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  「人が良いことと人が悪いこと」

 ユーザー層を限定するジャンルというものが世の中にはいくつか存在するのであり、それは例えば「現代詩」だったり、「フリージャズ」だったり、「ウミウシの鑑賞」だったりするわけだが、そうしたもののひとつに「ホラー映画」も含めることができるかもしれない。といっても私が子供の頃は「怪奇物」というジャンルがけっこう活況だった状況があり、夏になれば必ず「怪談物」のドラマをテレビで放送していた。スリルやサスペンスなどハラハラしたり、ドキドキしたりするものが好きだった私は、この手のものにはいさんで飛び付き、そうしたものを見たその夜には蘇える恐怖に眠れなくなってしまい「あんなもの見なきゃよかった」という後悔を幾度も繰り返すというドジな子供であった。けれども高校生になったあたりからはそういうものへの関心は薄まり、だから本屋の映画の棚に『映画の魔』というその手のものに関わっているらしい書物を見つけた時も積極的な関心は喚起されなかったのだが、結局はその本を購入したのはパラパラッとめくったページの上に見た文章の熱さのせいだった。その文章の熱さは作者の高橋洋の子供時代のホラー映画との遭遇からもたらされている。こうした経験から来る熱気が内包されている書物が面白くないわけはないのだが(じっさい面白い)、なにか自分とは微妙にしかし決定的にずれているようなところがあり、そこのところが私にはさらに面白いのだった。

 その「ずれ」の例をひとつ挙げるとすると、スピルバーグの『未知との遭遇』に対する評価を巡ってである。高橋はこの作品を「許せない映画」だとして酷評する。なぜ許せないかと言えば、この映画がユーフォリアのような環境を無批判に蔓延させ、人々の感性や思考を腑抜けにすることに貢献してしまったからだと。その後のスピルバーグの歩みを見ると、確かに高橋の云わんとすることは正しい。だから高橋は言う。「宇宙人よ。攻撃せよ」

 ところで少年の私がこの映画に「えぇーっ」と驚かされたのは、まさにこの映画が「宇宙人が攻撃しない」円盤映画だったからである。それまで私が知っていたこの手の映画は必ず「宇宙人対地球人」という図式の上に作られていた。50年代のアメリカにおける反共政策を反映していたわけだ(悪い宇宙人=ソ連)。そのような図式を自然なものとして受け取っていた者にとっては、この映画は驚きに値した。だから高橋ほどの敵意はこの映画には私は持ち合わせていない。

 また高橋とは違う反応をしているなあと思えるのが如実に顕れているのが、彼の専門の「恐怖物」に対してである。本書の中で高橋は彼自身も脚本家として関わった有名な『リング』の監督中田秀夫をして「中田監督の本来の資質はやはり健全さの側、人間の側にあるのだと思う」と評しているのだが、私自身の資質も中田の側にあるように思えるのだ。ただ私の印象では中田は一種のマージナルマンであって、『リング』のクライマックスのテレビの受像機から這い出てくる貞子や、『仄暗い水の底から』の開いたエレベーターの扉から吹き出る大量の水のシーン(バスタブにたまった水から突き出る腕のシーンでもいいが)に見られる如く、「内」と「外」の通底というか、「内」と「外」との境界線を顕在化させる才に長けている人という気がする。高橋との微妙な差は、中田が陰陽師安倍晴明みたいな人であり、「人間の側」に加担するタイプなのかもしれないということだ。高橋は安倍晴明ではあるまい。

