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  「演歌再建(?)計画」

 どう誤魔化したってやっぱり負けがこんでいるというしかいいようがない状況を強いられている者にとっては「演歌的なもの」が、他人事ではない切実なものとして映る。演歌の熱心なファンではないし、それに対しては全くの無知であるが、多少思いついたことを書いてみようと思う。とはいえ物心ついた時演歌を一種のパロディの類として捉えてしまった私のような者は、演歌の最悪の聴き手であろうし、いっそのこと演歌の敵といってよいだろう。一読後「ちょーくっだらねー」と読み捨ててもらえれば幸いである。

 まずは不動の正統派として、森進一、五木ひろし、八代亜紀の三人がいる。私の中ではこの三人が東映任侠映画の鶴田浩二、高倉健、藤純子に重なっている。このヨタ原稿にはそぐわないが、「やくざ映画」についての次のような文章を引用してみる。「「やくざ映画」的風土とは、生きたまま寝床に身を横たえることを何びとにも許さない環境のことにほかならず、そこから端正さが生れ落ちるのであって、つまりは安眠することのない世界なのである。したがって、「やくざ映画」は、寝ころんだ人間を画面に捉えたことがまるでなかったのだ。「藤純子=お竜」とは、したがって眠ってはならない者、たえず醒めていて、正座するか、立っているか、歩いているか、腰をかがめ「仁義」を切っていなければならない存在となる。」(蓮実重彦「加藤泰の『日本侠花伝』)「端正」なたたずまいとは、森進一のあのぴんと背筋を伸ばした折り目正しい独特な歌唱スタイルとして体現されている。森進一が稀に見るあの姿勢の正しさを維持できなくなったら、その時が彼が引退を決意する時であろう。

 東映の仁侠映画は、その後、「仁義なき戦い」や「極道の妻たち」のような非任侠的なヤクザ映画へと変貌してしまうが、正統派の三人にはその轍を踏まずに、誇り高く成仏して頂きたい。

 次に高度経済成長期的なアニメ系としての演歌。個人的には好きなタイプ。水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」や「365歩のマーチ」(通っていた小学校の校庭で在校生一同で歌わされた記憶がある)などがその代表例であり、60年代的な明るさを漲らせていた。天童よしみの「いなかっぺ大将」のテーマソングもこの系列に入るだろう。また美空ひばりの「柔」とスポ根演歌の双璧をなすと言われる姿憲子の「姿三四郎」もこのグループに属する。ところでついこの間「姿三四郎」のサビの部分を聞く機会に恵まれたが、かつてリアルタイムで聞いた時の記憶以上に迫力があった。その凄まじさは今の時代には収まり難いものがある。この世界を荷える唯一の人材と思われる天童よしみをもってさえ難しかろう。オペラの三大テノールでも無理である。おそらくこれに対抗できるのは(ちょっと古いが)話題となった昼ドラ「牡丹と薔薇」ぐらいであろう。いやはや何とも凄い曲である。

 次にあげるのは今話題の高知の競走馬ハルウララ的なもの。これがなぜか北島三郎と結びついてしまっている。その根拠を示せと言われると、北島がジェームズ・ブラウンの大ファンであるからとしか言いようがない。(ホントかどうかしらないけどそういう話を聞いた)その話を信じるとすると、確かに彼らのエネルギッシュぶりには共通するところがある。北島の代表曲「祭り」はアラバマあたりの黒人教会で歌われるゴスペルソングと通じるものがあるし、サブちゃんだったら銀色のドハデなジャケットをキッチュに着こなせそうだ。ゴスペルといってもゴスペラーズのような都会派の洗練された音楽ではない。あくまでも公民権運動以前の南部で土ぼこりにまみれた綿摘み農夫たちが歌っていそうな音楽であり、これを都会派ゴスペルと区別するために、とりあえず「ハレルヤ」と呼んでおこう。ハルウララと北島三郎がむすびつくのは、この「ハレルヤ」を通してである。自分でも「ハレルヤ」という言葉で何を言いたいのかよくわかっていないが、農民の収穫祭と渋谷あたりのクラブの盛り上がりが混ざり合い、なおかつその底流にある「負け」の刻印という意味不明のイメージがそれに近いかもしれない。(渋谷のクラブで思い出したが、以前民主党代表の管直人が若者たちへのアピールのために深夜のクラブのステージに登場するニュースを見たことがある。ニットキャップにスタジアムジャンパーといういでたちの管代表はクールなニューヨークの黒人にはとても見えなかったが、「私が若いころはビートルズを聴いていました!」と若者たちに媚を売る管代表にはそれなりにハレルヤ的な要素が感じられた。それに対して、あろうことか、スーツ姿でヒップ・ホップを歌ってしまった山本一太(自民党)はハレルヤ度の低い政治家であろう。)

