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  「『栄光なき天才たち』の原作者」

 青年コミック誌「ヤング・ジャンプ」において、1986年から『栄光なき天才たち』という作品の連載が始まった。文庫版第1巻の解説で佐々木守が書いているように、異例の注目を浴び、評価された作品である。

 私がこの作品を初めて読んだのは1987年の「ヤング・ジャンプ」誌上で、確か毒ガスの開発者についての話ではなかったかと思う。その時の印象は「ずいぶんと反時代的だな」というものであった。当時は何かにつけ「軽い」ことがもてはやされ、おしゃれな凡庸さといったものが、時代のモードだったからである。この作品の作者たちは、伊藤智義(原作)と森田信吾(漫画)の両氏である。

 このうちの原作者である伊藤智義氏(現在は千葉大学工学部教授)が、私の小学校の時のクラスメートである可能性が高いことに、最近気がついた。同姓同名の知り合いが確かにいたし、写真で見る伊藤氏のお顔も当時の小学生の顔を大人にすればこうなるだろうなというものである。けれども、在籍校も入学年度も同じで、なおかつ同姓同名で顔立ちまで同じでありながら、まったくの別人であるというスーパー・アンビリーバブルな可能性もなくはない。これから書かれる原稿は、伊藤智義氏が私の知っている伊藤少年であるという前提のもとに書かれる文章である。

 私と伊藤氏は、1972年の5月から9月まで、三鷹市立第四小学校の4年4組にて、クラスメートとして過ごした。「5月から」と変則的なのは、この年の4年生は、当初、3クラス編成として出発したのだが、途中で何かの事情で4クラス編成へと変更されたからである。また「9月まで」とされているのは、10月に父の仕事の都合で、私が栃木県の宇都宮市の小学校に転校するからである。よってきわめて短い期間であるのだが、この頃のことを思い出すと、きまって傍らには伊藤少年が存在しているのである(伊藤氏の方は私のことなど覚えてはいないかもしれないが)。

 4年次に私と伊藤氏は、初めてクラスメートになったが、それ以前はまったく別のクラスで過ごした。住んでいる地域も(地元にのみわかる言い方をすると)私は「むらさき橋」周辺であったし、伊藤氏は「たけのこ公園」周辺であったので、いっしょに遊んだりしたことはなかった。ただ彼は身長が学年で1番くらいに高かったので、その姿に見覚えはあった。同じクラスになって最初に印象に残ったのはやはりその背の高さである。1年から3年までは、私はクラスで1番背が高かったのであったが、4年になって2番手になったのである。伊藤氏は、少なく見積もって3センチは、私より背が高かった。背が高いといっても「ガキ大将」的に体が大きいというわけではなくて、飄々とひょろりとしているタイプなのである。そしてまた彼の顔の風貌なのであるが、なんというかボケ専門のコメディアンのようで不思議な雰囲気を持った少年であった。文庫版の第4巻のあとがきには、「将来の夢は天文学者になること」と氏自身が書かれているが、地面から足が少しだけ離れているような浮遊感があった。彼は仲間から「トモ」と呼ばれていて(名前の「智義」に由来する)、私もそう呼んでいた。

 私はもともと「人見知り」をする性質なので、最初のうちは伊藤氏と距離を置いていたと思う。ただ図工の時間で、図工室の4人がけの机に男女4人「名簿順」に座らされて隣同士になったこともあって、だんだんと彼と親しむようになった。お互い日本テレビの「笑点」ファンであることを知り、「小学生のくせに笑点かあ。侮れない奴」と男児特有のライバル関係をつくり始める。氏の人柄を知っている方はご存知と思うが、彼は天性のヒューモリストであった。小憎らしいほどにエグい駄洒落を連発し、そのセンスは他を抜きん出ていた。私は内心舌を巻き、彼の才能に憧れに近いものすら感じた。それほどまでに伊藤氏の駄洒落は私のツボにはまったのである。私たちの距離は一挙に縮まった。やがてヨタを飛ばしあうような関係になっていった。「笑点」の桂歌丸と三遊亭小円遊の関係を模倣しているかのようであった。だから、じつは、彼が『栄光なき天才たち』のようなシリアス・ドラマの作者であることがどうもピンとこないのである。「僕の尊敬している人は赤塚不二夫先生です」と涼しい顔をして言うようなイメージしか、私にはないのである。少年の頃の私であれば「そっちが赤塚不二夫でくるなら、こっちは山上たつひこで受けてたつぞ」と応じていたことだろう。「愛のずぇっとおぅ〜(Z)」とお気に入りのギャグを披露しながら。

