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  「(反)『プロジェクトX』としての『ハリウッド映画史講義』」

 平成不況真っ只中の2000年3月、NHKで人気を博したドキュメンタリー番組『プロジェクトX』の放映が開始された。戦後日本で、果敢にプロジェクトに挑んだ挑戦者たちのストーリーは、自信喪失の中で立ち竦む当時のビジネスマンたちの心を鼓舞し続けてやまなかった。本稿で取り上げる『ハリウッド映画史講義』(蓮実重彦)は、そんな苦境を乗り越えるさまを描いた『プロジェクトX』の物語に図らずも似ている側面がある。と同時に、心地よく慰撫するだけの物語から身を引き離し、具体的な歴史性に触れようと志向する反『プロジェクトX』としての側面をも身にまとっている。この二つの側面をたどってみたい。

 (1)『プロジェクトX』のように  テレビ番組『プロジェクトX』が、未曾有の経済不況という「翳りの歴史」をバックグラウンドに持っていたように、『ハリウッド映画史講義』が語るアメリカ映画の歴史もまた、1929年の「世界大恐慌」によって、影と暗さに向き合うことを強いられることになる。経済的な基盤に深刻な亀裂を入れられた映画の都ハリッドは、莫大な負債を抱えて崩壊寸前の状態に陥っていた。

 この不況を乗り切ることができたのは、ひとえにルーズヴェルトによる「ニューディール政策」のおかげである。共和党の支持者だったあるプロデューサーは、民主党に鞍替えしたくらいである。蓮実の言い回しによれば、「ハリウッドは、たえずワシントンの顔色をうかがいながら」「一種のカルテル化によってかろうじて生き延びることができたのである」「カルテル」という言葉からうかがえるように、映画は、表現の自由よりも、商売上の不自由――自由(経済)精神の抑圧――を選ばざるを得なかった。さらに映画は、また別の「不自由」を受け入れざるを得なくなる。

 「明らかに合衆国憲法の精神に違反したかたちでのトラスト的な市場支配によってかろうじて経済的な危機を脱することのできたアメリカの映画産業は、同時に国民の名による倫理的な視点からの攻撃にもたえずさらされてきた」ここでいわれている「国民の名による倫理的な視点からの攻撃」とは、映画が被らなければならなかったもう一つの不自由「ヘイズ・コード」のことである。

 「ヘイズ・コード」は、今でいう「R指定」のようなもので、性描写や暴力描写に対する規制であり、同じベッドに男女が一緒にいるシーンすらあってはならない、という、今では考えられない倫理既定まで含まれていた。この規定が完成するのが、1934年である。ここから映画は、「自由」と「不自由」をめぐる生産的な葛藤を好ましい形で生き、その葛藤を「スクリューボール・コメディ」なるジャンルに結実させることに成功する。この映画スタイルは、いわゆる「ラブ・ロマンス」で、ひょんなことから知り合った2人の男女が、互いに反目しあいながらも、最終的には恋に落ちるというストーリー展開となる。そのような物語の構造上、ラブ・シーンが、必然的に、画面から排除される。またしばしば映画は、ロード・ムービーのスタイルをとる。

 有名なところでは『ある夜の出来事』があるが、私が1本だけ挙げるとするなら、ロブ・ライナー(『スタンド・バイ・ミー』の監督)の『シュア・シング』(1985年製作)を選ぶ。大学の掲示板で見つけた安上がりの自動車移動の同乗者となった2人の男女の、敵対から恋愛関係への移行を描いたロマンティック・コメディである(この監督は、数年後、『恋人たちの予感』で、同じパターンを踏襲する)。自動車に乗り合わせるのは、4人で、車の所有者兼運転手の男とその恋人(この2人がいかにも反80年代的にダサい)が前の座席に座り、後部座席に主役の男女が、互いに敵意むき出しの状態で座っている。車内の雰囲気の悪さを察知した前2人が、「不機嫌な顔をしてないで、いっしょに歌を歌おうよ」と歌いだすのが、60年代のヒット曲フィフス・ディメンションの「アクエリアス」なのである。この場面は笑えたが、80年代のアメリカにおいて、60年代の素朴な自由信仰が、ヤッピー・カルチャー圏内においては嘲笑の対象になっていたことがうかがえる。私は個人的には「アクエリアス」は好きなのだが、日本の文脈においては、「アクエリアス」は赤い鳥の「翼をください」に対応するのかな、と考えたりした(「翼をください」を歌わせようとする奴がいたら、やっぱり腹立つだろうな)。

