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  「ロボットとミュータント」

 ロボットものSFは一種のミュータントものではなかろうか。ヴォクトの『スラン』やスタージョンの『人間以上』などが、このジャンルの有名作品である。これらの作品の登場人物たちは、「異能」の持ち主であるがゆえに疎外意識に付き纏われているのが特徴で、ある種の人々の疎外感覚を仮託されている存在である。

 この種の疎外感に近しいのは、「思春期」の人々であろう。思春期の孤独や切なさを、「花の24年組」と呼ばれる少女マンガ家たち、とりわけ萩尾望都は『ポーの一族』や『スター・レッド』といった作品で巧みに表現した。『スター・レッド』は、『ポーの一族』に比べると話題になることが少ない印象を受けるが、星雲賞を受賞した(私個人にとっては)一大傑作である。この作品では、萩尾の世代の女性が担わざるを得なかった「フェミニズム的メンタリティー」と思春期特有の透明な悲しみが、「火星人」や「半獣人」といった形象と有機的に結合し、追いつめられた弱者が崖っぷちで見せる崇高さが見事に描かれている。

 今さら気恥ずかしい「ミュータントの疎外感」の話題を持ち出したのは、近年の秀作であることは間違いない浦沢直樹の『プルートウ』第1巻から第3巻を、最近読んだからである。この作品は、いうまでもなく、手塚治虫の『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」の斬新なリメイクである。「ロボット」という言葉は、よく知られているように、チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『R・U・R』に由来し、それはチェコ語のrobotnik(農奴)が語源である。ここは是非ともおさえておきたいポイントである。

 ロボットSFを確立したアイザック・アシモフは、有名な「ロボット工学の三原則」を提唱した。それは次のようなものである。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 間然するところのない原則であり、人間の「あるべき姿」としても通用しそうだ。けれども留意しなければならないのは「ロボット」は「農奴」が語源なのであり、これらの律法はあくまでも「理想的な奴隷像」として人間に押し付けられたものなのである。美しい(主人にとって都合のいい)奴隷を描いた小説にストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』があるが、この作品を読んだ阿佐田哲也は「内面をも支配しようとするとは許しがたい。ぶっ殺してやる」と強い反発を覚えたという。アシモフのロボットSFの第1作「ロビイ」はSF的な外観を剥ぎ取ると、人の良い奴隷か忠犬ハチ公を安いヒューマニズムで料理したような物語である。(愛犬ロボットのアイボがヒット商品となったことがあったが、このあたりに大衆の欲望―俗情―の水準があるようだ。アイボの先駆けは「たまごっち」だろうか)。

 ロボット、それがとりわけ優秀で立派な(?)ロボットが登場する作品に接する時に、われわれに提供される快感に対しては批評的なチェックが必要であるように思う。そうした作品には、われわれが失いかけているような純粋さや、献身の美徳を備えた人格的(?)に非の打ち所のないロボットが登場する。その姿を見て、思わず「人間よりも人間らしい」「美しい」「感動した」と無垢な(?)涙を流したりもする。けれどもロボットという巧妙な道具立てによって、われわれの視線に一種のヴェールがかけられてしまうのだが、気高いロボットという存在は「純粋無垢」や「高貴さ」という観念の怪物のようなものである。われわれの無責任な願望を投射された(当人たちにとっては甚だ迷惑な)手前勝手な鏡にすぎない。これが生身の人間であったら、輝かしくも哀れな不具者として疎んじられるほかないだろう(「天皇」の姿に似ているともいえる)。生身の人間相手なら「俗情との結託」と批判されかなないご都合主義のイメージを、ロボットは盛られるのに便利な器なのかもしれない。健気なロボットの姿に心打たれるというなら、一度でいいから本気で建前に徹してみて欲しい。言い換えるなら「ロボットの受難」を真摯に生きてもらいたいと、大人気なく思う。

 「ロボットもの」の物語に接する時にいつも感じるのは、「なぜ彼らには感情が付与されてしまうのか」という素朴な疑問である。機械なら機械に徹すればいいではないか。人間の感情を持ってしまった機械というのは、悲劇的な存在以外のものではあるまい。それは機械というよりはミュータント、もう少し人間の方に近づけるなら、周囲と違いすぎるエリートみたいな存在だろうか(世界に7体あるとされている「高性能ロボット」とは「エリート」の比喩のようなものだろう)。

