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　「キリスト教と梶原一騎」

　講談社漫画文庫の『巨人の星』第3巻をなにげなく手にとって、解説のページをめくる。解説担当の高取英が「梶原一騎の父がクリスチャンだった」と書いているのが読まれる。一瞬虚を突かれるが、すぐに「ああなるほどね」と合点がいく。

　子供のころ、多くの同世代の少年がそうであるように、私も『巨人の星』を、ある熱さとともに体験した。その強烈なドラマツルギーに中てられたことは、もちろんのことだが、私の中に『巨人の星』が浸透してきたのは、センチメンタリズムと気高さが混然となっているような柔らかな（そしてまたその柔らかさを徹底せしめる烈しい）要素を通してであった。

　私が『巨人の星』で最も好きなエピソードの一つは、講談社漫画文庫の『巨人の星』第3巻にも収められている、伴宙太の父親に暴行した牧場の身代わりとなって、星飛雄馬が高校を中退するエピソードである。牧場から事件の真相を聞かされた伴は、「おまえってやつは他人のかなしみをそっくり自分のかなしみに感じちまうんだな」と心の中で噛みしめることになるが、星飛雄馬を特異たらしめるものは、メロドラマに犯されやすいその無防備な体質である。飛雄馬は、左門兄弟の屈辱的な過去や、野犬狩りにあった野良犬の親子の悲しみに、たやすく感染し、それに染め上げられてしまう。「力のないものが協力し、どん底からはい上がろうとする努力に、おれめちゃめちゃに弱いんだ」このような資質に恵まれているがゆえに、飛雄馬は過剰ともいえるほどに涙を流す。そのような飛雄馬の根底にあるものは、「passion」であろう。キリスト教をキリスト教たらしめる「パッション＝受難＝情熱」が、飛雄馬および梶原作品の主要な登場人物たちの肉体には流れている。

　キリスト教的受難＝犠牲に私が最初に触れたのは、幼稚園児の頃に読んだ「幸せの王子」の絵本ではなかったかと思う。その絵本は掛かりつけの小児科医院の待合室に置いてあった。その絵のテイストに、まずは、魅かれた。絵のタッチは、昭和39年初版のポプラ社「少年探偵シリーズ」挿絵の柳瀬茂のそれに近かった。彼の絵には、少年期の倫理的であることがエロティックである、という「崇高」であることの奇跡が湛えられていた。

　いま手元に、小学館の「少年少女世界文学全集19」の『パール街の少年たち』があるが、この書物の挿絵も、少年の崇高さを感じさせる。この本は昭和53年の発刊だが、このような少年の崇高さがリアリティを持っていたのは、この頃までではなかったか。昭和55年（1980年）以降は、こうした雰囲気の絵は消滅していったと思う。代わりに登場したのは「崇高さ」とは対極にある「フラット」なアニメ調の絵であった（1980年代はサブライム＝高さの感覚が解体された時代であった。レーガノミックスの時代であり、倫理が資本主義に敗北した時代でもある。「理念」が完全に「死語」となっていた時期とぴたりと重なり合う。「倫理、倫理で飯が食えるか」と金丸信が居直っていたのもこの頃である）。ことによると、これ以降の少年少女にとって、「崇高さ」と触れる機会は極端に減少したのかもしれない。この時期に相当する団塊ジュニアの世代（ホリエモンの世代）が、崇高さを素通りしたことになる。ホリエモンは80年代の申し子（あるいは鬼っ子）であった。

　「少年少女小説」の挿絵には、私はかなりの愛着を覚えていて（たとえば佐藤さとるの「コロボックル」シリーズの村上勉の絵はかなり好き）、深く調べてみようかと思ったりもする。けれども先行者という者は、常にいるものであって、大橋博之が、すでに、「SFマガジン」誌上で「SF挿絵画家の系譜」を大々的に展開している（私は秘かにこのコーナーを愛読している）。

　話を「幸せの王子」に戻す。崇高かつエロティックな絵の力の効果もあって、私はその絵本に感動し、震えを覚えた。体の奥底で、蠢くものがあった。その「蠢くもの」は、「エロス」であった。性的興奮に似たものがあった。「快感原則の彼岸」の方へと傾斜しがちな自らの半生を顧みるにあたって、この時の絵本体験がいけなかったんじゃないかと思いもする。