 皮肉なことに「ヘイズ・コード」の存在が、アメリカ映画の繁栄と衰退の鍵を握る、というのが蓮実の映画史的視点である。「ハリウッドの黄金時代はあくまでも「ヘイズ・コード」との共存によって特徴づけられ、ことによると「ヘイズ・コード」そのものが、ハリッドをアメリカから保護する機能を演じていたのかもしれないという視点が、充分に成りたちうるからである」この問題については後半で詳しく書くことにして、「映画」そのものではなく、「映画」をめぐるヒューマン・ドラマを扱うこの節の趣旨に戻る。

 1930年代のアメリカ映画史には、「1940年代の後半から50年代にかけてハリウッドで起こったほどの大がかりで「悲劇的」な撮影所システムの崩壊を、20世紀の人類は、いまだに他の領域では体験していない」と言われるほどの「悲劇」を被らなければならなかった無名ではあったが有能な若者たちが登場する。具体的な名前を挙げると、ジョゼフ・ロージー、エリア・カザン、ニコラス・レイ、アンソニー・マンなど、真の映画作家らの名が並ぶ(エリア・カザンに対しては蓮実は二流の評価しか与えていないようなのだが)。1930年代において、彼らは、映画青年というよりは、演劇青年であり、タクシー・ドライバーのストライキを題材とした社会的プロテスト性の強い『ウェイティング・フォー・レフティ』という戯曲の上演を画策していた。彼らは理想家肌の左翼志向の知識人であった。

 ところでこれらの若者を襲った「悲劇」とは、50年代のハリウッドで吹き荒れた「赤狩り」の嵐である。アメリカ映画を担うはずの真の才能の持ち主たちは、政治の犠牲者となり、ヨーロッパへの亡命を余儀なくされ、才能を充分に開花させることなく、疲弊してゆく。と同時に、ハリウッドそのものが、文化的基盤を崩壊させてゆくことになり、さらに始末の悪いことにはそのことに気づけないまま事態をやり過ごしてしまう。「実際、彼(ロバート・アルドリッチ。彼もまた亡命を強いられる――引用者註)とは比較にならないほど才能を欠いたデルバート・マンが、低予算の『マーティ』(55)でアカデミー賞を独占し、『独身者のパーティ』、『楡の木陰の欲望』、『旅路』などたて続けに撮ったりするのは、ハリウッドそのものが作品の質を吟味しえぬまでに感覚を見失っているからだろう」

 話が長くなるので、こまごましたことを端折ると、50年代におけるアメリカ映画の深刻な崩壊を描いた『ハリウッド映画史講義』第1章「翳りの歴史のために」の末尾は、次のような1983年のエピソードを伝えている。ニコラス・レイたち50年代作家のグループが、そのために結集した戯曲『ウェイティング・フォー・レフティ』を中心に据えた映画『シグナル7』が、ロブ・ニルソンという監督によって撮られるのである。この映画は、インデペンデント系の作家であるジョン・カサヴェテスに捧げられている。さらに興味深いことに、この映画の主人公たちは、文字通りのタクシー・ドライバーなのである。

 「疲労の跡を色濃くたたえたここでの中年の運転手たちは、役者となる夢を捨てきれずに、夜はタクシーのハンドルを握りながら、機会があれば、素人劇団のオーデションにでも進んで出掛けてゆく。その舞台で演じられようとしているのが、まさに『ウェイティング・フォー・レフティ』なのである。ジョゼフ・ロージー、エリア・カザン、ニコラス・レイという三人の「50年代」作家が、青年時代にその上演にかかわった戯曲の断片が、1983年のしがないタクシー・ドライバーたちによって演じられている。彼らは役者としては採用されはしないだろう。だが、アメリカ映画の歴史に多少とも親しんでいるものなら、この光景に心を動かされずにいることはむつかしい」

 アメリカ本国でもまったく知られていないという映画『シグナル7』を観ていないので、映画の肉体の表情そのものについて言及することは私にはできないのだが、青春の尻尾を切れずにいる1983年の中年の男たちと、理想家であるがゆえに犠牲者とならなければならなかった1930年代の若者たちの初々しい夢が交叉するこの光景に「ああ、まるで『プロジェクトX』のようだ」と呟かずにはいられない。