 映画「ブレード・ランナー」には、自分が人間であるのかレプリカント(ロボット)であるのか判定することが出来ずに悩むレプリカントが登場する。このレプリカントの姿は、「ブレード・ランナー」の原作者であるディックの作品にしばしば登場する自分の記憶が真実であるのか紛い物であるのかに苦悶する人物たちと相似している(『プルートウ』のロボット刑事もまた自分の記憶の秘密におののいている)。この不安は、ディックの基本的な生存感覚である。人間に似てかすかに人間からはズレてしまっているという感覚は、ディックに終始付き纏っていた。おそらくディックは分裂病だった。ロボットというと、埴谷雄高の『死霊』に登場する精神病医岸博士が語る一人の患者のことを、私は思い出す。「患者のなかには、時折、あまりに美しすぎる精神の持主がいて、私達をまどわすことがあるんです。つまり、そこに生の痕跡を認められないような―つまり、精神と精神の在り方との間に一分の間隙もない患者ですね」

 『プルートウ』に登場するロボット刑事ゲジヒトは、ホフマン博士による「定期メンテナンス」を受けているのだが、その場面はあたかも、精神科医と患者の精神分析カウンセリングのようである。この場面ではゲジヒトの見る夢のことが話題となり、そこではフロイトの名前すら言及される。また「人工知能矯正キャンプ」なるもの(ロボットのための精神病院?)までもが登場し、その地下室とおぼしき場所にはブラウ1589という半壊した(発狂した?)ロボット(8年前に殺人を犯している)が監禁されていて、その在り様は『羊たちの沈黙』のレクター博士に酷似している。超話題作となった『モンスター』でも描かれたように、浦沢は人間の心の闇の部分に関心を引き寄せられるようで、それに対する感性も凡百のコメンテイターよりもはるかに高い。漫画などの表現ジャンルと関わることは、闇と関わることと同義であるから、当然であるが。

 『モンスター』が過去の秘密への遡行を物語の基盤に据えていたように、言い換えれば「事後的な過去の再構成」という精神分析の物語スタイルを踏襲していたように、『プルートウ』もまたロボットを脅かす悪夢の秘密に迫ることに沿って物語が展開することになるのだろう。私の唯一の危惧は、それが『砂の器』のような物語に似てしまうことである。「ノース2号」なるロボットを巡る物語は、そのような危うさを感じさせなくもない(実に心地の良い物語ではあるが)。

 ノース2号はもとは軍事兵器なのだが、エピソードでは、盲目の音楽家の召使として登場する。この音楽家は、子供の頃母に捨てられた記憶に苦しめられ、それをばねに世界的天才の地位まで登りつめたという、まあ受難者としてのロボットの親類のような人物である。この不幸な男のためにノース2号は、男の生れ故郷へと赴き、その土地の民謡を採取し、男の母親が男を見捨てたのではなく死ぬまでわが子を思っていたという真実をつきとめてくる。こうして「母恋い」の物語は、見事に完成する。「国民的作家」とも称される浦沢ならではの手腕とも言える(浦沢自ら「国民的作家」と名のっているわけではないのだから、この称号に対して浦沢はなんらの責任も負ってはいない)。

 ところで「母」や「故郷」にこだわった作家に寺山修司がいる。けれども、寺山にあっては、「母」は畸形としての巨大な女であったり、ゲイであったりと、「国民的な」イメージとしての母を裏切るような力を常に働かせる。この批評性は貴重なものだと思う。私が「ノース2号」の物語の作者であったなら、浦沢と寺山の中間をとるだろうか。すなわち

 ノース2号は盲目の音楽家の故郷へと赴くのだが、そこで遭遇する母親の評判は悪いものばかり。事実として、自らの保身のために子を捨てた性悪女であった。しかし真実を男に知らせるにはあまりに忍びないので、ロボットは偽りの物語をでっち上げ、男に紛い物の安堵感を与える。

 このようにして、なんとか「国民的作家」の物語に抵抗を試みるだろう。上記程度のものでは弱すぎるとは思うが。非国民に徹するには、もっとタフな悪意が必要とされるだろう。

 浦沢直樹の作品に接していて思うのは「この人は根が善人なのだろうな」というものである。国民的作家としての資質は十分である。しかし国民的イメージ(俗情)とたやすく折り合って欲しくないので、もっと禍々しいものの方へ(極限的な「善」であってもかまわない)追いやってみたいというはた迷惑な挑発をしかけたい気にもなる。浦沢は、ジョージ秋山の作品をどう思うのだろうか。浦沢にジョージ秋山の「アシュラ」のような作品を期待するのは、やはり、酷だろうか。

 ともあれ『プルートウ』は高水準の作品なので、個人的希望としては、『砂の器』的な物語と是非とも生産的な葛藤を演じてもらいたい。最終的に『砂の器』的な世界に収斂しようとも、幅も奥行きもある世界が出現するのではないか。大衆文化の水準がどこまで引き上げられるか注目したい。

(2006・5・12)
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