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  「1973年の『日本沈没』(2)」

二 戦中派の苛立ち

 三島由紀夫(一九二五年生れ)、吉本隆明(一九二四年生れ)、小松左京(一九三一年生れ)、江藤淳(一九三二年生れ)。三島と小松はSFを介して親交を結び、吉本と江藤は戦中派の強度を武器に、戦後という時代の神話剥がしを遂行するという点で結びついていたが、彼らはともに、戦後の虚ろさに違和感を覚え、それを自分たちの文学の土台に置いた(註1)。『日本沈没』もまた、そうした精神風土と深い結びつきを持っている。ただし、この四人の中で、最も年長の吉本だけは、娘のばなな(一九六四年生れ)を介して、七〇年代後半以降の日本の消費社会に同調することに成功してみせた。江藤との対談で吉本は、自分も日本の社会もある変節点を通過したのであり、日本社会の変節点を「おそらく西暦でいえば一九六〇年代というよりは、七〇年代のある時期」と特定している。大塚英志は、吉本の「転向」を、娘のばななにせがまれて観に行ったアニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』に対する戦中派としての途惑いと、それでもなお娘の世代の熱狂を理解しようと試みた体験にその萌芽があると推定している。

 三島由紀夫は、戦後日本の醜悪さを批判し続け、「このまま行ったら日本はなくなってしまう」「その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな経済大国が残る」といった言葉を繰り返し発言した。これはある意味で、SF批判の言葉でもあるのだが(サイエンスは「日本」のような固有性を解体する力として作用する)、小松もまた、戦後の高度経済成長時代の勃興期に、本質的な怒りを覚える。六四年の東京オリンピックのころから、日本人が浮足立ち、精神的な緊張感を失いつつあることに苛立ちを感じ始めるようになるのだ。この年に『日本アパッチ族』は発表され、『日本沈没』は執筆が開始される。両作品とも戦後の空虚な繁栄を拒絶し、原点としてある廃墟の輝きを取り戻そうとする衝動が根底にある。

 江藤もまた、戦後日本とアメリカとの関係から、政治的な苛立ちを表明し続けてきた。一九八二年『裏声で歌へ君が代』をめぐって、丸谷才一と敵対したことが当時話題になったが、例えば江藤は、『裏声で歌へ君が代』の次のような箇所に苛立ちを覚える。

「ぢやあ他の国も日本と同じやうに国家目的を捨てればいいわけですね」  一歩歩くごとにたそがれが濃くなるのを感じながら、梨田は言つた。 「普通は、よほど優秀な国でないと、そんなことできないんですがね。何しろ寂しいからな、国家目的がないと認めるのは。ところが今の日本がそれをやつてのけたのは、これは偶然ですね。何となくかうなつてしまつた。別に寂しいのを我慢してぢやないらしい」  林が、半ば慰めるやうに半ばお世辞のやうに言つた。 「正直なんですよ、今の日本人は」(p.398)

 江藤によれば、このような言説は、アメリカによる検閲によって成立した閉ざされた言説空間に寄りかかっているということになる。だが、責任のすべてはアメリカだけにあるわけではあるまい。アメリカによる「占領」を受け入れ、国の大義を放棄する代わりに、経済活動に集中するという切実かつ身も蓋もないふるまいを選択したのだから、日本はアメリカと共犯関係にある。戦後の日本人は、理念や大義などよりも、金銭的豊かさを最重要視し、経済的発展に邁進してきた。それは、図らずも、吉本隆明の歩みに重なってしまう。

 そもそも吉本の初期の代表作『言語にとって美とは何か』(一九六一〜一九六五年)における「自己表出」「指示表出」といった概念そのもののうちに、吉本の「垂直」から「水平」への変遷は胚胎されていたのではなかったか。『言語にとって美とは何か』における「自己表出」「指示表出」という概念は、経済学における「使用価値」「交換価値」という考えに発想を得ている。つまり、吉本においては、詩=垂直と散文=水平が緊張を孕んだ弁証法を演じているのだ。戦前の左翼が失敗したのは、前衛左翼が大衆から遊離し孤立したからだ、という旧左翼批判の発想も、「交換価値」という商売的な発想から来ている。ここから『マス・イメージ論』(一九八二〜一九八四年)へは一直線である。「ぼくがたおれたらひとつの直接性が倒れる/もたれあうことをきらった反抗がたおれる」(「ちいさな群への挨拶」)という詩句に見られる垂直性の論理は、「大衆の原像」(ベタに英訳すれば「マス・イメージ」!となるが、要は大衆的な需要ということになる。吉本が意味ありげに用いた「現在」という言葉もまた、一種のポピュリズム的欲望のことである)という水平性の論理に回収されていったのである。とはいえ、江藤が「わたしのうちなる文学者としての感度では、この人は政治的には敵であるかもしれないし敵になるかもしれないが、根っこからの文学者である資質をもっているとおもえた」と吉本に瞠目したのは、吉本が一級の「詩的散文」の書き手だったからである。おそらく戦後に対する戦中派の違和感は、散文的なのっぺりした水平的地平における詩の不在に対するものだったであろう。

 「わたくしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待つた」(「凶ごと」)という詩句を書いた三島由紀夫は、複製技術の時代を前にしたマラルメのように、詩が出来する瞬間を渇望した。例えばそれは、戦争のような非日常的な聖なる時間を生きることであろう。江藤は三島にとって戦争は「直接の恩寵」だったことを見抜いていた。「緊急事態」に惹かれる精神というものがある。例えば、アイスランドの歌手ビョークもその一人で、傑作「ヨーガ」で、次のように的確きわまりなく歌った。「緊急事態/なんて美しいところ!/緊急事態/それこそ私の望む場所」

 小松左京の作品の底流に主調音として流れているのも、「緊急事態/それこそ私の望む場所」という歌声である。小松が偏愛と言えるほどにこだわる「実存」は、「緊急事態」なくしては成り立たない。非日常的な聖なる時間への衝動が、小松を否応なくロマンティックに仕立て上げる。しばしば言われるように、実存主義は最後のロマン派である。

(註1)さらにつけ加えておくと、意外にも三島と吉本の結びつきも深く、三島は最晩年に吉本に対談を申し入れていた(実現はしなかった)。また、吉本の『模写と鏡』に「私は『擬制の終焉』から、はつきりと吉本氏のファンになつたが、読みながら一種の性的興奮を感じる批評といふものは、めつたにあるものではない」という推薦文を、三島は贈っている。

(「1973年の『日本沈没』(3)」へと続く)


※7月26日に小松左京氏がお亡くなりになりました。私にとって氏の存在は、昭和の精神を象徴するものであり、ふるさとのような懐かしさを覚える存在でした。とても寂しい思いがあります。心よりご冥福をお祈りいたします。

(2011・8・3)
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