 また「B級映画」を扱った第2章「絢爛豪華を遠く離れて」では、「B級映画」の特質のひとつである「匿名性」の美徳を描いている。「B級映画」成立のために映画史に名を残すほどの貢献を果たしたロバート・フローレーという名の人物は、「名前を名乗ることさえせずに、『フランケンシュタイン』誕生の功績のいっさいをジェームズ・ホエールに譲っている。この楽天的な匿名性こそ「B級映画」を支える精神にほかならない」

 あるいは一流監督としての評価など顧みもせずに、「B班」撮影にコミットしたり、出来そこないの映画に手を貸して、映画を完成させながら、クレジットには自分の名前を出そうとしなかったウォルシュやドワンという映画史的には「一流」とみなされている監督たちがいる。「アラン・ドワンは、ウォルシュとともに、一流、二流といった区別がたんなる虚構にすぎないことを楽天的な大らかさで示してくれた貴重な作家なのである。ともに例外的な資質に恵まれていながら、いつでも、率先して匿名性に埋没してみせるところが彼らの素晴らしさなのである」ウォルシュの『白熱』(1949年)は、とんでもない傑作で驚愕したことがあり、ウォルシュという名前は、私の記憶の中で特別なものとしてあるのだが、映画そのものとは関係のない上のようなエピソードも、ロバート・フローレーの秘された美談とともに『プロジェクトX』的な心の高まりを喚起せずにはいられない。

 と、ここまでは浪花節的人生物語の好きな視聴者向けテレビ番組『プロジェクトX』に似た文章を書いてきたが、次節では、『プロジェクトX』的な映画めぐるヒューマン・ストーリーではなくて、「映画」の肉体そのものがいかに疲弊し、映画の肉体=魂がどれほど貶められていったか、という敗北の歴史を辿ってみたい。

 (2)『プロジェクトX』から離れて  「自由への渇望」だの「平和への祈り」だのといった、いかにもそれらしい観念がありさえすれば、映画は成り立つわけでは、もちろんなく、パーフォレーションというひとつの枠に4つの穴をもった1コマが、1秒間に24コマ動くということが、映画の基本的な物質的条件である。映画の具体性(肉体)とは、その画面に焼き付けられた構図、色彩、光と影との戯れといった物質的要素に顕現するのであり、映画はそうした諸々の物質的な要素の組み合わせから成り立っている。

 そのような物質としてある映画の肉体=魂の変調の兆しを、1973年前後の歴史的時期に、蓮実重彦は確認するわけだが、その認識を『映画はいかにして死ぬか』において世に問うことに先だつ1981年に書かれた文章(「映画と色彩」)のなかで、蓮実の口から「夜が映画から奪われてゆく」という言葉が漏れる。「この現象は、とりわけ色彩映画において顕著な傾向である。いずれにせよ、それは映画作家たちの感性の頽廃を証拠だてているわけだが、観客たちの感性もまた闇の喪失にさして苛立っているようにはみえない。事態は、だからかなり深刻である」この深刻な事態は、前項で触れた50年代のハリウッドの崩壊に起因しているわけだが、ことはアメリカ映画に限らず、全世界的な現象としてあった。一言でいえば「プロフェッショナリズムの欠落」ということなのだが、80年代前半といえば、日本でも「素人の時代」ということがさんざん喧伝されていた。1982年に新聞のために寄稿されたテオ・アンゲロプロスについての文章では「映画は民衆によって殺されかけている」という言葉が漏れさえする。

 この言葉はアンゲロプロスの『アレクサンダー大王』をめぐって書かれた言葉なのだが、この作品を観た黒沢明がアンゲロプロス本人に「君の映画では黒い衣装がいつもみごとに黒さとして再現されている」と誉めてくれたというエピソードを、アンゲロプロスは蓮実に語る。「あれは黒ではなくてダークブルーなのだ。黒い衣装を画面で黒く見せるには濃紺の生地が必要だぐらいは巨匠も心得ているはずだがと彼は得意げに首をかしげる」と蓮実は、その時のアンゲロプロスの様子を描く。黒沢、アンゲロプロス、蓮実の3人は、ともに、「理想的な黒さの追究を監督たちが怠った結果、色彩映画からコスチュームや夜の闇の黒さが失われてしまった貧しい現状への深い苛立ち」を分かち合っているわけだ。蓮実は「今日の映画で黒さに出会うことは禁じられた贅沢」とも述べるが、少数の人間の価値観など軽んじてもよい、という多数派の驕りを口実にして、上質の感動を味わう権利を奪い取って心が痛まぬというのが、素人の価値観が優先された社会の特徴なのである。

