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  「わが1972年グラフィティ(3)」

(3)ホーム・ルームその他

 三鷹市立第四小学校4年4組のホーム・ルームは、不思議な光景を呈することが間々あった。女子生徒による男子生徒の告発の儀式の場と化すことが見受けられたのである。

 「今日の男子生徒たちの生活態度、および授業態度その他もろもろは、まるでなってなかったです。心を入れ替えて欲しいと思います」
 「となりの3組の真面目な男の子たちを少しは見習って欲しいです」

 ちなみにとなりの3組は、S田先生という、それはそれは学年で最も恐ろしいとされていた女の先生が担任であった。F田が3年までこの先生のクラスにいて、4年になってようやくクラス替えで解放された時、「S田先生のクラスでなくてホッとしました」とF田の母親が私の母親に告白したほどである。4年生に上がったばかりの最初の1ヶ月は、私もこの先生のクラスにいて、授業で答えられないとそのまま立たされるという話には聞いていた厳しい洗礼を受けていた。授業中はほんとにピリピリしていた。

 この先生、文部省が喜びそうなことをすすんでやるタイプで、1972年というのはグアム島で横井庄一さんが見つけ出された年だったのだが、クラス全員で横井さん宛ての励ましの作文を書き、それらを横井さんが入院している病院へと送り、それに対する御礼の葉書が横井さんから送られてきて、その葉書を教室の廊下側の壁に貼り出して、3組の前の廊下を歩くたびにそれがなんとなく目に入った。というよりは、なにせ葉書なので、ようく注意しないと気がつかない。私もクラスメートに教えられてその葉書の存在を知ったのだが、自慢げな感じがしてあまり感心はしなかった。

 ただしS田先生のやり方がツボにはまった場合には素晴らしい効果が発揮されるらしく、3年まで一緒のクラスでよく座席が隣同士になることが多かった(私は迷惑したが)M橋という私の喧嘩友達だったような女(その時は3組所属)が、夏休み明けに堂々たる「ショウジョウバエの観察記録」を作り上げ、3組の教室の廊下側の壁に張り出されたことがあった(私も1度だけ図工の時間に描いた絵が美術教師に気に入られて、Y本の絵といっしょに校長室の壁に張り出されたことがある)。その観察記録に私は圧倒され、「なんだかあいつに差をつけられちゃったなあ」と焦ってしまったことを覚えている。M橋についても少し書こうかと思ったが、長くなるのでやめる。

 4組のホーム・ルームの話題に戻ろう。男子は女子になじられることが多かったが、男子の側からも「なぜこのクラスには南沙織さんのような美しい女性がいないのでしょうか。美容整形してみたら?」というような言葉が返されていたようにも思う。それにしてもどうしてかくも男子と女子の間の仲が良くなかったのか正確なところはわからない。思い当たるフシもあるのだが、そのことについては次の節で書くとして、いちばん記憶に残っているホーム・ルームのことを書こう。これは私自身も絡んでいる。私にしてみれば、交通事故におけるもらい事故のようなものだったが。

 その1件は、ある日の昼休み中の掃除の時間に、教室内で起こった。私は校庭に遊びに出ていたので、そのことについてはまったく知らなかった。昼休みが終って教室に戻ってきてみると、なんとなく雰囲気がおかしいことには気がついた。2,3人の男子の悪たれが、私の顔を見てニタついているのである。「色男が。この〜」といった冷やかしも受けた。「なんじゃ。おまえら」と軽く受け流しておいたが、事の真相はホーム・ルームの時間にわかった。

 その日のホーム・ルームの時間のことである。あまり浮わっついたところのない、人前にしゃしゃり出るようなタイプでない1人の女生徒が、意を決っしたように立ち上がった。正真正銘のお嬢(褒め言葉である)といった子で、軽くウェーヴがかかった髪を青いリボンでポニー・テールに結び、フリルのついたワンピースを着ている感じだった(私の記憶では)。そのお嬢が「今日とても許せない出来事がありました」と話し始めたのである。押し付けがましくはない清らかな正義感を湛えたその口調に、私は虚をつかれた。ある種の神々しさを感じて、私は彼女の姿に魅入ってしまった。

