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  「わが1972年グラフィティ(4)」

(4)『大地の冬のなかまたち』その他(承前)

 あれは1972年の5月の末ごろのことだっただろうか。学校の行き帰りの通学路の電柱などに、ある映画のポスターが目立つようになった。青いセーターを着た少年が雪の校庭でドッジボールを投げようとする姿が映し出されている。映画のタイトルは『大地の冬のなかまたち』。「ぼくらには夢がある。希望があるんだ!」というような若句が添えられていた。「文部省選定」の文字も目に入ったように思う。特別な興味を抱くこともなく、私はそのポスターの前を素通りしていた。

 そのポスターを目にするようになってしばらくした土曜日の最後のホームルーム時に、この映画のチラシが教室で配られた。「ああ、あれかあ」というのが私の反応であったが、U野がなぜだか理由はわからないが、「観に行こう観に行こう」とやたらと熱心に私たちを説き伏せた。U野の熱意に押し切られたのと、私自身4年4組の連中とつるむのが楽しかったので、映画自体にはまったく興味を持っていなかったが、翌日曜日に彼らと同行することとなった。そのときのメンバーは、言いだしっぺのU野、トモ、それにS・知洋、Y本と私の5人だったと思う(後に示し合わせることはなかったのだが、この映画の原作本―後藤竜二作―を読んだことをトモとSと語り合ったので、彼らは確実にメンバーにいただろう)。

 上映会場は三鷹市役所に隣設された三鷹市公会堂であった(その数年前にここで当時の人気番組「底抜け脱線ゲーム」の公開録画が催され、私も近所の人間たちと観に行ったことがあった)。三鷹市公会堂というと、三鷹駅行きのバスの停留所のところに巨大なお化け土管が設置されていて、バスが来るまでの待ち時間に、子供たちが必死こいてその土管を駆け登っていて(私もよくやった)、その場面のことがまず思い出される。あの「お化け土管」にはどういう意味があったのだろう。

 上映当日、私たちは前から5列目あたりの席を陣取って2本の作品を観た。1本は短編の人形芝居で、江戸時代の町衆とうなぎのコミカルな掛け合いを描いた他愛のない、いかにも子供向けという感じの作品であった。この後に上映されたのが『大地の冬のなかまたち』であった。

 映画の舞台は北海道の富良野市であり、そこにある小学校の6年生の生活が物語を成している。映画の導入で、校庭を駆け回る小学生たちの姿が描かれ、自分たちの日常とつながっているなあと、映画の世界にはすんなりと入り込めた(途中の場面で主人公の少年が、金持ちの娯楽としてではなく、(労働)生活の延長として馬に乗るシーンがあり、これにはさすがに東京と北海道の差異を感じた)。とりわけ主人公(サブ)が学級委員を務めるクラスの担任が、木山霧子という若い女の先生であったことは、たんなる親近感以上に、その映画の世界に私たちの生活を投影させるのに、十分な役割を果たした。

 サブや他の少年たちとキリコ先生の関係は、私たちと4年4組の担任であったN波先生との関係に完全に重なり合って見え、私たちはそれを言葉にして確認しあったりはしなかったが、『大地の冬のなかまたち』の世界に4年4組の生活環境を投影していたのである。じっさい、その後、原作本を模倣して、私たちはN波先生に「じゃれあい」を仕掛けることもあった。

 先日、映画『大地の冬のなかまたち』(制作は「にっかつ児童映画」)をビデオで再見したのだが、私の記憶の中では、伊藤るり子演じるキリコ先生はもっとスレンダーで眼も田中裕子のような細目のイメージだったのだが、じっさいに画面に映っていたのは記憶とは違いぽっちゃりした女性で、N波先生と雰囲気が似ていることを確認したのである。それでたやすく投影してしまったというわけだ。伊藤るり子は芝居は下手だし、見るところのあまりない女優だと思うが(華やかさのある人だとは思う)、彼女の丸みを帯びたあごの輪郭が画面に映るたびに、懐かしさに胸が立ち騒ぐのを覚えた。

 今回の再見でわかったことは、この映画が北海道の農民や炭坑夫の貧しさを教条的ではあれ、かなり前面に押し出していることである。小学生の時に見た時も重い部分が含まれていることはわかっていたが、当時は校舎の二階の教室から生徒と教師で飛び降りて追いかけっこ騒動をやらかす「陽」の部分にばかり目が向いていた。当時も今も変わらずに私が親和してしまうのは、そこに描かれている「クラシカルに道徳的な少年たちの立姿」といったものである。

