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目次 A.文学系 B.サブカル系 C.ノンセクション D.どうでもいい話 Abou me
 

  「時代と映像」

 今年のNHK大河ドラマの『義経』が好調のようである。歴史物の風土にあっては、妙に浮世離れした少年アニメ的なエピソードに彩られている義経の役に、その容貌およびその対となる弁慶役の松平健との体格的な組み合わせにおいてタッキーこと滝沢秀明がうまくはまっている。とりわけジャニーズ所属のタレントの必須項目であるダンスに長けている滝沢の身体所作がこのドラマの隠しテーマである香港系アクションに絶妙に反映している。

 この隠しテーマ(たんに私の勘違いかもしれないが)に気づいたのは、「源九郎義経」と名乗る以前の「遮那王」時代の義経が、源氏狩を謀る平氏に雇われたうつぼの兄たちに鞍馬山中において取り囲まれた時に、義経が披露したバク宙2回転のアクションシーンを見た時であった。「いくらなんでもこれはやりすぎだろう」と呆れ返ったのだが、すぐさま『義経』制作スタッフたちは『マトリックス』をやりたがっているのではないかと思った。彼らが時代劇において『マトリックス』を目指すという自覚された意図を持っているのかどうかは不明だが、一部の映画ファンから支持され『マトリックス』によって世界的に認知された香港映画が開発したワイヤーアクションの映像の記憶に制作スタッフは操作されているにちがいない。してみると美輪明宏演じる鬼一法眼の指導で兵法の修業に励む若き義経が、中国系武術の動作を演じていることもごく自然に納得される。

 有名な五条大橋における義経と弁慶の最初の出会いおよび戦いの場面においてもワイヤーアクションは大々的に活用されていた。五条大橋の右後ろ側に人工的に設置された満月といい、義経と弁慶の果し合いが始まるやいなや飛び散り画面いっぱいを満たす桜吹雪といい、ケレン味たっぷりの演出がなされるのだが(このケレンは鈴木清順か?)、その場面においてワイヤーに吊られた義経は、いささか見劣りするとはいえ、『グリーンデスティニー』や『マトリックス』ばりの反重力アクションを演じ、現在の映画の主流であるところの画面のスペクタル化に追従していた。「義経伝説」愛好者は存分に堪能したのではないだろうか。

 私はスペクタルなものをけっして毛嫌いしているわけではないのだが、その対極にある緊張を孕んだ静かな画面に対しても強い執着を覚えていて、時代劇で言えばそれは三隅研次の世界に代表される。三隅研次とは倒産した大映で活躍した監督で、「大魔神」シリーズにも手を貸した職人である(「大魔神」シリーズについては「付録其壱」として、若干の思い出を文末に書いておく)。三隅の映画について蓮實重彦は次のように書いている。「だが、切り捨てられた悪人たちが屋根から転げ落ちるさまを視覚的なスペクタルとして特権化するといった凡庸な演出を自らに禁じる三隅研次は、瓦の傾斜に踏みとどまる片足の短いクローズアップによって、動きへと移行する直前の不動性を鮮やかに描き出す。映画にあっての運動とは、こうした静と動とのはざまに生起するものなのだ」(「「座頭市」や「眠狂四郎」シリーズにもまして「剣三部作」を通して「来るべき作家」三隅研次を発見しよう。」)こうした「繊細な演出ぶり」は現在の映画やテレビドラマではめったにお目にかかれないものなのだ。

 今後のNHK大河『義経』では源平合戦のクライマックスとして有名な「八艘跳び」のシーンが控えているが、その場面はマトリックス的スペクタルで行くのか、それとも三隅的趣味のいい渋さ路線で行くのか、その演出方法が興味深く思われる。現在のNHKの志向性から判断するに、おそらくはマトリックス系で行くと思われるが。


 つい最近DVDで同じくNHK大河の『国取り物語』の総集編を見たのだが、この作品でも同時代の映画の影響を見るような思いがした。『国取り物語』は1973年の放映であったが、この年の1月には東映のヒットシリーズ『仁義なき戦い』が公開されている。物語的には戦国時代の下克上を描いた『国取り物語』は、近世における「仁義なき戦い」だと言えるが、何にもまして印象深かったのは、戦闘シーンにおける手ぶれも辞さないハンディカメラの多用ぶりである。『仁義なき戦い』の監督深作欣二が開発したこの斬新な演出は、映画の常識を覆す新鮮な驚きを世界に与えたが、これと同じ手法が『国取り物語』においても用いられていたのである。

 また霧によって視界が遮られる戦場を上空のカメラから俯瞰するシーンがいくつか登場するのだが、この場面は、私に『ダーティーハリー』(1971年)のサッカースタジアムの俯瞰のシーン(同じように霧がかかって視界が遮られる)を思い起こさせた。先に登場した蓮實重彦は『ダーティーハリー』の監督ドン・シーゲルの映画を「画面が混濁する」と評したことがあったが、『国取り物語』においても「混濁」するとまでは言わないが、そうたやすくは「わかりやすさ」とは折り合いをつけぬという力が働いているように思う。まあ『国取り物語』は原作者が司馬遼太郎なのだから、当然といえば当然なことではある。

