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  「わが1972年グラフィティ(2)」

(2)わがキング・タイガース―試合篇

 新緑が陽の光に白く輝く、人の心を(特に子供の心を)快く昂ぶらせる5月のことであったような気もするし、皮膚の表面に熱を籠もらせる湿度の高まりが、夏の到来を感知させ始める6月のことであったかもしれないが、とにかくそのいずれかの時期にキング・タイガースの試合の話が持ち上がった。

 話の発端は、とある日曜日に4年1組と2組の野球チームが、三鷹市立第4小学校の校庭を借り切って試合をしたことにある(結果は1組の勝利)。その話を聞きつけたわたしたちは、「ならばおれたちも。対戦相手は話の流れからとなりの3組だろう」と熱く意気込んだ。4組の申し出に3組側も応じ、わたしたちは担任の先生に校庭の使用許可を取ってもらい、日曜日の午後にはじめての試合をすることになった。

 ところでわたしたちのチームは相当に気分的なものであり、強豪リトル・リーグ並みに優勝を目指して猛練習に励むというノリのものではなかった。だから3組との試合の前もたかだか1,2回ぐらいしか練習はしなかった。しかもその練習の内容たるや、例えばピッチャーなどは、ストレートが走っているとかカーブの切れがいいとかではなく、ましてやストライクゾーンにきちんと球が収まるでもなく、「やったー。キャッチャーまで球が届いたよ」というレベルのものだったのである(いささか話は誇張気味)。

 さて試合の前日の土曜日、最後のホームルームの時に、メンバーの1人が「明日はぼくたちの野球チームがとなりのクラスと試合を行います。つきましては女子のみなさん、ぜひぼくたちの応援に来てください」とずうずうしく発言をした。それに対する大半の女子の反応は「シラーっ」というものであった。わたしたちのクラスは、男子と女子の仲がたいそう悪かったのである。絵に描いたような『おれは男だ!』(森田健作主演)の剣道部とバトン・トワラー部のような状態であった(このことについては次回に詳しく書く予定)。私はまったく期待していなかったし、「ウザいから来てくれるな」とゴーマンをかまし気味ですらあった。

 試合当日の日曜日には、それでも3,4人の女子がわざわざ応援に来てくれた。それが誰だったか全員は覚えていないのだが、1人はたぶんI神さん(この子とは1年からいっしょのクラスでよく座席が隣同士になり、家にも数回遊びに行ったことがある)であった。もう1人はT張さんという子で、4年になって初めてクラスメートになった。家が中華料理屋を営んでいた(今回の話はこの子が主役のようなところがある)。ほかの2人は申し訳ないが忘れた。

 試合の前にキャッチボールやバットの素振りなどを、わたしたちが1塁側のベンチ付近でしていた時である。1塁側の応援席に座っていたT張さんが、にこにこ笑いながら一言。「昨日の夜、お父さんに今日のこと話したら、みんなが試合に勝ったら、うちの店の料理を全員にタダで食べさせてくれるって」

 「おおっ!」とわたしたちは、一瞬どよめく。けれども北朝鮮の農村部の貧民ではあるまいし、タダ飯にがぜん戦闘意欲が湧くというほどあさましいわけではなく、わたしたちはすぐ目の前にある「初めての試合」にこそ興奮していた。ただT張さんの一言は、わたしたちの昂揚した気分に心憎い彩りを添えたことは確かである。彼女のその台詞に、私は冴えた演出家のセンスを感じてしまった。

 いよいよ試合開始である。正直言って、私はほんの少しだけ緊張していて、守備の時には「自分の方にはあんまり球は飛んできてほしくないなあ。エラーしたらカッコ悪いし」と考えていた。しかし私の守備位置はショートであるがゆえに、打球の飛んでくる確立はかなり高い。じっさい最初の打球は三遊間に転がってきたのである。「ああっ。きちゃったよ」と私は焦ったが、瞬間的に「トモお願い」と三塁を守るトモ(伊藤智義)の方を見やった。するとトモは、文字通り「踊る」ようにステップを踏み、華麗に球を掬い上げると、軽やかに一塁へと送球し、瞬く間にアウトをひとつとってしまった。