 斉藤環の言う「エロスの片鱗すらかいま見える」倫理性のことである。また斉藤は次のようにも言う。「「性」を知る前の私たちは、いかばかり賢く、生意気なほどの落ち着きに満ちていたことか。少年の無垢とは未熟さゆえのものではなく、むしろ成熟のしるしにほかならない」(「「少年」という名の倫理」)。崇高の起源はここにある。エロスに近接したタナトスが崇高さやひいては理念の起源であるが、(いきなり話は飛ぶが)法の法たる憲法もやはりこのような次元と結びついている。だから憲法学者の長谷部恭男の「憲法というものは、本来的に人間の本能に反する嫌なものだ」という発言は、こうした視点から読まれるべきである。ここではさらりとだけ書いておくが、「人間的な憲法」というようなレトリックに引っかかると、足をすくわれることになるだろう。

 ともあれ少年期の感情生活の大半を占める友愛という崇高な感情に対して、自分が親和的に反応していることを改めて確認した。ここから一本の線が辿れそうである。この2年後に『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)を読んだ時に、そうとは知らずに「倫理」や「崇高さ」を肉感的に受けとめていたのだし、それから10年後にテレビドラマ「北の国から84夏」を見た時も同様の反応をしていた。「北の国から」の前に、1978年の青春映画の名作『帰らざる日々』を置くことができそうだ。喧嘩を通してしか心を通い合わせることのできないサブとカッチ(生意気な転校生)の不器用なコミュニケーションのあり方が、『帰らざる日々』における江藤潤と永島敏行の狂おしくも不器用な関係に重なって見えるのである。

 『帰らざる日々』は、物語の現在時の1978年から6年前の(奇しくも)1972年の高校時代を振り返るといった構成の映画で、そこで江藤潤が、いまや完全に絶滅した古典的な不良を好演していた。校内持久走大会で永島敏行を挑発する不敵な表情や、思い詰めたように前方を見据えながら誰にも知られることのない夜の自転車のトレーニングに打ち込む真剣な表情が素晴らしい。江藤潤も永島敏行もともに70年代のオーラを背負った俳優だった。だから、そつのなさと器用であることが価値であった80年代には、この2人の俳優は失速した(と書くと失礼かな?褒めているつもりなのだが)。永島の方は、今でも「エコロジー(というよりは農業)俳優」としてのポジションを維持しているようだが(「エコロジー(農業)俳優」という立ち位置が70年代的ではある)。

 『大地の冬のなかまたち』の方に話を戻すと、今回見直してみて、当時見たように思っていた「崇高さ」が画面に希薄であることに、少々がっかりした。「崇高」という意味はあったかもしれないが(ストーリーも少年たちの演技も「崇高」という意味に奉仕する操り人形のようなものに過ぎない)、少年の肉体としての「崇高」が輝き出す瞬間は映画の中にはなかった。炭鉱のガス爆発で死んだという和夫(カッチ)の3人の兄たちの遺骨代わりに、即席に設えられた仏壇の前に置かれた3個の石炭の物言わぬ表情に、「崇高さ」の気配が漂っていたかとは思う。おそらくは当時もそうだったのだろうが、今回もまた『大地の冬のなかまたち』は「伊藤るり子の丸みを帯びたあごの輪郭が映された映画」というに尽きる。

 先にも書いたように、少なくとも私にとっては、『大地の冬のなかまたち』はそれを通してN波先生に対する自分の感情を再確認する映画であった。崇高さとエロスが共存しあってそれらの感覚で世界と交感するという(早い話が中性的な交流――性に目覚める前の段階なのだから、それしかないのだが)特権的な少年の時間に、私は全身で没入していた。小学校の6年間の中で、4年生の1学期は異常に楽しかった。あまりに興奮し過ぎていて、終業式の日には、発熱と腹痛で、通知表をもらいに行けなかったほどである。

 高揚状態の1学期中に私たちが仕掛ける「じゃれあい」に、N波先生は律儀に応じてくれた。あれは1学期がもうすぐ終る頃の体育の授業のことであった。授業はゴム鞠による手打ち式野球であった。授業が終った後、どういうきっかけからそれが始まったのかはわからないのだが、ゴム鞠を使ったドッジボールが先生と私たち男子との間で始まってしまった。といってもボールを本気で体にぶつけたりはしない。これは私たちの美徳といってよかろうが、ボールを体に当てることはしないという暗黙のルールのようなものがあって(仮に体のところへボールがいくとしても手でキャッチできる程度にスピードは緩めるという作法があった)、私たちはそのルールに従い、先生の体のぎりぎりのところをボールがかすめるようにと注意を払いながら、ボールを投げ続ける戯れに打ち興じていたのである。