 当時われわれ4年4組男子の間で流行っていたものはというと、日本各地で巻き起こっていた「ライダー・カード」集めがある一方で、TBSで放映されていた『ミュンヘンへの道』という実録バレーボール・ドラマに、運動好きの男子ほぼ全?員が胸を熱くしていて、「覚えておくがいいよ。一途に燃えた日々」(作詞阿久悠)と主題歌を合唱すらしていた。当時は日本各地でこの歌が歌われていると思っていたのだが、この番組のマイナーぶりからすると、われわれだけの間での限定的人気であったのかもしれない(この頃が昭和の最後の昂揚であったのかもしれない。「バブルはどうなのか」と言われそうだが、私の感覚では昭和49年で昭和は終っている)。『ミュンヘンへの道』とは、ミュンヘン・オリンピックで悲願の金メダル奪取を目指す全日本男子バレーボール・チームを描いたノンフィクションドラマである。実録フィルムとアニメーションのパートで成り立っているユニークな構成なのだが、『プロジェクトX』の先駆ともいえる。なぜこの番組を取り上げたのかというと、『ミュンヘンへの道』と『栄光なき天才たち』が血縁関係にあるように思えるからである。先に私は『栄光なき天才たち』を80年代において「反時代的」と書いたが、この作品と時代には関係なく同調しているものをあげるとすると、『敗れざるものたち』(沢木耕太郎)、「或る『小倉日記』伝」(松本清張)、そして『ミュンヘンへの道』ということになろうか。80年代的シニシズムに汚染される前の世界の空気を、伊藤氏の『栄光なき天才たち』は掬い取り、擁護していた。このドラマの登場人物たちに「栄光」はなかったかもしれないが、伊藤氏は彼らの敗北を貶めることには加担しなかった。

 ただ、氏が『ミュンヘンへの道』の主題歌を歌っていたかというと、私の記憶は定かではない。こういうことに対しては、照れてしまうようなところが彼にはあった。また、宇都宮に転校する前に自宅でちょっとした「お別れ会」が催され、その時に私は親しい友人たちに寄せ書きを書いてもらったのだが、実家に残されていたその色紙を見てみると、伊藤氏は「また会う日まで」という言葉の傍らに自らを称して「天才」と書き添えていた。私はまったく気がついていなかったが(単純一本やりの子供だったから)、氏にはそのような自意識がすでにそのころ芽生え始めていたのだろうか。氏と頭の良さをむすびつけてイメージしたことはほとんどなかった(だから、最近彼のその後の経歴を知った時も「あのトモが天下の東京大学出身とはねえ」と心底びっくりしてしまった)。当時の私の中の彼に対するイメージは、「頼りになる4番打者」というものだった。

 当時わたしたち4年4組の男子生徒たちは、「キングタイガース」というベタな名前の野球チームを結成していた。伊藤氏は4番バッターでサードというチームの主力選手だったのである。私は打順は覚えていないが、ショートを守っていた。だから私は、守備の時には、伊藤氏を右横手に見ることになった。わたしたち2人を称して「黄金の三遊間」と呼びたいところだが、私は完全に氏に頼りっぱなしだった。「こいつにまかせておけば、なんとかしてくれるだろう」と甘ったれの遊撃手だったのである。私は野球センスでは伊藤氏にはかなわなかったのだが、足の速さでは氏に勝っていた。学校で行われた「体力測定」で、私は学年トップの記録をはじき出していた。

 だいぶ原稿が長くなってきたので、いったんここで筆を止めさせて頂く。書いているうちに、あれこれ当時のことを思い出してきたので、「わが1972年グラフティ」というタイトルで、この続きを書こうと思う。

(2006・6・6)
*なお「伊藤智義研究室」のURLは以下のとおりです。
http://brains.te.chiba-u.jp/
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