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　「１９７３年の『日本沈没』（３）」

三　実存とプロジェクト

　小松の「実存」は、次のような風景にその出自を持つ。

大阪城のはずれにたたずみながら、そんなことを考えているとき、ふと私は、その風景の中に、まだ廃墟の姿が残っているのに気づいた。いや――風景のほうにではなく、私の心の中に廃墟がいきいきと生きつづけているのに気づいたのである、あの手のつけられない無秩序と、ほとばしり出るエネルギー、そして無限の可能性――戦後十九年たったにもかかわらず、まだ私の心の中に、あの廃墟が生きながらえているのを見いだしたとき、私は一抹のなつかしさとともに、激しい驚きを感じた。（『日本アパッチ族』p.8-9）

「無限の可能性」という充実した真空とでも呼ぶべき状態に、真の実存や真の詩の萌芽がある。だが、それは未定型の状態であるがゆえに、一種の危機でもある。終止と開始が背中合わせで張り付いているような「手のつけられない無秩序」の中では、「ほとばしり出るエネルギー」だけが荒々しく蠢いている。それは途方もない自由の状態であるが、同時に自己を安定させる自明性の喪失状態でもあるがゆえに、自己はいかなる保護もないまま、世界の過酷さと素肌で接しなければならなくなる。渡老人は、死の直前、田所博士にむかって次のように語る。「日本人はな……これから苦労するよ……。この四つの島があるかぎり……帰る〝家〟があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれている、おふくろがいたのじゃからな。……だが、世界の中には、こんな幸福な、温かい家を持ちつづけた国民は、そう多くない。何千年の歴史を通じて、流亡を続け、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかねばならなかった民族も山ほどおるのじゃ……。」（下巻p.362）

　『日本沈没』を書く上で、参考になった本の一冊として、小松は『日本人とユダヤ人』（山本七平）を挙げている。小松自身は、山本も自分も「日本人を相対化して日本人とは何かを考えよう」と試みたのだと言っているが（『SF魂』）、それ以上に、私には、小松の書く欲望の底には、魂の故郷としての「廃墟」をもう一度取り戻そうという動機があるように感じられてならない。それはユダヤ人には馴染みの深い真空のことである。「意味」によって可能性が閉ざされる以前にある「無限の可能性」としての輝ける「真空」からすべてを始めることこそが、真のプロジェクトというものだ。

　ハイデッガーにとって、「実存」とは、自明性を喪失し、本来性に目覚め、真理の建設へと向かうプログラムのうちにこそ認められるものだった（註２）。小松にとってもまた、実存の投企こそが、彼にとっての人生の意味のすべてであり、そこでしか生の実感を得ることができない。「投企」は、英語では「プロジェクト」に相当する。『日本沈没』を初めとして、小松作品は、プロジェクト（例えば「D計画」）の成功を目指して、文字通り、命を賭ける人々をドラマティックに描くことを得意とする。「緊急事態」という非日常的な聖なる時間の中で、労働と協働という若々しい男祭りの宴に興じることの悦びこそが、小松作品の醍醐味だ、と言える。『日本沈没』に女性の登場人物が極端に少ないのはそのためだ。『日本沈没』は、「青年的労働」に価値があるとされていた時代のパラダイムに属する作品である。

　実存の炎に点火し、一個人の活動をプロジェクトに捧げんとするその神々しい姿は、戦時下で緊張した時間を生きる兵士や市井の人々の姿に重なる（註３）。実際、小松は、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を参照して『日本沈没』を書いた、と言っている。三十世紀のような極端な未来ではなく、七〇年代の現代日本を舞台にしたこの作品は、日本現代史における「一九四〇年体制」をとらえた作品となり得ている。戦前と戦後の連続性をあらわす「一九四〇年体制」という言葉は、一九九五年に野口悠紀雄が用いたことから、広く知られるようになったが、驚くべきことに小松は、それより二十年以上も前にそのことをとらえていた。

　日本が一年以内には海中に沈むという目の前にある危機を前にして、日本政府は国民に対して秘密裏に「D計画」を進めると同時に、対世間的には「世界雄飛」という戦時の標語を連想させるようなスローガンをメディアに流して、精神的な準備を用意させようと目論む。「日本」という「家」が消滅することを見越してのキャンペーンは、例えば次のようなレトリックを含んでいる。「現在では、日本の社会そのものが総体的「マイホーム化」しつつあり、男は身体的に成熟しても、生ぬるい「家庭化した社会」の中で、たくましい「成人」になる場を見いだせない」（上巻p.232）八〇年代には露わになる少女の感性に先導される「消費社会」への男の側からの防御反応にも読めるこれらの言葉は、重化学工業の方法論がイデオロギーでもあった時代に属している（註４）。その方法論は昭和一〇年代、満州で開発された。満州は岸信介ら革新官僚による「理想の国家建設」の一大プロジェクトだったが、そこで岸は計画経済を採用し、重化学工業を中心とするコンツェルンをつくって工業化を進めた。「傾斜生産方式」と呼ばれる重工業に資本を集中させるプランは、戦後の通産省の産業政策に引き継がれた。また、高度成長時代の経団連会長として民間企業をまとめる役割を果たした植村甲午郎は、戦前商工省で岸の腹心であった。世に言う「満鉄人脈」は、戦前と戦後を連続した線で結び、戦後の経済発展を支えた。小松も深く関わった大阪万博にも、「満鉄人脈」は入り込んでいる。五十嵐太郎と磯達雄は、「大阪万博は、戦争によって中断されたプロジェクトの遂行ではなかったのか。憲法によって戦争を放棄した日本は、１９７０年の大阪万博に全精力を注ぎ込み、完全な復興を遂げ、輝かしい未来の社会を提示した」（『ぼくらが夢見た未来都市』p.195）と、正当にも書いている。

