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  「二種類のコミュニケーション」

 久しぶりの原稿である。本当は一月中に書きたかったのだが、諸事情でずるずるとここまで延びてしまった。今回考えたいのは、コミュニケーションにおける二つの様態についてである。

(1)天野祐吉
  天野祐吉氏の名を知ったのは、80年代前半、大学生の頃である。当時はコマーシャルが文化の花形であり、そのような流れの中で、天野氏は新しい文化人として、CMやカルチャーについて語っていた。天野氏は雑誌「広告批評」の編集長でもあった。

 80年代前半の文化状況というのは、先鋭的で難解なものとお粗末なほどに幼稚っぽいものとに二極分解しているようなところがあって、その中間部分のところが薄弱気味であった。そこのところを天野氏はうまく埋めていたように思う。わかりやすく、けれども奥行きがあり、味わいがあった。私も、天野氏の発言には、一目置いていた。

 しかし、ある時期から、私は天野氏の言葉に違和感を抱くようになった。あまりにも「CM中心主義」だからである。CMの言葉を、まるで、「基軸通貨」として絶対視する天野氏の姿勢に、ソフトな傲慢さを感じるようになった。なにかにつけ、天野氏は「ふだん着の言葉が正しい」「話し言葉以外はダメだ」と繰り返すようになった。ちょっとでも難しいものをみると、「庶民の皮膚感覚がどうのこうの……」と言って、難解さを攻撃するようになった。

 人生には盛装や舞台衣装を楽しむ権利もあるのではないか?ふだん着だけの文化がどれほどつまらないかということは、人民服しか着ることのできない国の文化や思想がどれだけ貧しいかということを見れば、一目瞭然であろう。CMより高級そうな言葉を排除しようとするのは、CMファシズムではないか。等身大のものしか認めないというのであれば、非等身大で、ふだん着からは思いきり遠い皇室文化(および行事)をきちんと批判してほしい(皇室行事を見て、「日本人としての誇りと自覚をあらたにします」という一般的な発言も、私はいつも不思議に感じながら聞いている。だったら和歌ぐらい詠んだらどうかと思う。短歌を詠む人間は、フツーは変り者扱いされる)。

 こんなことを思ったのも、今年一月六日付の朝日新聞で、天野氏が漢字を攻撃する内容のコラムを書いているのを読んだからである。「テレビと漢字」というタイトルのそのコラムで、天野氏は難しそうな漢字を腐している。文化審議会が常用漢字を増やす検討をしていることへの批判である。「常用漢字がふえることで、耳で聞いただけではナンのことかわからないような言葉がふえるとしたら、あまり歓迎できない」

 「常用漢字」というのは言葉の使用の義務化ではあるまい。自分の肌に合わないというのであれば、使わなければいいだけの話であろう。天野氏個人にとっての「ナンのことかわからないような言葉」は、ただ無視しておけばいいのであって、「わからない」という理由で排除されるいわれはない(「ナンのことかわからない」という天野氏の個人的感慨は、たんに天野氏の感性や知性が鈍いだけの話かもしれないではないか)。

 万人に理解可能な共通語ではないから方言は排除する(「難しい漢字」は一種の方言(ローカル言語)であろう)、白人ではないから異人種は排除するという論法と同じである。「大衆」という言葉でカモフラージュしているから、その論理が見えにくいだけである。私はひらがなであれ、漢字であれ、あるいはカタカナやアルファベットであれ、すべての差異は存在する権利があると思っている(私は難解文字至上主義者ではない)。また、私は「書」という表現ジャンルに魅力を感じる人間なので、(難しいものも含めて)漢字はあったほうがいいと、積極的に思っている。

 ところで私が漢字という文字に魅かれたのは、子供のころゴジラやガメラなどの怪獣映画を観始めてからである。「怪獣」という漢字にたまらなく魅せられた。「かいじゅう」とひらがなではだめなのである。「怪獣」という文字が持つ絵画としての異形性や呪術性に魅了され、この文字が書きたくてしょうがなかった。私にとって、漢字という文化は、肉体的な興奮として、まずある。