 『ハリウッド映画史講義』は、映画の供養として書かれたが、蓮実の映画批評は映画の喪に服す者の祈りの儀式に似てくる。『映画はいかにして死ぬか』で、蓮実が熱い連帯を表明する「73年の世代」(1985年に蓮実が編集責任として立ち上げた映画雑誌「リュミエール」の創刊号はまさに「73年の世代」を特集している)に属する監督たちは、映画への祈りを共有し合っている。例えばその1人に1985年に日本で公開された『ミツバチのささやき』(スペイン映画)を撮ったビクトル・エリセがいる。この名作は「こんにち撮られているアメリカ映画よりもはるかにハリウッド的であり、映画の構成一つをとっても、気候そのものをどのようにつかまえるか、地平線をどのあたりに位置させるか、というようなこと、映画の基本的な問題を自分が見た、あるいは自分に対して養分を送り届けてくれたハリウッド映画に対して、自分が何を負っておりいかなる感謝の念を表現すべきかの自覚がはっきり出ている優れて倫理的な映画であります」

 話が長くなるので、他にも書きたいことはいろいろあるけれども、『ハリウッド映画史講義』の第3章「神話都市の廃墟で」に話題を移そう。タイトルにある「神話都市」は、いうまでもなく、ハリウッドのことであるが、この章の論述の興味深さは、映画の神話都市としてのハリウッドが、「およそ詩情も夢も欠いたニューヨークの経営陣の冷徹な企業戦略に保護されていた」という歴史的視点を打ち出していることである。そうであるがゆえに「ニューヨークの本社にかわってデンバーの石油王が、サンフランシスコの保険会社が、ラスベガスの不動産業者が、あるいはアトランタの清涼飲料水販売の専門家が撮影所の経営権を握り始めた1960年代の後半、ハリウッドは、アメリカに抗って映画を擁護するための防波堤を失い、素裸でアメリカと向き合わねばならなくなったわけだ。そのとき映画作家たちは、自分とアメリカとの間に共通な言葉が存在しないことを知り愕然とする」映画が資本主義に敗北する歩みが本格化するのだ。

 そしてまた1966年のヘイズ・コードの廃止による映画の「見世物」化への傾斜が、アメリカによるアメリカ映画殺しに加担するという皮肉な結果をも生み出す。その結果、アメリカ映画は貴重なものを失うことになる。「アメリカ映画が失ったもの、それは説話論的な経済性に尽きている」ここからアメリカ映画は、つぎのような堕落の道を歩んだと、蓮実はいう。

 「ここで奇妙な転倒が起こる。システムとしてのハリウッドの崩壊は、「ヘイズ・コード」の消滅によって加速され、初めて映画を「たんなるビジネス」にすぎない「見世物」にしてしまったのである。説話論的な要素にすぎなかったショットはいたるところでスペクタル化し、物語の構造の簡潔さに代って視覚的効果のための装飾的側面が強調され、シナリオと編集の優位をいたるところでくつがえしてゆく。「アメリカン・ニューシネマ」がその登録商標のごとくに濫用したスローモーションとズームによって、「B級」的な発想の小品までが、無意味に上映時間を引き伸ばしてゆく。ラオール・ウォルシュならワン・ショットで片づけた活劇における犯罪者の最後を、『俺たちに明日はない』(67)のアーサー・ペンは何十秒もかけて撮ったのだし、ヒッチコックならたった一つの切り返しショットできわだたせただろうサスペンスを、『キャリー』(73)のブライアン・デ・パルマが何十秒にも引きのばしたことが、その変化を雄弁に証拠だてていよう。その結果として、アメリカ映画は二つのジャンルを失う。サスペンス映画と西部劇である」

 映画の肉体=魂が磨滅してゆく事態が、どんどん、加速化してゆく。ところで、「スローモーション」の御大といえば、サム・ペキンパーの名がすぐ思い浮かぶが、蓮実にとっては、ペキンパーは例外的な作家であるようだ。「『ワイルドバンチ』が感動的なのは、もはや誰にも西部劇は撮らせまいとするペキンパーの凶暴な意志が、「死」そのものをスペクタル化した最後の銃撃戦を「華麗」さ以上のまがまがしさで彩ってみせたことにある。西部劇は曖昧に消滅したのではなく、あくまでも意志的な自死を体験した高貴なジャンルというべきだろう」