 そのお嬢の話を要約すると次のようになる。掃除の最中に、数人の男子たちが1人の女子生徒を取り囲んで、好きな男の名前を白状せいと強要したらしい。その女生徒は私と1年の時から一緒のクラスで、家が理容店をやっているという話を聞いたことがある。店はどうやら繁盛しているらしく、ランドセルや文房具など、他の生徒よりは上のランクのものを使っていて、トロくさくもそうした雰囲気を無防備にさらけ出して、周囲の敵意を誘発してしまうようなところがあった。はじめのうちは女生徒は拒んでいたのだが、あまりにもしつこく詰め寄られた挙句に音を上げて、彼女は泣きながら私の名前を口にしたらしい。私に絡みつくような妙な雰囲気は、そういうことだったようだ。ホーム・ルームの時間も俯いてしょんぼりしているその女子に私は同情し、「これは男の側が悪い」とその時ばかりは女子の肩を私は持ちたくなった。ところでこの話が私の記憶に残っているのは、悪たれの悪行を告発した心清らかなお嬢が最後に発した次のような名台詞ゆえのことである。そのお嬢いわく。「人が人を好きになるってとても素晴らしいことだと思います」その瞬間、私はいすの上で飛び上がり、教室全体も「おおっー!」と横に大きく揺れた。教室を横揺れさせ、クラス内に稲妻を走らせたあのお嬢は、20年早く登場したセーラームーンだったのだろうか。

 4年4組内男子女子抗争のひとつに次のような1件があった。それは6月頃に行われた生徒会会長選挙を巡るものである。3人くらいの立候補者がいたと思うが、そのうちの1人がトモの兄であった。そして別の1人に4組の女子生徒の兄がいたのである。選挙の投票権を持っているのは4年生以上の生徒であり、私たちも体育館に集められ、選挙演説に立ち会った。

 トモの兄は、兄弟だから当たり前のことであるが、トモに似ていた。しかもよくないことに、トモ以上に、コメディアン度がアップしていた。飲料水の「ファンタ」の比較的最近のコマーシャルに登場する詰襟の学生服を着たイガグリ頭の中学生に相当に似ている感じであった。そのマヌケ面が「学校を良くします」みたいなことを喋っていて、若干の失笑が混じっているような笑いを取っていたが、万人にとってのウケからは遠かったように思う(そもそもこのマヌケはちゃんと真面目に演説しないで、仲間のクラスメート相手に雑談するような調子で、仲間内からの「いいぞー」の掛け声にへらへら喜んでいる様子なのである。私個人はそのノリにウケてしまっていたが)。江頭2:50とそのマニアックなファンといったごくごく限られた範囲内での親密なコミュニティーは成立していたかとは思う。

 それに対して一方の女子生徒の兄であるが、目許涼しげな二枚目で椎名桔平似のイケメンヤローだったのである。「これは勝ち目はない」と直感しながらも、「男は顔ではない」と空しい言葉が、おまじないの文句のように、脳裏を駆け巡っていた。

 選挙演説の終った体育館から教室に戻ってくると、教室内は上気した女子たちの興奮状態で充満していた。「○○さんのお兄さん、超カッコイイー」と女子どもがぴゃあぴゃあ騒ぎ立て、日ごろはあまり目立つことのないやはり目許涼やかな女子生徒が、スターのごとくもてはやされている。私たち男子はその雰囲気に気圧され、いま目撃したばかりの不条理にも残酷な1対の対照的な2人の男の対比の明暗ぶりに、海辺で地団駄を踏んだスサノオのような憤りに囚われていた。青ざめた顔で目を攣り上がらせながら「トモのアニキに票を入れろ」と男子の内では党議拘束が敷かれ、一部の男子は一部の女子に票の取り込みを仕掛けていたが、冷たくあしらわれていた。「いけるいける。負けるわけがない」と男子たちは口々にそう言い合っていたが、その姿はまるで、今年のワールドカップ・ドイツ大会で「ブラジルに勝って決勝リーグに進むんだ」と強弁する愚かな日本サポーターたちのようであった。

 そして選挙の結果は、いうまでもなく、トモのアニキは落選し、イケメンヤローが当選したのである。


(4)『大地の冬のなかまたち』その他

 前の節で触れたとおり、男子生徒は女子生徒から多分に嫌われていたのだが、その理由はというと、担任の先生を巡ってのことではなかったかと思う。4年4組の担任は、N波K子先生という新米の若い女の先生であった。新米ほやほやの先生のクラスによくありがちなことだが、私たち男子は思い切り羽を伸ばし、しかもかなり図に乗って、N波先生に多大な迷惑をかけているのではないかと女子の目には映っていたのかもしれない(正確にはわからない)。けれども私たちのふるまいには、これっぽっちの悪意も含まれてはいなかった。すべては親愛の情から発していたのであり、親密に過ぎるほどの「じゃれあい」の一環であった。実を言うと、N波先生は、私の初恋の相手であった。