 天野氏にとって「からだ」という言葉は、切り札のようなものとしてあったように記憶するが、天野氏のいう身体は、私の眼には、「話し言葉」というひとつのチャンネルしか持たない貧しいもののように映る。私にとって身体という宇宙は、話し言葉のみならず、書き言葉やノイズへの回路に通じる複数のチャンネルを備えたメディアである。「話し言葉」しか持てない身体は、理念を身体的に生きることはできない。なぜなら理念は「崇高」とむすびついているものなのであり、ふだん着の身体が「理念」という言葉を弄んだところで、政治家の上っ面の言葉と同レベルのものにしかならない。

 わたしたちの社会が、結局のところ、「理念」を担う政治家を持てなかったのは、政治家のみに責任があるわけではない。わたしたちの社会がふだん着の文化(あるいは身体)しか持てなかったことにその理由がある。ふだん着の文化やふだん着しか身に纏えないような身体を特権化した天野氏も、政治の世界や社会における理念の不在に対する責任の一端を担っている(あるいは、天野氏は、理念へのチャンネルを身体内に持つということがどれだけ苛酷なことなのか、そして理念に耐えられるほど人間はタフではないという厳然たる事実を知りぬいており、崇高やリスペクトを断念して、なあなあレベルの社会がいいのであり、自分たちが生きる社会に誇りを持ちたいという願望などとんだお笑い草だとする一級の宗教家が持つ、私が想像することのできないような、あまりにも深い諦念を噛みしめるようにして生きているのかもしれない)。

(2)名越康文、夢枕獏、「ススメ!和風生活」
 天野氏のコラムが掲載された翌日(1月7日)の朝日新聞夕刊で、名越康文氏は「闘うことは語らうこと」と題された文章を発表している。『3月のライオン』(羽海野チカ氏)というコミックについて紹介したものである。名越氏の文章は、天野氏の言葉とは対極にあるような言葉から成っている。そこでは、天野氏の視界にはけっして入ってこない究極のコミュニケーションの姿がとらえられている。

 『3月のライオン』の主人公は、プロ棋士の高校生である。彼(桐山零)は1年遅れで入り直した高校で、プロ志望の野球少年と出会う。なぜ高校に入り直したのかと問うその少年に、零は「逃げなかったという記憶が欲しかった」と答える。零の言葉に相手の少年も「逃げた記憶があるとピンチに自分を信じることができない」と応じる。零は彼固有の言葉を交換し合える相手にようやく巡り会ったのである。そして名越氏は次のように書く。

 「人は、孤独に耐えきれぬ弱さから他者と語り合うことを求めるが、語るに足る、魂が共振し合うような相手と出会うことは稀だ。場合によっては、そのような相手とめぐり合うまで、必死で勝ち残らなければならないこともある。棋士が勝負の痛みを越え、身の内に獣を棲ませてなお修羅の道を行くのは、究極の高みにある存在と深く交わりたいと願うからに他ならない。そこではおそらく、闘うことは語らうことでもあるのだろう」

 私が天野氏に物足りなさを覚えるのは、「語るに足る」魂の部分を欠落させているからであり、さらに私が天野氏に憤りを覚えざるを得ないのは、「究極の高みにある存在と深く交わりたいと願う」心を世界から締め出そうとするからである。

 「究極の高みにある存在と深く交わりたい」という願いを持ち続ける現代作家の筆頭に夢枕獏氏がいる。ボクシング劇画の名作『あしたのジョー』が話題になると、必ずコメントを寄せるのが夢枕氏である。矢吹丈もまた、「究極の高みにある存在と深く交わりたい」という願いに憑かれて、崇高なる次元を読者に垣間見せてくれた貴重な存在であった。