　「Christ shines in my wounds」という英詩のフレーズがあるが、キリスト教の核心にあるのは、エロスとしてのpassion＝受難＝犠牲ではないかと思う。梶原一騎の作品が異様に昂ぶり、それゆえに世俗的＝フラットな感性の側から反感を買うことのなるのも、この「passion」のなせるわざであろう。『巨人の星』以外から、アトランダムに挙げてみる。

①	『タイガーマスク』の主人公、伊達直人がファイトマネーの一部を、自分の出身の孤児院「ちびっこハウス」に金の出所を隠しつつ寄贈していること。
②	『愛と誠』における太賀誠の額の傷は、聖痕（スティグマ）であるし、講談社漫画文庫の『愛と誠』の第1巻229ページのカットは、誠の傷と十字架に磔にされたイエスのイメージを露骨に重ね合わせている。この作品に登場するキャラクターたちは、ファナティックなまでに異様である。宗教的情熱に突き動かされているとしか思えない。
③	『あしたのジョー』における白木葉子は、まず、少年院を慈善訪問するボランティア精神溢れる女性として、作品に登場する。彼女が率いる白木ジムは、「興行」とはまったく異なる原理で動いている。
④	ウルフ金串を暴力団の用心棒の身分へと突き落とし、宿敵力石を死に追いやったがゆえに、リングから逃げた矢吹丈に対して、葉子は次のように言い放つ。「このままでは、男として義理がたたないでしょう。あなたはふたりから借りが……神聖な負債があるはず！」負い目もまた、キリスト教を特徴づける性格のものである。それにしても「神聖な負債」とは、力のある言葉である。このような言葉も80年代に消えていった。
⑤	属する階級が異なるジョーと対戦するために、苛酷な減量を強いられた力石の痩せさらばえた肉体と、鬼気迫る顔は、キリスト教徒的である。
⑥	『あしたのジョー』のあまりに有名な最終カットは、劇画の枠を超えて、宗教絵画のようである。そのカットは、ある世代の人間にとっては、クリスチャンにとってのイエスの肖像のようであった。

　『巨人の星』の最終ページ。対中日戦で完全試合を達成し、その代償に左腕をだめにし、球界を去った飛雄馬は、1971年の新春、川崎市内の教会で行われた左門と京子の結婚式を、窓越しに祝福する。コートの襟を立てて教会から歩み去る飛雄馬の背に教会の屋根の十字架のシルエットが重なる。象徴的なシーンである。『あしたのジョー』の最終カットよりも表現としての価値は高いかもしれない。飛雄馬はイエスであるという言明は慎みたいが、キリスト教的passionに最も憑かれた人物が飛雄馬かもしれない。

　『巨人の星』は、飛雄馬を中心に崇高なる「贈与」が幾重にも演じられる物語である、というふうに定義できるかもしれない。牧場の身代わりの高校退学もそうした「贈与」のひとつであるが、牧場自身の暴行事件も崇高美が踏みにじられたことへの意趣返しである。

　飛雄馬の高校中退を知った花形満が、川上監督に甲子園大会での「血染めのボール」を送るのも、彼なりの飛雄馬への贈与である。花形はニヒルな不良でしかなかった自分を、飛雄馬が真人間のほうへ引き戻してくれたと、感謝しこだわっている。「日本じゅうあげてふわふわ骨なし草のように、欧米かぶれしつつある風潮にさからい、父上とともに、古きよき日本をがんこに死守するすがただった！」

　左門豊作にとっても、飛雄馬は、まず、贈与の人として記憶される。「広い世間で、わしのために、みじめな妹や弟たちのために、はじめて星くんが泣いてくれたとです」また飛雄馬は、投手生命を失う直前に、左門に対して「できるなら京子さんとむすばれてくれっ。彼女を幸福にしてやってくれっ」と左門の初恋を後押しし、2人の縁結びをする。後に『新・巨人の星』で打者として球界に戻った飛雄馬に、左門は「左門メモ」と呼ばれるセ・リーグのピッチャーについてのデータを詳細に書き込んだ極秘メモを、無償で提供する。