　『日本沈没』においても、「満鉄人脈」の一人である渡老人を抜きにしては、「D計画」は成り立たない。田所博士との会見によって、彼は「D計画」の必要性を感じ、時の「首相を茅ヶ崎の自邸に呼びつけ、ほんの二言三言で、この計画の実行を決意させ」（上巻p.228）、さらには「D計画」の主要メンバー邦枝を大学から総理府に引き抜く手引きもする。百歳を超えながら、政財界の黒幕として君臨するこの老人は、満州事変当時、善悪双方の面で相当活躍したという。「D計画」が軌道に乗り、やがて日本人の国外脱出と資産退避を図る「D－２計画」に移行すると、日銀総裁、経団連会長、大蔵省国際金融局長、為替銀行頭取など、さらには商社の情報網までをも動員して、事態はさながら総力戦体制の様相を帯びてくる。小松左京が一九七三年に発表した『日本沈没』という作品は、SF作品、パニック小説という枠を超えて、高度経済成長、大阪万博と続いてきた一九四〇年体制の最終的総決算を企てた作品だったのだと、今にしてはっきりわかる。この作品が異常とも言えるベストセラーとなったのは、他の誰にも真似できないほど見事に、日本の歴史の核心部を撃ち抜いたからにほかならない。

　吉本隆明は「一九七三年前後は転換期だった」と何度も繰り返し語る。高澤秀次が言うように、この時期に「戦後日本は、新たな戦後史の「現在」に入るというのが、吉本の基本的な時代認識であった」（『吉本隆明』p.207-208）「われわれ戦中派は、七〇年代に完全に自滅・消滅してしまいました」と語る吉本は、具体的な出来事として、三島由紀夫や川端康成の自殺事件を挙げると同時に、横井庄一や小野田寛郎の日本帰還に言及し、「戦中派の応召軍人の意識を持ちこたえられなくなった」のだと解釈する。「これらの事件はとても象徴的で、戦中派はこの時期、完全に土砂に埋められたといいたいほど、時代のうしろに消滅してしまったのです」（「一九七〇年代の光と影」）『日本沈没』においても、戦中派に属する渡老人と田所博士は、クライマックスの場面、八月半ば、府中の渡老人の邸宅で、大地震に遭遇する。彼らは、文字通り、「完全に土砂に埋められ」るようにテキストの前景から姿を消滅させる。

　一九七二年「連合赤軍」の壊滅を知った右翼の活動家は「これで右翼も壊滅する」と悟ったという。「思想による自己実現」という男の時代はこの頃幕を降ろしたのだが、『日本沈没』はその幕引きにふさわしい作品だった。その後も、レーガン時代に呼応するかのように、小松は『さよならジュピター』を発表したり、コンピューター・エイジに対応した『ニューロマンサー』（ウィリアム・ギブスン）と同年になぜか『首都消失』を書き始めたりするが、残念ながらそれらは時代の歌とはならなかった。　小松は純文学の「第一次戦後派」を大いに共感して読んだという。やがて「第一次戦後派」は、「第三の新人」にイニシアティヴを譲り渡すことになるが、それと平行するように、SFの世界でも世代交代が行われた。第一世代の小松に対して第三世代の新井素子や菅浩江のような作家が一九八〇年前後に台頭することになり、大塚英志が見いだす「少女」の感性を武器にして、小松の「男祭り」を過去のものとした。

　一九七〇年前後、「大阪万博」をはじめ、小松の世代からの贈り物として、私は熱いとしかいいようのない何かを、確実に受け取った。その熱さは、時代とともに古びたのだが、その熱さによって自分の人格の土台がつくられたことを一種の僥倖として感謝したい。そしてまた、「時代のうしろに消滅して」しまいながらも、実存が実存として立ち上がる「風景」に対する誠実さを手放すことのなかった小松の姿を――これは反動的な感慨だが――私は美しいと思う。

（註２）それに対し、微かにだが決定的にずれて、真理という故郷を目指さずに、流浪の民であり続けようとするのがユダヤ人のメンタリティである。

（註３）若い藤田直哉は、「高度経済成長」という名の「総力戦体制」における「自己犠牲」のなかに「過労死」のような負の側面を見いだしている（「東京SF大全３３」）。これは『さらば宇宙戦艦ヤマト』を見た吉本隆明の違和感に似ているが、八〇年代以降の一般的な感性の反応と言えよう。

（註４）日本沈没と同時期（一九六八～七二年）、司馬遼太郎は「産経新聞」に『坂の上の雲』を連載するが、明治期に近代日本国家を確立しようとした男たちを描いたこの作品も、総力戦（一九四〇年代体制）という「男祭り」を謳い上げ、「重化学工業のイデオロギー」に連なる物語である。

（２０１１・９・２）

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