 夢枕氏は、梶原一騎氏の遺伝子を21世紀に引き継いでいる数少ない作家の1人である。夢枕氏も梶原氏も、ともに、「等身大」オンリーの世界には耐えられない。そもそも夢枕獏という名前は、およそ人間の名前ではない。自分は神話的存在だと名前において宣言している。プロレスの凡庸なリング・ネームを遥かに凌駕するペン・ネームである。「獣神ライガー」といい勝負ができるだけのパンチ力がある。「ザ・グレート・サスケ」には十分勝っている。

 そういえばサスケ氏は、少し前に、新聞ネタになっていた。JR常磐線内で勝手に写真を撮られて、撮影者の胸倉をつかんだという事件である。岩手県議会議員としてのサスケ氏には感心しなかったが、この事件のサスケ氏にはシンパシーを感じた。いつからか跋扈しだした醜い幼稚さは粉砕してやったほうがいい。むろん公的には非難されるが、その非難に対して、「おれにも肖像権はある」だの「自分の正義感を止められなかった」だの、洗練されたスタイルからは程遠い言い訳を愚直に主張するさまは、戦後社会に馴染めない復員兵の愛と悲しみの滑稽さを見るようで、好感を抱いてしまった。釈放後の記者会見で、被害者に会ったら、お詫びをし、握手を交わしたい、そしてツーショットで写真撮影をしてあげたいと、やけくそになって、なおも社会に挑戦しようとするかのようなサスケ氏の姿は、なかなか感動的であった。

 話を夢枕獏氏に戻すと、近作『東天の獅子』は、紛うことなく、梶原一騎氏の血が流れている作品である。柔道の礎を築いた嘉納治五郎を描いた物語は、「天才」や「一種の異様人」がずらりと登場し、とても平成日本ではリアリティを持てそうもない。かりに平成日本を舞台とするなら、日常生活とは別次元の異空間や魔界といったものを拵えるしかない。夢枕氏にとってのファンタジー空間は「明治時代」であったというわけだ。『東天の獅子』は面白い。黄金期の少年劇画のように面白い。面白すぎるがゆえに、夢枕氏はこの面白さに抵抗すべきではないかと、思ったほどである。

 本稿の最後に取り上げるのは「ススメ!和風生活」(http://blog.livedoor.jp/erii/ )というHPである。このHPには一宿一飯的な恩義がある。このHPの管理人はひな氏という日本舞踊のお師匠さんである。であるがゆえに「舞台」という非日常的な、あるいは「究極の高み」の世界とコミュニケートする訓練を日々積んでおられる方だ。

 だからといって、「ススメ!和風生活」というHPが敷居が高く、近寄りがたい世界かというと、そんなことはぜんぜんない。(おそらく)意図的に敷居は低くしてあり、和服や日本舞踊について何も知らない人間に対しても、やさしく開放されている。そこに盛られた情報や言葉は、あくまでも平易で、語り口はノンシャランである。個人的には、もっと尖った言葉の方が刺激的なのに、と思うほどである。

 全体的には、好きなものに打ち込んでいる少女の溌剌さが、HPを幸福な色調に染め上げており、特に、「絢也ちゃん」という名の同志的存在の方との交流を綴る言葉は幸福感に満ち満ちている。よくは知らないが、閉ざされた特権的な女子高の小ぢんまりとした共同体のような場所でのみ許される奇跡的な時間というのはこういうものかしらと、その熱を帯びた幸福感に軽い嫉妬を覚える。あっけらかんとした喜びの発露に、人前でここまで素肌をさらしていいのだろうかと、眼のやり場に困ってしまう。

 やはり「舞台」に立つ人だと思われるのは、同じ舞台芸術である歌舞伎を語る時の言葉の熱の帯び方である。日頃は禁欲的に平易さを装っている言葉の表情が、素晴らしい舞台と接した折には、日常的なふだん着の言葉では納まりがつかなくなり、異形化を被る。感動する心というのは、既製服とは異なる自分の身に合った特別な皮膚を必要とするのであり、それを身にまとって、自分自身の言葉が生き生きと飛び跳ねるさまを「異形化」と呼んでみたのである。そのようなコミュニケーション(表現行為)を、嬉々として、日々実践しておられるひな氏のような方には励まされる。

(2009・4・2)
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