって「仁侠映画」の幕が引かれ(上野によれば、じっさいは70年の『昭和残侠伝・死んで貰います』で終ったとされる)、代わりに『仁義なき戦い』が登場する。上野はそのような状況を次のように解釈する。「ヒーローの不在は、それにふさわしい敵役をなくし、親分からチンピラに至る役柄をなべて平準化してしまう。「集団性」とは、このことである。しかし逆に、役柄の平準化(つまりは職業としての役者という共通性を露わにする)は、それぞれの役者の“柄”=肉体をきわだたせるようにも作用する。「ピラニヤ軍団」の面々が浮上したのも、このことの故である」

 この状況にうまいこと対応していたのは、萩本欽一で、浅間山荘事件(72年)のテレビ中継に想を得て、自分の番組に「ライブ性」を導入して一時代を築き上げた。「欽ちゃんファミリー」的なものが始まったのもこの頃からだったように思う。後に吉本隆明は、「欽ちゃんは脇役みたいな人をテレビ画面の中央に持ってくる」と驚嘆した(「クロベエ」とか「斉藤清六」とか「風呂屋のセンタロー」とかいたよなあ)。この頃は『仁義なき戦い』と違って、萩本的な牧歌的世界が、まだうまく機能していたと思う。「ピラニヤ軍団」が出演した『前略おふくろ様』も牧歌的世界の物語だった。そういえば、『前略おふくろ様』の主人公のサブ(萩原健一)が、一方的に惚れられたお嬢さん(坂口良子)と、オールナイトの映画をデートで観に行く場面があって、そこで上映されているのが高倉健の「唐獅子牡丹」であったのは、本稿の文脈にあまりに合致しすぎている。

 長々と73年前後のやくざ映画を取り巻く状況を振り返ったが、このことは「コミック」の世界についてもあてはまるように思う。1973年というのは、不世出の天才ボクサー矢吹丈の青春を描いた『あしたのジョー』の連載が終了する年である。古典的なスポ根のヒーローが消滅したのである。ジョーと入れ替わるように、『あしたのジョー』の作画(原作は梶原一騎)を担当したちばてつやの実弟ちばあきおが発表した『キャプテン』(1972年)とその続編『プレイボール』(1973年)が登場する。また1973年には山本鈴美香の『エースをねらえ』の連載が開始される。

 『エースをねらえ』は、妾の子としての屈折を胸に抱く宗方仁コーチが、亡き母親の面影を宿す素人の岡ひろみを教え子として育て、この2人の大部屋俳優が、スター俳優であるお蝶夫人らに戦いを挑む物語であった。『エースをねらえ』は宗方の死をもって第1部が終了し、その3年後(1978年)に第2部が開始されるのだが、物語の当初は良いとして、この2部は回を重ねるにつれ、「甘ったれるな!戦時中の若者がどんなに苦労したか知っているのか」という説教ばかりが繰り返されるという無残な袋小路にはまってしまう。1979年あたりの時期に、作者の山本鈴美香の身に何らかの変調が起きているとしか思えないのである(このことについては後で改めて書く)。

 また『キャプテン』も、才能の片鱗すらない「反英雄」たる谷口タカオ少年を主人公に据えた新しいタイプのスポ根だった。この作品の登場後、『しまっていこうぜ』や『ヒット・エンド・ラン』のような同系列の作品が発表され、私はそれらの植物的な優しさが好きだった。

 『キャプテン』はこのジャンルの先行作品『巨人の星』とは対照的な面を持つ作品であった。『巨人の星』は、星飛雄馬という天才型の投手を主人公に据えており、であるがゆえに飛雄馬はたった1人でピッチャーマウンドに屹立することができた(ピッチャーは反民主的な貴族のようなポジションであろう。『巨人の星』のエピソードにスケ番グループと関わった星と左門豊作がヤクザに因縁をつけられる場面があり、「左門さんのようなりっぱな男がまちがっても頭をさげる相手ではない」と飛雄馬は突っ張り通し、左門は「悲しかほどに負けん男。いや、負けることば、ゆるさん男たい」と感嘆するのだった。飛雄馬は長屋育ちだが、徹頭徹尾騎士であった。このスケ番グループ――竜巻グループ――のリーダー京子は、今の言葉でいうと「エロかっこいい」――「新宿(ジュク)の女番長お京なりに、精いっぱいまことをあげるよっ、星!」)。それに対して谷口タカオは、凡才のサードであり、とても1人で世界と対峙し、戦うことなどできはしない。2年近い間、名門青葉学院の冴えない補欠として過ごして、そのことを骨身に沁みてわかっている谷口にできることは、泥臭い努力と、町工場のオヤジ社長のようなしぶとい計算分析である。さらに、これは谷口の天才的側面であるかもしれないが、谷口には彼特有の二流の鈍い輝きを周囲の人間に伝播させ、二流の生のスタイルを彼らに感染模倣させることによって、名の無き者たちの集団的闘争を、図らずも、組織してしまうのである。谷口は周囲によき理解者を得ることによって、はじめてその真価を発揮するタイプの人間なのである。

