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  「『東天の獅子』のSF染みた熱さ」

 『キマイラ』シリーズ、『魔獣狩り』シリーズなどのベストセラー作品を連発し、その印税で豪邸を建てるなど、夢枕獏は早くから「勝ち組」街道を驀進し続けてきた。さらには代表作と言ってよい『陰陽師』シリーズが映画化されるという僥倖にも恵まれ、「SF作家」にして「国民作家」というウルトラSF級のお伽噺を自ら演じてみせ、世の多くのSF作家の嫉妬を一身に浴びもする。そしてまた、高額納税者の作家ランキングでは、有名ミステリ作家と肩を並べて、ベスト10入りを果たすことに成功する。現在も複数の連載作品を抱えて多忙な執筆生活を送る彼にとって、「SF不況」という言葉など存在しないかのようだ。「日本SF新人賞」「小松左京賞」の休止という峻厳な現実を、涼しい顔をしてやり過ごすそんな夢枕獏が、目の上のたんこぶのごとく苛立ちを覚えてやまないのは、いまや俳優大和田伸也の親族ただ一人であるらしい。「大和田獏ってウザいんだよね」

 「大和田獏」と「夢枕獏」。なるほど似ていると言えば似ているし、違うと言えば違うし、栃木県が茨城県にやるせなくも抱いてしまう敵意に似たものなのかもしれないが、当事者同士にしかわからぬ鏡像への、微かな、だが拭いきれぬ憎悪を、小説家らしく昇華せんと、小気味良い復讐劇よろしく、夢枕は大和田への複雑な想いを、一人称を用いた長編作品に仕立て上げようと奮闘しているという。作品のタイトルは、ずばり、『バクとボク』。

 なかなかおしゃれなタイトルである。と同時にこのタイトルには、作家夢枕獏の存在条件そのものが簡潔に語られているようで、きわめて興味深い。『バク(大和田獏)とボク(夢枕獏)』というタイトルに示された鏡像とのライバル関係の原型は、作家としての夢枕と作家になる以前の素の夢枕の関係そのものにあるのではなかろうか。「米山峰夫」という本名を持つ一人の青年が、「夢枕獏」という虚構の存在へと向けて自らを組織し、鍛え上げていくという、古典的な(あるいはベタな)ドラマに、自意識の懐疑という知的な回路が存在することを忘却したかのように、全身で没入できたという事実のうちに、夢枕獏の栄光がある。

 ここで注目すべきなのは、米山青年によって仮構された「夢枕獏」というペンネームである。一人の無名の青年が選びとったこのユニークな名に一種の熱病の兆候が鮮やかに示されているように思われる。二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、あるいは三島由紀夫や光瀬龍、栗本薫など、ペンネームを用いる作家は数多くいる。だが、彼らの名と夢枕の名は決定的に違う。漱石や三島は、筆名というもう一つの名によって、自身のアイデンティティを曖昧化し、そうすることで現実や世界を穿つ文学的言葉の実践という戦略を手に入れる。けれども彼らは人間の仮面だけは手放さない。そのような等身大幻想を、「夢枕獏」という名は、軽々と凌駕してしまう。そもそもこの名は人間の名前ではない。その名において、自分が伝説的存在であることを宣言している。「夜郎自大」という言葉が口の端に登る以前に、反時代的な熱病の輝きに対して郷愁にも似た疼きを覚えずにはいられない。

「夢枕は、懐かしくも、良い漢(おとこ)だなあ」

とうとうやってしまった。
「漢」と書いて「お・と・こ」と読ませる荒技を。
やっちゃったよ。

 それにしてもなんであろうか。「漢」という文字の妖しい艶やかさは。「男」という文字がごく日常的な此岸の地平に属しているとすれば、一方「漢」という文字は彼岸のような究極の高みから、魂の側へと傾斜しやすい人間を誘惑する。男がもう一人の男のただ事ではないふるまいを垣間見た時に走り抜ける官能にも似た戦慄が、周囲の空気を高貴な倒錯の香りで染め上げる。それは排他的な貴族の空間のようでもある。魂を賭けるに足る徴をそれにふさわしく感受するという遭遇の瞬間。例えばそれは、嘉納治五郎が、同郷の女性の前で「猫の三寸返り」という技を披露してみせる志田四郎少年(後の西郷四郎=姿三四郎のモデル)の姿を、偶然目撃してしまった場面が代表として挙げられる。四郎の尋常ではない身の動きに真の「武道家」の気配を察知した治五郎は、三日後、四郎のいる道場を訪れ、四郎との稽古を渇望し、そのチャンスを手に入れる。

 治五郎と四郎の勝負は、白熱を押し殺しつつも、底流には緊張感があふれる微妙なものとなる。四郎という実力者と組んでみて初めてわかる四郎の柄の大きさを治五郎は直接肌で感じ取る。「たとえ、闘ったとて、この志田四郎の実力をきっちり受け止めることができるだけの器量の持ち主でなければ、わからぬ部分であった。/今、この道場で、それがわかっているものが、何人いるか。/道場主である井上敬太郎は、むろん、わかっているだろう。/あとは、横山作次郎と、そして自分くらいではないかと治五郎は思った」魅惑的と言えば魅惑的な、エリート臭さが鼻につくと言えば鼻につく、そのような平凡人とは一線を画す、神々しい貴族の世界が現出している。夢枕獏の『東天の獅子』は、貴族の世界の快楽を体験したいという反時代的な欲望に貫かれている。このような欲望の実現は平成現代では、とうてい許されるものではない。21世紀の今日において、フランス革命以前の物語を生きようとする夢枕の時代錯誤ぶりは、感動的である。