 1972年4月に、N波先生はもう1人の若い女の先生と四小に赴任してこられたのだが、始業式の日に、先生はジーンズ姿で颯爽と登場した。N波先生というと、私は、ブルージーンズと白いTシャツの上に、画家が着ているスモックのような上着を羽織っている姿を思い出す(当時の典型的な若者ファッションですな)。

 ジーンズを着用している先生というのは、当時はまだ珍しかった。だから全校生徒への最初の挨拶で、ジーンズ姿のN波先生が朝礼台に立った時は、全校中が「おおーっ」と一瞬どよめいた。私も校庭でその姿を見ながら「カッチョイイー」と密かに感嘆した。先生は長身でどちらかというと骨太で、きゃしゃではないタイプ(ミノルタカメラのコマーシャル時の宮崎美子に雰囲気が似ていると思う。系統はこの系統である)だったのだが、話し始めると予想外に可愛らしい声で(私は先生の好きなところの中ではその声が一番好きだった)、しかも相当に緊張していたようで、声が裏返ってしまい、顔を真っ赤にして朝礼台の上で立ち往生して、全校生徒の爆笑を誘った。私はその姿を見て、「役者やのおう」とさらに感心した。

 先にも書いたように4年次のはじめは、私はS田先生のクラスだったが、途中からN波先生のクラスになる。そこでの自己紹介によると、先生は石川県の出身で、多摩周辺の大学(美術系の大学と言っていたような気もする)進学のために上京し、当時は日野市に在住。1年ほど遊んでいた時期があったとも言っていた(それが浪人なのかフーテン生活なのかはよくわからない)。学生時代バスケットをやっていて、膝を悪くしたという話もされた(別に先生の影響を受けたわけではないが、私も中学時代はバスケットボール部に所属していて、私の場合は、左足首に捻挫癖をつけてしまった。そういえば、先生の走る姿を何度か見たことがあるが、典型的な女子のバスケットのガードの走りで、ドテドテ走るようなスタイル。今はもう見かけなくなかったが、昔の女子バスケのガードというのは、ソフトボールのキャッチャーみたいのが多く、私が中学の時の同級生の1人の女子バスケ部員は、口の悪い男子から「足デブ女」と呼ばれていた。N波先生はキャッチャー体型ではなかったし、体育の授業も受けるとそこそこの運動神経に恵まれていることがわかった)。

 N波先生と一緒に来たもう1人の若い女の先生(名前は覚えていない)は、4年1組の担任だったが、N波先生とは好対照であった。こちらの先生は、体は小柄なのだが、目がつりあがっていて、性格がきつそうなのである。1組の生徒からは「ヤクザ」と呼ばれていて、けっこう男勝りだったようだ。私は、その先生が当時の人気漫画『男おいどん』の単行本2,3冊を手にして廊下を歩いているのを見て、びっくりしたことがある。生徒が持っていたものを取り上げて、自分で読んでいたようだ。性格は強そうなのだが、運動の方は駄目だったようだ。1学期の終わりに学年合同の水泳の授業があって、N波先生と2人で模範の泳ぎを示すという企画があったのだが、両者とも「それじゃあ模範にならんだろう」というもので、N波先生の方はそれでも運動能力の高さの片鱗を感じさせたが、その先生は運動神経ゼロというところを露呈させてしまったように私の眼には映った。

 N波先生は体格はよく、運動能力もあるのだが、人がいいというのか、トロいというのか、例えばこんなことがあった。私はその現場を目撃しておらず、この話はクラスメートの証言による。昼休みか何かの時に、先生は水飲み場の脇にあるバケツ用の蛇口のところにかがんで、雑巾を洗っていた。するとそこに1人の悪たれが近づいてきて、先生の背後から忍び寄ると、両腕を先生の肩越しに伸ばし、両手で先生の両胸を揉んだというのだ。

 私の想像では、当然先生は激怒し、その悪たれにびんたを食らわせて(この場合は拳でも許されよう)、悪たれは1リットルほどの鼻血を流す。鼻血の1リットルでも流れなければ、この悪行とそれに対する処罰とのつり合いは到底とれぬというものだ。「それで、先生はどうした?」と勢い込んで、私がその友人に尋ねると、彼は答えた。「先生は両手で顔を覆って、半ベソをかきながら、廊下を走って逃げていった」それを聞いて「だはぁっ」と私はのけぞってしまったが、両手で顔を覆いながら廊下を走り去ってゆく先生の後ろ姿の映像が思い浮かんで、私は胸がきゅんと切なくなってしまった。どうも先生はスキのある人だったようで、通勤の中央線でよく痴漢にあうとぶうたれていたことを聞いたこともある。