 上野昂志は、『巨人の星』の主要なキャラクターたち(飛雄馬のみならず伴宙太、花形満、左門豊作)の周囲に父は姿を見せても、母親が不在であることを指摘している。上野はそこに「母親を中心とするマイホーム主義に反発する戦前型の家父長主義」を見出している。飛雄馬の父一徹が「百獣の王ライオンはわが子を千尋の谷底へと突き落とし、そこから這い上がってきた者だけを自分の子と認める。飛雄馬よ。這い上がってきて、わしと戦え!」と語るのは、よく知られたエピソードである。『キャプテン』にこのような言葉を発する登場人物は、まず、存在しない。『キャプテン』を特徴付けるのは、むしろ、父親の不在といった事態である。むろん、谷口にも、実際には、いつも大工の作業着姿で登場する人のいい父親がいるが、この父親は「父の姿をした母親」といった存在である。彼は常に野球のオチこぼれのわが子をかばって包み込もうとする(谷口少年の背後から彼を暖かく見守る母の視線の遍在ぶりを想起しよう)。転校先の野球部で名選手と勘違いされた谷口が、その勘違いがばれぬようにと、毎晩近所の神社で父とともに猛練習に励むが、もう無理だと、ついに音を上げる。谷口の父は「もうあきらめろタカ。いいんだ。いいんだ。よくここまでがんばってきた。とうちゃん、おめえをみなおしたよ」とタカオを抱きしめながら語る。星一徹はこのような台詞は発しない(といっても、大リーグボール2号を投げる飛雄馬の姿を、3塁のコーチャーズ・ボックスから見つめながら、彼は目頭を押さえ続けるのだが)。

 『キャプテン』『プレイボール』の舞台である荒川沿いの「ゼロメートル地帯」は、ちばあきおの柔らかい筆致が描くように、千尋の谷で獅子の親子が厳しい訓育を演じる父性の空間ではなくて、とても1人では戦いを維持することが困難な傷つきやすい者たちを優しく受け止め、支えあいながら自立を目指す「共同体」のような安らかな母胎空間なのである。狭いがゆえにフルスイングの練習が出来ぬ彼らの高校のグランドや、そうした実情を見かねてOBたちが借り切ってくれた河川敷の練習場もまた、優しい母胎空間の変奏である。彼らのライバルたちであるエリート野球部らの設備の整った立派な球場は、母胎的な共同体空間とは対立する、近代的企業のような父性を著しく帯びた空間なのである。であるがゆえに、エリート野球チームには、例えば青葉学院のサングラスをかけた監督のような厳父が必ず存在し、エリート選手たちを率いることとなる。一方の谷口たちのチームは、「監督」と呼ばれる父的存在は姿を見せず、キャプテンとメンバーが支えあいながら連帯するという基本的には弱者の寄り合い所帯なのである。だから彼らは、草野球場のような空間や、他者を傷つけないやり方で弱さを克服しようと試みる者たちに囲まれて、集団競技に取り組んでいるあいだは、安泰でいられる。けれども、団体競技が個人競技へと置きかえられ、安らかな野球グランドからボクシングリングのような残酷な場所へと移動させられれば、事態は一変する。ちばあきおの遺作となったボクシングまんが『チャンプ』には、ある痛ましさが露呈していた(ように記憶している)。

 ちばあきおの『キャプテン』『プレイボール』は、それぞれ1979年、1978年に連載が終了している。ちょうど山本鈴美香の『エースをねらえ』の調子がおかしくなってくる頃である。ただしちばの両作品は、チームメンバー全員でのランニングの光景という穏やかな空気に包まれて幕を閉じている(『キャプテン』の終了間際ではマイクロバスの中で流れるピンク・レディーの「カメレオン・アーミー」にメンバーたちがたじろぐという同時代とのちょっとしたすれ違いが描かれてはいる)。ちばは1977年に『キャプテン』と『プレイボール』が評価されて、第22回小学館漫画賞を受賞するのだが、この年は王貞治が756号本塁打の記録を樹立した年でもある。1977年が「反シニシズム的な幻想」が生き延びたリミットの年であったように思う。「弱きものたちの心温まる連帯」(萩本欽一的ヒューマニズム)は、やがて脇へと追いやられ、健気な努力家を嘲笑い、踏みにじることをお洒落とする時代がやってくる。今でこそ王貞治はリスペクトの対象となっているが、80年代には笑いものにされていたという記憶の方が私には強い。80年代に山本鈴美香は新興宗教に走るのだが、70年代的な生真面目な人たちが、不幸を強いられているさまを見ているのは心が痛かった。