 だが、消滅したはずの「西部劇」は、倒錯的なまでに時代との行き違いを誇らしげに演じてみせる一人の作家(彼もまた「73年の世代」に属する)によって、支えられる。「「あまりにも静かすぎる」と低くつぶやきながら見えない敵に対して本能的に身がまえるガンマンの反応を、有効なショットの連鎖で物語ってみせるフィルム的言説を担いうるのは、やはりクリント・イーストウッドしかいない」

 他にも触れなければならない話題は満載の『ハリウッド映画史講義』であるが、またしても原稿が長くなっているので、そろそろまとめに入ろう。グリフィスやフォード、ホークスといったアメリカ映画を代表する監督には言及せずに、「50年代の作家」の若かりし無名時代(1930年代)から始まったこの書物は、1983年にハリウッドの「完全な死」を確認している。「50年代の作家」の中では、例外的に生き延びたロバート・アルドリッチが死去するのがこの年である。アルドリッチは、晩年、映画の財産を保護しようと、ユニヴァーサル社の援助資金により、アーカイヴを設立しようと腐心し、かつての同志ロージーに、その作品の脚本や演出ノートなどを寄贈してくれないかと話をもちかけ、ロージーを激怒させる。ユニヴァーサル社は自分たちの仲間を殺した張本人ではないか、と。

 「亡命者ジョゼフ・ロージーは生涯ハリウッドを許さなかった。この一徹なまでの頑固さにわれわれは打たれる。議会の圧力といささか狂気じみた世論の高まりを前に、才能ある同志を一人として救えなかった過去を持つハリウッドをごく曖昧に許し、そんな錯誤の歴史などなかったかのように全盛期のハリウッド映画への郷愁をいだき始めてさえいるのかもしれないわれわれにとって、この頑固一徹さのなかに、アメリカに対する映画の闘いがいまなお持続しているさまを認めるからである。だがそれと同時に、不動産業者の手に移ったMGMの資金さえ利用しながら勝手気ままに振舞い続けたアルドリッチの強靭さにも、共感以上の気持ちをいだかずにはおれない」

 そのアルドリッチは、1983年12月5日ロサンゼルスで息を引き取る。彼と喧嘩別れしたかつての同志ロージーも、その1年後に、ロンドンで死ぬ。彼らと連帯を組んでいた、またイーストウッドの師でもあったドン・シーゲルが遺作となる『ジンクスド』を撮るのが1982年である。彼らの後に続く世代のうちで、最もハリウッド神話に執着し、その帝国再建という夢に取りつかれ、壮大な敗北を演じ続けた監督がフランシス・コッポラであるが、彼のゾーエトロープ撮影所が倒産するのが1982年である。「アメリカに対して映画を擁護する戦い」は、その後も持続するとはいえ、この時期に決定的に息の根を止められた、といえる。

 『ハリウッド映画史講義』という書物は、そのどこを切ってみても「映画への愛」で満ちあふれている。ここでいう「愛」とは、もちろん、安っぽいテレビドラマで描かれる愛ではなく、倫理的な愛である。この本が、アメリカ人ではなく、日本人によって書かれたということに、不思議な感慨を覚える。合衆国大統領は(本当はアメリカ人以上にアメリカ映画を擁護した「ヌーヴェル・ヴァーグ」を輩出した世界的映画雑誌「カイエ・ド・シネマ」編集長の方がいいと思うが)、花束を手にして、蓮実邸の玄関先に立つべきだろう。

 ところで最後に書いておくと、『ハリウッド映画史講義』は、現在、絶版中である。このことに暗澹たる気持ちにさせられると同時に、かなり強い憤りを覚える。「面白カルチャー」だ、なんだと思いあがって浮かれ騒いで、結局はこの程度の文化レベルしか持てなかったのかと、心底がっかりさせられる。自分が大好きな俗物が大量に増加しただけなのが、現在の惨状だろう。これは「俗情との結託」カルチャーの影響によるものと思われる。「俗情との結託」カルチャーの目を盗みながら、「翳りの歴史」のための闘いを細々と持続するしかないのだろう。

(2008・3・1)
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