 めいめいが興奮し、気分がハイになった段階で私のところへとボールが回ってきて、「先生の脇ぎりぎり3センチをかするスピードボール」と狙いを決めたのだが、指がボールに引っかかりすぎ、さらに手首のスナップもえらくしなやかにかかったので、当初の意図以上に勢いのあるボールを、先生の左太腿の内側に突き刺すように投げ込んでしまった。トレパンの上から太腿を直撃したボールがポーンと勢いよく弾むのが見えるのと同時に、「ぎゃあっ!」先生が叫び声をあげるのが聞こえた。「いっけねえ」と一瞬うしろめたい気持ちになったが、あまりにもマンガチックなボールの弾み方と絵に描いたような先生のリアクションがおかしくて、私は自分でやったことに自分でウケてしまい、周囲のクラスメートたちも「やったやった」と大はしゃぎし(「素晴らしいオチだ」と私はみんなから褒めたたえられた)、そこでその授業後のささやかな余興はお開きとなった。

 その2,3日後のことである。休み時間に「ちょっと○○」と、私は先生に呼び止められた。なんだろうと、先生の顔を見上げると、悪戯っ子みたいな表情を浮かべた先生が「あなたにボールをぶつけられたところ、すごい青あざになっちゃったよ」とからんでくる。「芸のないあやつけやがって」と(若干の反省の念がよぎるにしろ)怯むそぶりを見せたくもないので、「ゴムボールがぶつかったくらいであざができるわけがない。軟球じゃないんだから」と、私は端から信じずに答えた。「いいえホントに青く内出血してる」「大げさすぎる」「今はジーンズを穿いてるから無理だけど、証拠を見せてあげたい」「うそにきまってらあ」「ぜったいに証拠はみてもらう」と押し問答が続いたのであった。

 それからしばらくして前にも書いた4年生合同でのプール演習があった(N波先生も水着で登場し、泳ぎの模範演技をして恥をかいたやつ)。一応の授業が終ると、最後の15分くらいは「お約束の自由時間」となった。私もプールの中央で仲間たちと水遊びに興じていた。するとそこへN波先生が私の傍らにやって来て「ねえ○○。ちょっとこっちへ来て」と私1人をプールサイドの段差のあるところへと連れて行った。

 先生は、プールサイドの段のところに立つと、自分の左脚全体を水面上へと掲げて左の太腿の付け根のところを私に指し示した。「あなたがつくったあざだよ。見てごらん」そう言われて私は先生の白い太腿の内側をまじまじと覗き込んだのだが、予想していたような痛々しいあざの痕跡は見られなかった。うす青いようになっているようにも見えたが、血管が肌に透けているようにしか見えなかった。「これは血管が透けて青くなっているんだよ」「血管じゃなくてあざよ。あなたがやったんだよ」「これは静脈が青くみえてるだけ。あざだったら、もっと紫色になる」「あざよ。すごい痛かったんだから」とここでも押し問答が続く。しかし、それにしても、太腿の内側を他人の視線に曝すうら若き女生とその女性の股間を覗き込んでいる小学生というツーショットは、傍から見るとなんとも不思議な光景ではある。

 夏休みがあけて、9月中旬の頃である。私の父の10月1日付けでの宇都宮市への転勤が決まった。それからはなんだかばたばたと慌ただしく過ぎていった。どういういきさつだったのかわからないのだが(たぶん母親の知り合いのPTAの思いつきなのだろうが)、日曜日に何組かのクラスメートとその保護者有志が集まって、中央線沿線のどこかの公園にハイキングにいくという企画があった。N波先生も参加したが、自分よりも年上の母親たちに囲まれて、かなり居心地が悪そうだった(転校後の最初の冬休みに三鷹の実家――祖父母が残っていた。私が高校生の時に三鷹のこの家は消滅することになる――に帰った時、駅前で買い物をしていた母と四小での知り合いが再会し、どこかの店の二階でも借り切って会を催そうという話になったらしいが、これは、暮れで慌ただしいということで、実現されなかった)。