 ところで本書を読んでいて興味深かったのは、子供の頃の私がおぞましいものとして拒絶した「恐怖物」の記憶を思い出させたことである。いくつかあるのだが、そのひとつは『ウルトラゾーン』というアメリカのSF番組であ る。高橋はそのテレビシリーズのある陰惨な物語を紹介している。「「ゆがめられた世界統一」というエピソードがあった。ある科学者グループが第三次世界大戦勃発の危機を避けるために、人類共通の敵、宇宙人を捏造しようとする話である。一人の男が犠牲者に選ばれ、外科手術によってグロテスクな宇宙人に改造される。彼を乗せて極秘裡に打ち上げられた宇宙船は、軌道を描いて地球に舞い戻り、まんまと外宇宙からの侵略者と誤解された。着陸した宇宙船が警官隊に包囲される。男は弁解の余地もないままに、無惨な最期を遂げた。真相を知った妻が、変わり果てた夫の亡骸にすがりついてこう叫ぶ。「他に方法はなかったの?」」私は『ウルトラゾーン』の視聴者では全くなかったのだが、ひとつだけたまたま見て記憶に焼き付けられてしまった映像がある。それがここで紹介されたものであったかどうかはわからない。なぜならここでは捏造された宇宙人の姿が描かれていないから。高橋が紹介しているものと一致していないのかもしれないが、私が記憶している宇宙人の姿は、なんと人の顔を背中に移殖された大蜘蛛であった。それはまあ身の毛もよだつような画面であった。苦悩の表情にゆがんだ男の顔とその妻らしい女が宇宙船の入り口越しに悲惨な会話をしている映像だけが記憶に残っている。そして私はこれを拒絶した。『ゲゲゲの鬼太郎』や『おろち』は受け入れられてもこういうものは駄目だった。大人となった今ならもう少し寛容な態度で臨むとは思うのだが、それでもいらぬお節介で陰陽師のようになだめすかして回収の機構を作動させてしまいそうな気もする。陰陽師はマージナルマンではあるが、それでも探偵ではあろう。すなわち警察的な「レギュラーな知」ではなくて「イレギュラーな知」の担い手である。「探偵」とは警察でもあり、犯人でもあるという奇妙なあり方である。

 高橋の『映画の魔』を読みながら私が感じていたのは、似たような体験や条件を共有しながら違う方法論を志向する感覚の微妙な「ずれ」のことである。比喩的に言うとファシズム的条件を前にしての岡本太郎とブルトンや、ニヒリズム的条件を前にしてのハイデガーとブランショ(デリダ)のあいだの「ずれ」である。

 ハイデガーは言う。「良心の呼び声に応答して本来性へとたち帰れ」(それがナチズムであったことは歴史的事実である)と。ハイデガーのこの言葉は「良心の呼び声(真理の声)」と「空談」の対立図式を前提としている。しかしここで留意しておきたいことは丹生谷貴志が指摘するように、<ひとー世間>の<おしゃべり>は「真理の声」と同質のものだということである(「ハイデガーと文字デザイナー」)。だから丹生谷の論を整理すると、「真理の声+空談」対「異語のざわめき」という図式が想定されることになろうか。しかしさらに私はそこに「ハイパー真理のつぶやき」と「真理の声+空談」と「異語のざわめき」という図式を想定してみたいのだ。21世紀に入ってから(特に「9・11」以降)、私は「異語のざわめき」の可能性に賭金を賭けることに対して躊躇いを覚えるようになっている。

 だから私は高橋洋のように「映画の魔」だ「映画の闇」だと自信をもっては言えない。けれども「真理の声+空談」の空間が世界を覆いつくしてしまうことはかなりまずいことだと、デリダすらもが亡き人となったがゆえに痛切に思う(頭上の「空」はさらにその上に突き抜けているかもしれず、足元の「大地」はその底に裂け目が開いているかもしれないという感覚の不在は絶対的にダメなのだと強弁しておきたい)。こういう認識は高橋と共有していると思う。「ハイパー真理のつぶやき」(じつは「天使のさえずり」という表現も用意してあった)とは不細工な言葉だし、苦しまぎれの一手だとも思う。この苦しまぎれの一手は、ことによると天皇とかそちらの方につながってゆくのかもしれない(天皇については私なりに考えを持っているがここでは書かないでおく)。つい最近天皇自身が東京都教育委員会に牽制球を投げる様子を見て、「人民」には限界があるのかなと思ってしまうのだ。真っ当な人民の頭数が増えなければならないのだと思う。「自由の刑」に耐えてゆく唯一の方法は「自立」するしかないのだ。と言いながら私は「自立」に対して懐疑の念を持っている。

 政治における「三権分立」というシステムは、人間の自立することの不可能性を証明してしまっているのではないかと。(けれどもやはりこのシステムは必要だ)

 本稿のタイトルは「人が良いことと人が悪いこと」であった。「ハイパー真理のつぶやき+異語のざわめき」対「真理の声+空談」の構図においては、どちらが「人が良いこと」で、どちらが「人が悪いこと」であるのだろうか。それともそれは文脈が決定するがゆえに、決定不可能なことであるのだろうか。

(2004・11・1)
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