 トモの動きは野球の動きのようには見えなかった。と言っても、けっして、滑稽というわけではなかった。ニャンコ先生の身のこなしに呆然とする風大左衛門のような心境になりつつも、私は「アメリカの野球の最先端部ではこのようなプレーが行われているのだろうな」と深く納得させられていた。すぐさま三塁手のところへ駆け寄ると「すごいじゃん。トモ」と心の底からの感謝の意を表した。グラウンドのあちこちからも「カッチョイイー」と声が上がる。私以外のメンバーも心もち緊張していたようで、嬌声を上げることで緊張感を振り払おうとしていた。

 「弱い犬ほどよく吠える」というやつで、わたしたちのグラウンドは、一時、総スピッツ化現象が生じ、なにかというと「ナイス・プレー。憎いよ。女殺し!」「四小の色男」「よおっ。カラー・マン!」と身内を野次っているんだか、励ましあっているんだか、わからないような状況となっていたのである。私も狂ったようにきゃんきゃん吠えていた。「なんというクレージーな連中だ」と相手チームは、情けない思いに駆られていたことと思う。

 試合の結果は、70対10(ぐらい)というとても野球の試合とは思えないスコアでわがキング・タイガースが勝利を収めた。妹と試合を観に来ていた母によると「野球になっていなかった」というのだが、まずは双方きちんと地道なトレーニングを積んでおくべきだったであろう。しかし「勝ちは勝ち」である。わたしたちは、勝利に酔いしれ、ハイになっていた。その途方もなく気持ちのいい状態を、もうしばらくの間、持続させそれに浸っていたかった。誰ともなくT張さんの「中華料理プレゼント」の話が、口の端に上るようになった。

 T張さんはその空気に押し出されるように、「家に電話かけて聞いてみる」と学校の外にある公衆電話へ。「あの話は、けっきょく、でまかせかあ」と男子たちの間では不満げな気分が広がる。他の女の子たちがいなくなった校庭に再びT張りさん登場。「ちょっと微妙。いいともわるいとも言えない状況みたい」と複雑な表情を浮かべてわたしたちに報告する。今思うと、時刻が夕方の4時くらいで夕刻の開店前の仕込みの一番忙しい時間帯だったはずである。そんなところへはまったく気の回らないわたしたちアホンダラガキたちは、なんとなくあきらめきれない。「ありゃあ。I神さんたち帰っちゃったあ」と図らずも紅一点となってしまって不安げなT張さんに、私たちは文句を言う。「T張、約束は守れよ」「おうおうおう。おれっちらはこの素晴らしい雰囲気を、あともうひと盛り上がりで完璧なものにしたいわけよ。このまましりつぼみで終ったら、クリープを入れないコーヒーみたいじゃねえか」

 わたしたちの勢いに押されて、T張さんは「もうちょっと頼んでみる。あたし先にお店の方に行ってるから。U野君、あたしんち知ってるでしょ。みんなを案内してあげて」と言って、わたしたちを残して、自転車をすっ飛ばして、自宅へと向かう。わたしたちはダラダラと各自の自転車に、バットやグローブを積み込んで、T張さんの家の店を知っているメンバーを先頭に、7,8人が群れをなして駄弁りながら、自転車をこぎ進む。昼の暑さと夕方の涼しさが交叉する時間帯に、ユニフォーム姿の仲間とつるんでいることは、私にはたいそう気持ちがよかった。T張さんちのお店を知らなかったので私には入ってみたい気持ちもあったが、そういう雰囲気の中に身を溶かし込ませているだけで私には十分楽しかった。