 谷沢永一は「司馬遼太郎は『経済』を描いた」と語ったが、確かに司馬にはエコノミスト的な思考方法が認められる。経済行為は善悪(という意味)の彼岸において営まれるのだから、司馬作品が「勧善懲悪」というお手軽な物語を組織することを拒むのは当然だといえよう。そのかわりに司馬作品では(経済的)合理主義の物語が組織される。司馬は言うなれば善に対する感性を見失うことのない性悪論者と評することができる。また司馬は貝塚茂樹博士の「中国の政治家も西洋の政治家も、歴史に対して演技をします。歴史に対して演技をしないのは野蛮人ですよ」という言葉を気に入っている様子なのだが、「劇場」のイメージを通して人間を解釈する志向が司馬には強くある。経済主義的合理性といい、劇場における演技といい、ともに「表象」というものに関わっている。私は司馬には一目置いているが、このあたりが司馬の限界点だとも思っている。司馬的言説では「表象しえぬもの」に触れることができないからである(司馬についての記述は「付録其弐」として文末におく)。

 ともあれ『国取り物語』が放映されていた頃の映像イメージには、実在的な身体の感触といったものが感知されるのである。乱暴にそれを「アナログ」と呼んでしまってもよい。同時期のアメリカにおいてもニューシネマ周辺の映像には、おそらくベトナム戦争泥沼期の屈折や後悔の気分が画面に陰影として反映していた。レーガン政権成立後のアメリカ(および日本)では、良くも悪くも軽薄な透明性(わかりやすさ)が広がり出して、思考や想像力を麻痺させ始めた。「デジタル」とか「記号」といった言葉がもてはやされた時代である。ポップ・ミュージックにおけるコンピューターサウンドの普及やプロモーションビデオの人気なども、つるつるとした映像の大量生産に一役買っただろう。

 特に劇画やマンガといった画面のジャンルにおいて、70年代と80年代ではかなり様子が違っていたように思う(いわゆるマンガマニアではないので正確にはわからないが)。『子連れ狼』や『あしたのジョー』(『あしたのジョー』に関する記述を「付録其参」として文末に置く)や『カムイ伝』や『ゴルゴ13』(70年代のマンガをこれらの作品で代表させてよいのかどうかわからないが)といった作品の絵柄や物語は80年代に入ると急速に消滅していった。これは本物(適当な言葉が見つからないのでこれを用いる)からアイドルへという時代の流れに対応している。80年代のアイドル文化は食い足りなかったし、心の底から感動できるものではなかったが、何よりもキツかったのは「これを楽しまなくてはいけない」という時代の要請を圧力として受けていたことである。

 今にしてわかるのだが、あの頃若い人間として切実に求めていたのは「強度」であった。音楽にしろ、映像にしろ、言語表現にしろ、凄いものと出会い心底驚きたいという欲望を、表面上には出さずにひた隠し、その欲望が世の中のいたるところで流産させられてゆくことを人知れず悔しがっていた。いまだにこのアナクロニズムと縁を切れずにいるためか、強度ある映像を求めるとなると過去の方へ目が向いてしまう。