 そんな先生のもとで、私たち男子は、当初のうち、相当にわがもの顔にふるまった。女子たちからは「もっと怒ってやったほうがいい」という声も上がっていたが、「騒ぎたい人は騒ぎなさい。強制されてではなくて自らすすんでやることしか価値はないの」と先生は「待ち」の姿勢に徹していたようだ。だからといって、先生は無関心を決め込んでいたわけでは、けっして、ない。むしろ目配りが利いていて、私など煩わしく思うこともあった。私が浮かない様子をしていると「○○元気がないよ」(はじめのうちは先生は、私のことを「××君」と名前で呼んでいたが、やがて「○○」と仲間うちでの私の通称で呼ぶようになった。私の通称はここでは書かない。すべての責任はY本のアニキにある)と、私はよく声をかけてもらった。「べつに。そんなことはないよ」と私が誤魔化そうとすると、「いや元気がない。いつもの○○と違う」としつこく食い下がってくる。じつはその頃、私はクラス内の陰険グループとちょっとしたトラブルを抱えていた(私の「運動音痴ぎらい」はこのあたりに端を発している)。先生には、いろいろとよくフォローしてもらったと、感謝の念はつきない。

 男の子に特有の(まあ病気というのか、悪癖というのか)一種の「不良の美学」が、私たちの周辺に蔓延し、私も完全にそれに巻き込まれていた。安岡章太郎の『悪い仲間』みたいな世界ですな。あの小説では「ちょいワル競争」に打ち興じていた劣等生たちが、歯止めが利かなくなり、取り返しのつかないところまで行き着いてしまう世界が描かれていた。あんな感じで、クラスが始まったばかりの頃は、私たちは浮き足立ち、顰蹙を買うことに熱中していた。5月の遠足の時も似たような状況が形成されたことがある

 5月の遠足で、私たち4年生は秋川渓谷へ電車で行った。奥多摩のとある駅から、どこかの川っぺりまで、山道を私たちは延々と歩かされた。私はトモと並んで歩いていた。山道のウォーキングという状況に私たちは、退屈し始めていた。そんな苛立ちからか、私とトモは、状況そのものを小バカにするような話を厭味ったらしく始めた。周囲の男子も、最初のうちは、2人の奇矯な漫才を面白がり、彼らの面白がる様子を見て、私たちはさらに話をエスカレートさせていった。どんな話だったか具体的には覚えていないのだが、ある段階から、私の方は、まるで心にもないことを言っているな、と自分で自分の言葉に焦り始めた。けれどもトモの方は、もともと頭の回転の速い人間なので、次から次へとエグいネタを連射し続けるのである。トモの言葉に煽られるように、私もどんどん話を過激化させる方向へと追い込まれていった。内心では「トモ、おれはもう降りたいよ」という気分だったが、そんなそぶりをみせることはできない。

 私たちのすぐ傍らを、N波先生と女生徒が並んで歩いていたのだが、女生徒が目を丸くして「先生、あの人たち、なんだか凄い話をしてる……」と訴えた。N波先生も気分を害していたらしく、眉を顰めて、あまり調子に乗らないようにといった意味のことを言った。その言葉にさらに私たちは調子づき、「ぺっぺっぺっ。大人ってやーね」とアホ街道まっしぐらだったのである。すると先生は、さじを投げたように、「あの人たちのことはほおっておきましょう。悪ぶってるだけなんだから。しょせんは子供なの」とそっぽを向いて、私たちを無視することに決めた。「見透かされてるなあ」と私は、内心、舌を巻いた。

 この遠足の時の写真を見ると、トモのすっとぼけた様子に苦笑してしまう。トモは最後列で首を右側へ測ったように45度傾け、その写真を見る者の視線を1人で独占するかのように写っているのである。意識して計算された末の結果とも思えぬ。無意識のうちにそのような芸当を演じてしまうのは、やはり、ある種の「天才」性の発露なのだと言えそうな気がする。

 長くなってきたので、いったんこの原稿はここでsuspendedとする。1972年の想い出深い映画『大地の冬のなかまたち』のことを書くつもりでいたのだが、いっこうにそこまで話がたどり着かない。この続きは近いうちに発表する予定である。

(2006・9・13)
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