 そんな1984年にちばあきおの『チャンプ』は発表された。実はこの作品を私はちゃんと読んでいない。当時大学生だった私は、行きつけの散髪屋の待ち合い席でこの作品の単行本を見つけてぱらぱらと読んだに過ぎない。当時の私は、ちば作品と親和してしまう自分の感性と同時代との折り合いのつけ方が見出せずに苦労していた。ちば作品を愛してしまう自分に自己嫌悪のような態度をとらざるを得ないような格好で、ちば的なものを「好きなのに嫌い」というねじくれたような状態を強いられていたのである。だから散髪屋でちばのコミックを見つけた時も、懐かしさと同時に「今ちばを読むことは反時代的なことではなかろうか」という複雑な気持ちになったものである。そういう心境だったから、その時の漫画体験は、ひどく暗いものであった。そのコミックで唯一記憶しているのは、体には大きすぎるトランクスを穿いたいじけたねずみのような顔をした不吉な少年の姿である(私はこの少年が『チャンプ』の主人公だと思い込んでいたのだが、この人物はあくまで脇役で、主人公はもう少し正視に耐える人物のようだ)。

 そのときはホントにゾッとした。ちばあきお的な優しい母胎空間が崩壊した後に取り残された弱者の惨たらしい悲惨さが露出しているようだった。まるでナチスの収容所で絶望に晒されているユダヤ人の姿を見るようだった。ここまで陰惨な光景をちばの作品で見るとは思わなかった。もともとスカスカの絵を描くちばあきおの画風にボクシングジムの無機質な空間はそぐわなかったように思う(巨大な才能を誇る兄ちばてつやに比べれば、あきおはストーリーテリングの才能も作画技術も数段劣る、と言わざるを得ない)。

 ねずみ顔の少年にはホントに参ってしまった。誰からも愛されない人間の陰惨な姿がそこにはあった。兄てつやなら、個人競技を描く場合、田中清に対する坂口松太郎(相撲『のたり松太郎』)や向太陽に対するトム少年(ゴルフ『あした天気になあれ』)という風に、孤独な人間の脇によき協力者や保護者を立たせるのである。あきおはそのような配慮すら忘れているようだ。あとは自らを守る方途としては、他者を呆然とさせるガムシャラな「努力」だろう。「これだけトコトン努力する人間というのは異常ではないか」(七三太朗)「なぜここまでやるのか、という賛嘆と不気味とが混じった疑問すら浮かび上がってくる」(酒見賢一)という風に、誰もがちば的キャラクターたちの振る舞いに眼を見張る。彼らは努力に徹することによって、自分の中にある禍々しいもの、不穏なものを押さえ込んでいるのである。自殺にも他殺にもコミットしたくないから、努力の中に閉じこもろうとする一種の病人なのである(よく言えば自己破壊衝動の昇華形態である)。けれども1984年の時点では最後の避難所である「努力幻想」は、完全に崩壊していた。『チャンプ』には、ちばあきおが隠し持っていた悲劇的な癒しがたい不吉なものの影がよぎっていたように思う。ちばあきおも谷口タカオも不幸な人たちだと胸が締めつけられた。

 1984年9月13日、ちばあきおは自殺した。そのニュースを知った時、「ああやっぱり」という思いが胸をよぎると同時に「70年代の良質な部分の息の根が完全に止まった」と思った。それからしばらくして10月25日にアメリカの作家リチャード・ブローティガンの自殺遺体が発見された。自殺したのは1984年9月14日だと推定されている。お互いに名前すら知らなかったであろうこれら2人の人間は、同じ年のほぼ同じ日に自殺していたのである。私はこの2人の姿が重なり合ってしかたなかった。「この2人は80年代に殺られた」というのが、当時の感想である。作家の小林信彦はブローティガンの死に際して、「70年代のフラワーチルドレン的な優しさは80年代には居場所を見つけられなかったであろう」という意味のことを書いていた。植物的な優しさは、完全に葬り去られた。私が80年代を好きになれないのは、この2人の自殺があるからである。この2人の自殺の延長に1986年のいじめによる中学生の自殺がある。このニュースを知った時も「80年代の空気」のことを思わずにはいられなかった。有名な「葬式ごっこ」に参加した連中は、80年代の空気を読むことに長けている人間たちだった。あるいはそれに感染した人間だった。この空気を拒もうとする人間は、当時であれば相当な変わり者扱いされただろう。メディアが不可避的に持たざるを得ないテレビの「教育装置」としての側面を、当時、思わずにはいられなかったし、今も思っている。「古典的な権力論」以降のフーコー的なネットワークとしての権力の問題も触れようと思ったが、長くなるのでやめておく。

 予想外に長くなったので今回の原稿はここでおしまい。「サブカルチャーにおける1973年から1979年の軌跡(2)」へと続く。次回は、もっとコンパクトに、短く書こう。

(2006・12・8)
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