<付録其壱>東宝の「ゴジラ」シリーズのヒットに対抗して各映画会社が特撮怪獣物を作り競ったが、シリーズとしての完成度の高さを誇るのは「大魔神」シリーズである。(「ゴジラ」シリーズは見れるのは最初の3作ぐらいまでだし、「ガメラ」シリーズにいたっては見応えあるのは第1作のみである。)「大魔神」シリーズはじつのところ全部で3作品しかないのだが、1本たりとも駄作というようなものはない。しかも驚くことにこれらの作品は1966年の4月(『大魔神』)、8月(『大魔神怒る』)、12月(『大魔神の逆襲』)に公開されており、すべての作品が同じ年に集中しているのである。
 三隅研次が監督として名を出しているのは第2作の『大魔神怒る』であるが、個人的にはこれが一番好きだった。『眠狂四郎無頼剣』でも組んだ藤村志保が耐えるヒロインを演じ、その美しさには目を瞠らされた。子供の頃の私は日本的な顔立ちにはかっこよさや美しさはまるで感じなかったが、強風吹き荒れる場面の中、祈りを切なげに訴える藤村志保の表情に日本女性の美しさを教えられたように思う。
 映画自体で最も印象的なのは『十戒』のパロディシーンである。二つに割れた海の中を大魔神が例のゆったりしたペースで、ドスンドスンと地響きを立てながら悪を懲らしめに歩んでくるに場面には本当にわくわくしたものだった。こうしたサスペンスシーンの元は東宝版『ゴジラ』にあるが、ハリウッド版『ゴジラ』のまるでカール・ルイスが短距離走のコースを疾駆するかのようなデジタル的慌ただしさには誰もが失望を禁じえなかっただろう。CG技術とやらのおかげで無きものとされる貴重な感覚というのはある。
 ところでシリーズ3作目の『大魔神の逆襲』でメイン・ヒーローを担う少年役を演じたのは『マグマ大使』のガム役の二宮秀樹である。子供の頃私はガムが変身する小型ロケットに乗りたくて乗りたくてしかたがなかった。そのロケットに唯一乗ることのできる人物まもる役の江木俊夫に本気で嫉妬を感じていた。『マグマ大使』のストーリーはあまり覚えていないのだが、それを見ることには常に痛みの感覚が付き纏っていた。なにしろマグマ大使の敵役ゴアとその手下の人間もどきたちによってまもるの家庭はばらばらに解体されてしまうのである。父(岡田真澄が演じている)と母と息子の3人が家族としてまとまっている時間などまるでなく、3人めいめいが人間もどきたちとの追跡劇を演じていたように思う。理不尽にも崩壊させられてしまったまもるの家庭が、かつての団欒を取り戻そうと悪戦苦闘するプロセスが物語を貫くメインプロットだったように思う。子供の私は「まもる」がかわいそうでかわいそうで胸が締め付けられる思いがした。そしてまた仮の孤児であるまもるをマグマ大使一家が擬似家族として庇護するのを見てちょっぴりうらやましくも思った。『マ グマ大使』は涙なくしては見られないファミリードラマだったのである。同時期の『河童の三平』も同じ構造の物語で、生き別れになった母親を、主人公三平少年が河童の一族と擬似家族を組みながら、探したずねるというドラマであった。この頃の子供番組は、それなりに深刻な重荷を背負いながらも仲間たちの援助を受けながら主人公が乗り越えてゆくという絵に描いたようなビルドゥングス・ロマン的なものがけっこう多かったような気がする。


<付録其弐>司馬遼太郎の名が出る時、かなりの確率で藤沢周平の名がその脇に並ばされ、両者の比較検討が始まるといった場面をしばしば目撃することがある。ところでこれははたして正しい比較のあり方なのであろうか。私にはこの比較は野球選手とサッカー選手を比較し優劣を決定するようなものに思える。
 なぜなら司馬は歴史家だが、一方の藤沢は癒し系のファンタジー作家であるからだ。こう書くからといって私は藤沢を貶めるつもりはない。私は藤沢の熱心な読者ではないが、彼の作品でいくつか好きなものもある。そしてまた宗教や芸術を必要とせざるを得ないことは人間の条件であるとも思っている。問題はその「強度」である。強度の高いものは批評足りうると思う。強度なきものは退嬰的な快楽でしかないだろう。
 藤沢作品を参照すべき歴史として扱うことには私は抵抗を覚える。だから司馬と藤沢を、歴史作家として比較した上で藤沢を評価する人の言葉を、私はあまり信用していない。それは社民党的言説に行き着くしかないだろう。社民党というのは政治団体ではなくて宗教団体だと思う。政治の場である議会の場に宗教団体がある、というその一点にこそ社民党の存在意義がある。社民党が政治団体を目指そうなどと考え始めたなら、社民党は完全に消滅することになるだろう。


<付録其参>直木賞作家の重松清が『あしたのジョー』の中で好んで取り上げるエピソードがある。
 矢吹丈とともに丹下ボクシングジムに所属するマンモス西は、試合を前にして減量することを丹下段平に命じられる。けれども何日トレーニングを続けてもいっこうに彼の体重は減らない。真夜中にこっそりとジムを抜け出す西の後を追った丈の目撃したものは、屋台の夜鳴きうどんをすする西の姿であった。(丹下の)おっちゃんに対する西の裏切りを許せぬ丈は、屋台の傍らで西のボディに拳を食らわせる。やがて西はボクサーとしての自分に見切りをつけ、ジムを去る。
 このエピソードを取り上げる重松は西の肩を持ち、丈を責め立てる。誰もがヒーローではないという現実に無知な矢吹丈は傲慢に過ぎる。大半の人間は西として生きるのだ。殴りつけるとはなにごとか。
それはそうだろうとは私も思う。それなりに癒しの言葉にもなっているとも思う。けれども癒しというのはやはり現実性に欠けるのではないか。マンモス西は職業の選択を間違えたにすぎないのではないのか。西は相撲部屋に入るべきだったのである。そこに減量の苦しみはない。むしろ積極的に「食べる」ことが奨励される。食いたいだけ食えるのだ。食べることが義務付けられているといっていいほどだ。しかしながら西のような男は相撲の世界でも脱落するだろうと思う。

(2005・3・7)
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