　義経と弁慶の関係に喩えられることもある飛雄馬と伴宙太の関係も「贈与」の至上形態であるが、飛雄馬と新宿の女番長京子の間においても、贈与が激しく鮮やかに演じられる。2人の間では「あげる」「もらっておく」という言葉がやりとりされる。新宿やくざとのトラブルに関わった飛雄馬をかばって、京子は「エンコヅメ」を引き受けることになる。このあたりの展開は、往年の東映任侠映画のようである。飛雄馬・京子が前時代の任侠とするなら、鬼怒川組は明治政府と結託する近代派のやくざである。小指を詰める瞬間に京子は言う。「新宿（ジュク）の女番長お京なりに、精いっぱいまことをあげるよっ。星！」それに対して飛雄馬は「きみのまこと……もらっておく！」と応える。曲がらなくなった小指を形見に残して、京子は姿を消すが、彼女の置き手紙の「オネガイ」の四文字は、飛雄馬を再起させ、また偶然再会した新幹線の中では、「大ボール3号」へのインスピレーションを与える。

　といった具合に、『巨人の星』の登場人物たちは、世俗のドラマではなく、崇高のドラマを演じるのだが、金銭の応酬ではなく、魂そのものを交換し合う野球の修道士としては、「甲子園」こそが特権的な場だといえる。飛雄馬が左門や花形と真の意味で遭遇するのは、甲子園においてである。とりわけ花形の高校野球への思い入れは深い（花形は、左門と違って、花形モーターズの御曹司であり、「金を稼ぐための野球」という世俗性を免れている）。野球への情熱を失いつつある飛雄馬を、再び燃え上がらせるために、花形は欲得ぬきの純粋ハッスルプレーを演じて、飛雄馬を挑発する。「ほう。甲子園のときのようでどこがめずらしい？なぜ、あれは純情なりし日の一コマだなんて、おとなぶって思いたがるんだっ」花形は「魂の道場」という言葉さえ口にするが、彼にとって甲子園は、あるいは星飛雄馬のいる野球というスポーツは、修道院のようなものとしてある（これは矢吹丈についてもいえる。有名な「まっ白に燃え上がる」という言葉は、世俗の側ではなく、崇高の側にある。丈が軽蔑する「ぶすぶすとくすぶりながら不完全燃焼している」そこいらの連中は、むろん、世俗の側にいる。「あたし、矢吹くんにはついていけそうもないわ」という乾物屋の紀子は、世俗的な主婦の座におさまるだろう）。

　そのような花形であるがゆえ、陸上競技のオリンピック候補でありながら、金のために巨人軍のユニフォームを着る速水を、彼はまったく相手にせず、鼻であしらい続ける。花形のようなメンタリティーは、80年代を生き延びるにあたって、ある屈曲を経ねばならなかった。例えば、82年ころ、「純情な態度で野球に打ち込む飛雄馬はだめで、金のために野球をする速水こそが80年代のヒーローだ」という趣旨のコラムを読んだことがある。象徴的なのは85年に連載が始まった望月峯太郎の『バタアシ金魚』である。主人公カオルが「ぼくは青春を燃焼させて生きたいんだ」と薄ら笑いを浮かべながら語る場面があり、同じコマで、同級生の女生徒2人が「いまはそういうのって、不気味なのよお」と本気でおびえる様子が描かれていた。「崇高なるもの」は、こういう形で、延命させるしかなかった。「情熱」がとことんバカにされる状況にあって、「情熱」を擁護するには笑いを逆手にとるしかなかった。

　望月の戦略的笑いは、フロイトのヒューモア系の笑いであり、バフチン的な哄笑系の笑いとは異なる。ざっくりと言っておくと、「フロイトのヒューモア系の笑い」は「快感原則の彼岸」に属するものであり、それに対して「バフチン的な哄笑系の笑い」は「快感原則」に属する。私が「畏怖」を覚える存在があるとすれば、それは「フロイトのヒューモア系の笑い」の資質に恵まれている者である。

　ところで水平的な世俗社会において、垂直的な崇高を擁護し続けるには、タフさが要求される。その資質のある者は、まず芽を摘まれることを覚悟しなければならないから、そういう者は、「虎の穴」にでも入れて、強化訓練をしておいたほうがよいかもしれない。そういえば望月の『バタアシ金魚』で、「虎の穴よりの使者」と呼ばれる覆面スイマーが活躍する（？）話があって、この話はかなり笑えた。

（２００９・１・１）

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