 メンバーの中の2人がT張さんの店で食事を経験していたようなのだが、店に行く途中、その2人の間で会話が始まる。「あいつんちの店で何がうまいと思う?おれはワンタンメンがいけると思うんだけどな」「おまえはワンタンメンかあ。おれはチャーハンがいいと思う。あとはそうだなあ……」と好き勝手な品評が取り交わされるのだが、そのうちに1人が調子づいて申し立てる。「あいつんちで一番うまいのは、料理と一緒に出される水だ」「ぎゃはははははは(一同爆笑)」「それじゃあ、もしだめだったら、水だけ飲んで帰るとするか」「ぎゃはははははは(一同さらに爆笑)」まったく、戸塚ヨットスクールにぶち込んで、根性を叩き直してやった方がいいような(わたしも含めて)アホガキどもであった。

 T張さんの店は「さくら通り」沿いにある店で、私もしょっちゅうその前を通っていた(中に入ったことはなかった)。わたしたちが到着した時には、店の前で、T張さんが1人ぽつねんと所在なさそうに待っていた。わたしたちが近づくと、はにかんだように笑いながら「お父さん、いいと言ってくれた」と言って、店の中に入る。わたしたちも彼女のあとに続いて「ご馳走になりまーす」とぞろぞろと入っていった。

 そのお店は、私の記憶では、カウンターが中心で、右方向の壁際にテーブルが3つほどある、こぢんまりとしてはいるが味のあるお店だった。わたしたちは、カウンター席にずらりと横並びに座った。T張さんと白い割烹着姿のT張さんのご両親がむかえてくれる。「試合に勝ってよかったねえ」とおばさん。「君たち勝っちゃったって。おじさん困っちゃったよ」とおじさん。T張さんとおばさんの2人が、わたしたちに「水」のはいったコップを並べてくれる。メンバーの1人が、受け狙いで、コップの「水」をぐいっと一飲みし「ここのお水は本当においしいですね」と涼しい顔で言う。わたしたちは、必死で笑いをこらえる。

 カウンター奥の調理場に立ったおじさんは、「それじゃあ、みんなおそろいで焼きそばということでいいかな」とさり気なく切り出す。穏やかな口調ではあったが「間違ってもフカヒレ食べたいなどと口にするなよ」という意志が秘められているようであった。もちろんメンバー全員それに異論はない。やがて全員の前に焼きそばを盛った皿が並べられがつがつと食べ始める。やはりプロの腕は違う。家で食べるものよりも数段は味が違う。みんな口々に「うまいうまい」と言って頬張る。人のいいお調子者のT沢が「おじさんの料理は田村魚菜よりもおいしいです」といけしゃあしゃあと、かつ朴訥に(たぶん本気でそう思っていた)と口にすると、そういうことに関しては誰よりも抜きん出ているU野がすかさず「大人をからかっちゃあいけないよ」とタイミングよく口を挟む。U野のその一言に一同爆笑。私も大受けしながら「フミ(U野の通称)って才能あるなあ」と感心することしきりであった。

 キング・タイガースの初めての試合の日のことは、試合そのものよりも、この中華料理店でのひとときのことのほうが強く記憶に残っている。私の左手奥にU野が、右手奥にT沢が座っていたことや、右奥の壁際にお母さんと並んで、照れくさそうな笑みを浮かべて、わたしたちのことを見守りながら立っていたT張さんのことを覚えている(私の中で記憶が加工修正されているのだろうが)。この光景は私の記憶の底に大切にしまわれている。安易な言い方をすれば「昭和の風景」ということになるのかもしれない。というよりは、むしろ、いささか不器用な言い回しになってしまうが、私は「三鷹の磁場による慈しみの庇護」というような表現を用いたい。「生まれ育った土地は、決定的な影響を人に及ぼす」とよく言われるが、最近つくづくとその言葉を実感するようになった。私は三鷹で生まれ育ったことを感謝したい。私は「性善説」を信じてしまうような人間であるが、それは「三鷹の磁場の磁力」のなせるわざなのだと思う。