 細川たかしの「北酒場」などはハレルヤ系であろう(黒人教会としての北国の居酒屋)。現在のポップシーンでは木更津のハレルヤ「気志團」が彼らと通じ合っている。ただし気志團はリーゼントにボンタンといういでたちがJB=ジェームズ・ブラウン(黒人教会)というよりはKKK(白人のごろつき)というイメージを想起させる。

 サブちゃんだったらプランテーション時代の綿花農園の黒人たちの苦しみ(ブルース)というよりは、労働後の酒盛りの喜び(ハレルヤ・ゴスペル)を朗朗と歌い上げてくれそうだ。「蘇えるクンタ・キンテ」とか。当然サブちゃんはシャネルズのように顔を黒塗りし、アフロのかつらをかぶるのだ。

 ゴスペル・サブちゃんに対してはSF・CG派の小林幸子がいる。年に一度(大晦日)見世物めいた興行に打って出るところが夏祭りの「蛇女」(失礼)扱いされている小林だが、スポーツジムで鍛えまくっていそうな年に似合わぬ引き締まった人工的な身体イメージは、CG(コンピューターグラフィックス)で描かれた美少女キャラクターかなにかを想起させる。SF映画というジャンルは「スタートレック」に顕著なように仮装大会という要素をたぶんに持っているが、小林の電飾衣装は「スターウォーズ」のようなSF映画の画面に違和感なく収まるであろう。彼女の対抗馬の美川憲一にしたってCMにキツツキ姿で登場したり、けっこうCGしているのである。

 次に時代劇系となるが、氷川きよしの「股旅もの」が最近の代表例。「ズンドコ節」も「古き日本」路線を踏襲しているのだから、中村玉緒とのデュエットではマンボなんかをやってもらいたい。また女性歌手では坂本冬美の八百屋お七をテーマにしたものがある。坂本はお七を歌ったのだから、次は「四谷怪談」のお岩に挑んでもらいたい。榊原郁恵のヒット曲「いとしのロビンフッドさま」にちなんで「いとしの伊右衛門さま」なんかどうだろう。レコーディング前には「四谷怪談」ものには恒例行事であるお岩さんへの墓参りを忘れないように。

 他の若手では松井の父親とデュエットした香西かおりがいる。「積み木くずし」の主演が似合いそうな顔立ちが、金持ちの年寄りを転がすという蓮っぱなイメージによく合っている。蓮っぱ系のまずは筆頭といえよう。

 香西の対極は長山洋子であろうか。その童顔がまるで和服と似合っていないために、「万年成人式」だとか「万年七五三」だとか、日常的な衣装というよりは一生一度の記念行事の衣装といったイメージが拭い得ない。いっそのこと手に千歳飴をぶらさげてみてはどうか。おそらく長山のファンというのは、七五三に千歳飴を買い与える祖父のような層ではなかろうか。

 最後に取り上げるのは、70年の「圭子の夢は夜ひらく」あたりに端を発し、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」でピークにいたり、その後も「北の宿から」「津軽海峡冬景色」などに続いてゆく「裏日本」系である。この系はおそらく、細々ながらも、永遠に続く日本人の国民的情感の受け皿であろうが、その産業的な基盤はほとんど消滅している。同じ日本海に接した韓国でさえ、ソウルのような都市においてはBOAの登場によって、この系列は一掃されてしまったことだろう。「冬のソナタ」にしたってBGMは洗練度の高いポップス系だったはずである。この系を担えるのは、北朝鮮のいなかから中国経由で極秘に裏ルートから脱北してきた人々だろうか。(首都平壌は軍歌とサーカスのBGMが混ざり合ったような大時代的な音楽によって制圧されてしまっている。)諸処の事情からまずは素顔は明かせないだろうから、顔にはモザイクをかけ、音声は変えて歌うしかあるまい。脇に桂小金次を立たせ、さらに喜び組を引き連れた引田天功が登場すれば、鬼に金棒である。

(2004・3・22後に若干の加筆訂正を施す)
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