 夢枕は「まえがき」で次のように書く。「柔道の創始者、嘉納治五郎。/姿三四郎のモデル、西郷四郎。/講道館四天王のひとり、横山作次郎。/柔道王国久留米の中村半助。/大東流合気柔術創始者武田惣角。/仲段蔵、佐村正明、西郷頼母近悳、好地円太郎、照島太郎、松村宗棍、大竹森吉等々――きらびやかでなんという凄いメンツがこの時期の日本に生じたのか」「きらびやかでなんという凄いメンツ」と呼ばれる存在は、センス・オブ・ワンダーをかきたてずにはいられない。幕末から明治にかけての熱い面々が、司馬遼太郎の詩心を鼓舞したように、「天才」「異常人」といったこの世のものではない存在に触れて初めて、夢枕獏の言葉は動き出す。『東天の獅子』の「まえがき」には「物語の力について」というサブタイトルがつけられている。「物語とは物の怪のことだ」と中上健次が言ったと記憶しているが、夢枕が憑かれているのは「物の怪」であり、「物の怪」の肖像を描き出すことが夢枕の創作上の唯一の動機である。「闇が闇として残っていた時代」の「一種の天才」とされる陰陽師・安倍晴明は、究極的には「晴明」という名が象徴するように、権力の側の人間であるが(彼は朝廷に仕える従四位下の身分である)、異界へと越境できる夢枕作品の主役にふさわしい存在である。

 嘉納治五郎もまた、「柔道」を通して彼なりの「異界」を創出した人物であるように思える。治五郎が東京大学に入学した明治10年、「日本は、近代に向けて凄い勢いで走りだしていた」東京の風景は激変していた。「仏国の巴里のごとき街道に、英国の倫敦のごとき街並」が、銀座一帯に造り上げられ、西洋もどきの風景が日本を浸食していた。周囲のそのような風景に、治五郎は強い違和感を抱く。「日本は、日本でありながら、日本という国をどこかへ置き去りにしてしまうのではないかと思いました」そうとは知らずに、治五郎は、近代日本の勃興期において、反近代を幻視した一群の幻視者の系譜に、我が身を置いている。治五郎よりは年下だが、日本の近代に背を向け、異界の物語に埋没した泉鏡花、失われてゆく江戸情緒に執着した永井荷風。そして日本の前近代にユートピアを幻視した小泉八雲。とりわけ八雲は、治五郎が熊本市の第五高等学校校長の時に英語教師として赴任し、治五郎とは縁が深い。

 西欧との出会いによって覚醒した日本の「知」が取りうる原型的な2つのものに「自然主義小説」と「民俗学」が挙げられる。治五郎が築き上げた「柔道」は、彼なりの「民俗学」であった。地方の農村を歩きまわり、民間伝承の説話を採取し、日本人の原像を見出そうとした柳田國男のように、治五郎は明治維新後打ち捨てられ、顧みられなくなった「柔術」や「古武道」を採取して回る。「柔術など、今の時世には流行らぬよ」とあざけられながら。治五郎が通常の「民俗学者」と異なるのは、過去の柔術や古武道を標本として保存することを目指したのではなく、それらを冷静に分析し、総合させることで、まったく新しい柔道というスタイルを確立させたところにある。この一点で、治五郎は民俗学者のイメージから身を引き離し、SF作家の相貌を身に纏うことになる。彼は、いうなれば、コラージュの技術者なのである。「死に体」ともいる過去の遺物を採取し総合し、新しい命を作りだそうとするその姿は、メアリー・シェリーが描いたフランケンシュタイン博士のようである。

 治五郎が幸福だったのは、「富国強兵」という時代のリズムと同調できたことであった。西欧列強の強大さを見せつけられ、おのが非力を克服しなければならなかった近代日本に同調するかのように、治五郎は自分の「小さく、痩せた身体」を恥じ、そのコンプレックスを柔道によって克服しようとした。夢枕獏は「明治という時代であるからこそ、このような人物が輩出された」と書くが、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代の欲望を忠実に体現してみせたのが、嘉納治五郎であった。彼は近代日本のナショナリズムを幸福に生きた。あるいは、ナショナリズムという熱病を幸福に病んだ、と言った方が正解かもしれない。それは麻薬の快楽にほとんど似ている。

 木村政彦という「“鬼”と呼ばれた柔道家」がいる。彼は「講道館柔道史における異能人の血の系譜上に生れた人間」である。木村は言う。「強さというのは、一種の麻薬です。そのためには、自分らは狂ったようになってしまうんです。何でもできるし、どんなに辛い練習であろうと、それに耐えられてしまうんです」ここには垂直に燃え立つ焔を、生の環境としてしまった者の痛ましいまでの甘美な快楽が露呈されている。そしてこの燃え上がる焔の熱さは、明治の熱さであり、高度経済成長時代の熱さであり、そして太平洋戦争下の総力戦体制の熱さでもあろう。

 まどろみと安らぎの「水」ではなく、屹立し闘争する「火」。荒ぶる「焔」を模倣することに疑いを持たぬ、そんなはた迷惑で魅力的な男たちが『東天の獅子』には犇めきあっている。夢枕は熱い。この夏の異常な猛暑を乗り切るには、『東天の獅子』の熱さが一番の効能である。

(2010・8・10)
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