 上に私が描いた光景に拒絶反応を覚える人がいるだろうことは想像できる。例えば運動神経に恵まれなかった子供時代を送った人がそれにあてはまる。80年代のシニシズムは、端的に言って、「運動音痴のひねた感覚」に由来していた(オリンピックやワールド・カップを通して発現されるナショナリズムに対抗しうるのもこのひねた感覚である)。「もみ上げを落とすテクノカットは病み上がりの病人の髪型だ」というYMO自身の発言がそれを証明している。私は「三鷹の磁場」によるワクチンがすでに体内に根づいていたので、80年代シニシズムの悪影響を被ることはなかった(逆に言うと「金がすべてではない」という「崇高さ」に通じる感覚が強すぎたため損をした部分も多々ある)。本当は右翼左翼問題と運動神経の有無の関係について触れたかったのだが、長くなるのでそれはやめておくとして、ひとつだけ次のことを書いておきたい。

 上で私が描いた光景はファシズム的なものを含んでいるが、法律による「愛国心」の規定のような馬鹿げたものをそれは無効にする。愛国心の法制化は、「右」だからとか「悪」だからとか言う以前に、馬鹿馬鹿しいがゆえに私は不快感を覚える。そこにあるのは人生の経験に対する侮蔑でしかない。生きられた体験を通してしか、人は心身を育んでいくことができないという当たり前のことが、政治家には見えていない。例えば福田和也は次のように言っている。

「でもその担当者とも話したんだけど、オレとか江藤さんとかが、何で日の丸・君が代法案なんかに反対とは云わないまでも、諸手を挙げて賛成できないのか、というのがわからない人が多いみたいなので、少し話させてもらうよ。
(略)
もちろんね、広島だかの校長先生がさ、卒業式を前にして国旗掲揚の可否をめぐって自殺したなんていう事件があると、法体系として国旗を法的に決めなければいけない、と云う理由はわかるよ、理屈はね。現場の苦労をどうするか、という意味ではさ。
でも、それはやっぱり、心底日の丸を愛している人間にとっては敗北なんだよ。日の丸に対する崇敬が、法律なんていうロクでもないものによって保証されてしまうということはね、とっても残念なことなんだ。
オレが日の丸を尊重しているのは、誰に強制されたからでもない、オレの発意だからだ、という張り切った気分に、この法律という近代的な手続きが、否応なく浸透してくるわけだ。これは、本当に鬱陶しいことだぜ」
   (『乃木坂血風録』)

 福田の意見に私は基本的に同意する。私は福田ほど右翼的ではないので、私には「敗北」という感覚はないけれども(体質的には右翼的な部分が左翼的な部分を上回っているという実感はあるのだが)。

 「愛」というものは、徹頭徹尾パーソナルな体験のはずである。それは制度の操作の対象にはなりえないものだし、むしろ制度を超えるもののはずである。昔の吉本隆明風にいうなら、「自己幻想(ないし対幻想)は共同幻想に逆立する」ということになろうか。ヘーゲルはこの分裂を「類」を媒介させることによって回避しようとした。ただし、ジジェクによれば、「われわれは、ヘーゲルこそ最初のポスト・マルクス主義者であるというテーゼを繰り返すことができる。彼は、後にマルクス主義者によって縫い合わされることになる裂け目の領域を最初に開いたのである」(『イデオロギーの崇高な対象』)。私は「統合」よりも「分裂」の方を選びたい。この選択は、いうまでもなく、愛の身振りである。

 長々と余計なことを書いてしまったが、かつてのキング・タイガースのメンバーからは「おまえはいつからそんなややこしいことを言う人間になってしまったのだ?」とツッコミを入れられそうだ。私だってそれなりに屈託に満ちた「思春期」という時期を通り過ぎたのだよ。少なからぬ人がそうであるように、私もまたその時期を無傷で通過することはなかった。思春期は魔の時間帯である。

 話を三鷹の話題に戻そう。キング・タイガースの試合の翌日の月曜日の朝、授業の始まる前に、わたしたちがいつものように何人かで駄弁っていると、それを見つけたT張さんがわたしたちのところへと駆け寄ってきて、「あたし、昨日の夜、お父さんに怒られちゃったあ」と絵に描いたようなオチがついたのである。

 「わが1972年グラフィティ(3)」へと続く。

(2006・7・12)
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