 9月の最終日曜日に、キングタイガースの連中が「お別れゲーム」として4年1組チームとの試合を企画してくれた。その前日の土曜日が、私の三鷹市立第四小学校での最後の生活となった。すべての授業が終った後でのホームルームにおいて、お決まりの「お別れの儀式」があった。私は黒板の前に、クラスメートと向き合うかたちで立った。クラスメートを代表しての「お別れの挨拶」をする生徒に、N波先生はトモを指名された。妥当ともいえるし、人選ミスじゃないかとも私は思ったが、私は「感動的な言葉」を期待して待った(「こいつ絶対ふざけるぞ」というかなり確率の高い不安も胸をよぎっていたが)。案の定トモは自分のウケを優先して「○○はむこうへ行ってもぶいぶいいわせて、栃木の女生徒たちにきゃあきゃあ騒がれて……」と軽薄一直線の言葉を並べ立てたのである。それを聞いてクラスメートたちはゲラゲラ笑い、私は「このアホが」とむかっ腹を立てていた。私は、その時点で、きちんとした挨拶をする気持ちを完全に放棄していた。トモの無内容の挨拶が終わり、N波先生の「それでは××君。皆さんに最後のご挨拶を」の一言に、私は黒板の前で「トモなんか死んじまえ!」と大声で叫び、クラスメートたちのドッという笑いを奪い返したのであった(ざまあみやがれ)。「それだけの元気があれば、むこうでも大丈夫でしょう」というN波先生の言葉で、ホームルームは終った。その土曜日の午後、私の家でキングタイガースのメンバーとのささやかなお別れ会が開かれ、そこでトモと「なんだあの言葉は」「そっちから喧嘩売ってきたんだろう」というようなやりとりがあったりした。

 翌日曜日が三鷹での本当の最後の日であった。1組との野球の試合(四小の校庭で行われた)では、Y本の父親が主審を務めてくれた(Y本のお父さんのことでもいろいろと思い出すことがあるのだが、「××君その髪型男らしくていいな」と私はよく言われた。私は3年生までスポーツ刈りを父親に強制されていたのである。周囲から「坊主」呼ばわりされるので、私はいやでしょうがなかったが、Y本のお父さんは会うたびに感心してくれた。「その髪型はさっぱりしていて気持ちがいい。うちの息子にもさせなくちゃならない」Y本のお父さんは、本気でそう思っていたらしく、数日後Y本がスポーツ刈りで登校し、私に苦情を言ってきたことがある)。試合の結果は10対20くらいのスコアで、キングタイガースは惨敗した。

 試合が終る頃、四小の校庭にN波先生がひょっこり姿を現した。いつものようにジーンズ姿であった。校庭の鉄棒のところで、私と先生は、向き合って立った。「○○元気でね。むこうでも昨日みたいな元気でがんばるんだよ」それが先生の最後の言葉だった。

 N波先生とは、その後、小学校6年生までの間は年賀状のやりとりがあった。5年生の時に頂いた賀状には「現在は2年生の担任を受け持っています」というようなことが書かれていた。私たちの学年の担当にはならなかったようだ。6年生の4月に私は目黒区の公立小学校に再び転校したのだが(ここが私の卒業校になる),その頃に頂いた賀状には「東京に戻ったけれど、三鷹の方ではなかったのですね。あなたとY本やU野が校庭を駆け回っていた姿を思い出すことがあります」という内容のことが書かれていた。中学校に上がると、さすがに私は先生に年賀状を出すことがなくなり、それ以来、残念ながら音信は途絶えてしまった。先生は元気でいらっしゃるだろうか。小学校4年生の夏休みあけの9月に、先生と私が二人きりのときに、先生は、1学期の間、引っ込み思案なところのある私を刺激し、盛り立てようと、心がけてきたのだという意味のことを語ったことがある。当時は、自分の恥部に触れられるようで、鬱陶しく、そうした話題自体が煩わしかった。けれども、いまは、彼女のそうした気遣いが胸に沁みる。

 転校先の小学校では11月の学芸会前で、4年生の劇の「裸の王様」の王様役を、わけがわからない状態のままに、割り当てられてしまった。当初は大臣役立ったのだが、王様役の1人が(三幕の劇で一幕一人ずつの王様計三人がいた)声が高すぎて王様らしくないということで、役が交代となった。台詞の多い役などいやでいやでしかたなかった(5年生の時は「朗読大会」のクラス代表までやらされた)。転校当初は「足が速いか」とか「喧嘩度胸があるか」とか、お決まりの転校生の洗礼を受けたが、それなりにクリアし、楽しく過ごさせてもらった。東京への転校が決まった時も、いろいろと「お別れ会」の企画をやってもらった。ここでも例の「お別れの儀式」があったが、こちらはいたってオーソドックスなものであった。

 1972年の冬休みに、私は、東京に戻ったおりに、日比谷の今はなき「有楽座」でその年のヒット映画『ポセイドン・アドベンチャー』を観て、映画に対する興味を強く持つようになった。映画に対する関心は今も持続している。だから、こうして振り返ると、この年は個人的に重要な出来事とコンスタントに遭遇していることがわかる。

 「三鷹市立第四小学校4年4組物語」は、ここでひとまず終わりとさせて頂く。それにしても、思いの外、長々と続いたなあ。

(2006・10・1)
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