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  「庇護と反逆」

 あるひとつの対立にこだわってみようと思う。一方の正当性を証明して、そちらに軍配を上げるということを目指しているからではない。「原理的な手続き」に寄り添うことによって、今一方の側にある「イメージのつまみ食い」の問題点が浮かび上がってくるのではないかと思うからだ。ここで取り上げるのは「ユルイ系」と「ハイテンション系」の対立図式である(繰り返して言うとどちらかの正当性を証明するものではない。ただしどちらかへの嗜好性については言及することもあるかとは思う)。

 ここでひとつの痛ましいエピソードに触れる。正確には記憶していないのだが、あるテレビ番組でスウェーデンの福祉政策について紹介していた。まだ二十歳そこそこの一人の青年がいた。彼は何かの事故によってほぼ全身麻痺のような状態を背負い込むことになった。彼のもとへ役所関係の人間がやって来て、彼に次のように語る。「スウェーデンは世界に名だたる福祉国家である。何も心配する必要はない。あなたのことは死ぬまで、我々が面倒を見る」その直後に青年は自殺した。

 なんとも痛ましいエピソードであるが、私はその青年の選択に共感するところがあった。彼の姿勢に「ただたんに生きる」のではなく、「よりよく生きる」という真摯な志を見るような思いがしたからだ。よく見かける「命が大事」とかいったそんなふうな言葉に、いつも私は違和感を覚える。水戸黄門の印籠が出てきて、そこで思考停止状態を強いられてしまう感覚を味わうからだ。「だらだら生きる」ことと「真剣に生きる」ことでは、かなり差があるかとも思う。

 まあこれは好みの問題だから、あまり目くじらを立てることはしないが、安易に「命」と口にする人間が「今の政治家は保身に走ってばかりいて信念というものがない」という発言をしたりするのを聞くと、「おいおい」と思ってしまう。いかにもそれっぽく聞こえて、その発言者の良心を垣間見るような気にもさせられるが、結局のところはこの発言者は真剣に深く考えているわけではなくて、通りのいい言葉をパッチワークしているだけではないか。これはイメージのつまみ食いではないだろうか。先に記した「ユルイ系」と「ハイテンション系」の図式を持ち込むとすると、(これはあくまでもたんなる比喩であるが)福祉社会というのは「ユルイ=冷たい社会」で自由経済型社会というのは「ハイテンション=熱い社会」ではないだろうか。後者の方が生きることのクオリティーはブラッシュ・アップされるような気がする(あくまでも「気がする」という表現にとどめておくが)。少なくとも「商品」のクオリティーは後者の方が高いであろう。

 そういえば80年代に、文化人類学者の山口昌男が「狩猟民族」は「農耕民族」に比べてハイテンションでこちらの方が資本主義経済社会に向いていると発言していて、多くのサブカルチャー関係者の賛同を得ていた。つい最近同じ発言をライブドアの堀江貴文がしていたが、こちらの方は不評だった。これってどういうこと?

 イメージ的には流通するが原理的にはおかしいもののひとつに「日本は多神教的だから一神教に比べて素晴らしい」と言いつつ「日本語には主語がない。責任を担う主体が見当たらない」という否定的言辞をも、別々の機会ではもちろんあるが、口にしてみせる発言者の言説である。日本に主体が成立しないのは、まさにユルイ多神教的風土に原因があるのは、「イメージのつまみ食い」を自らに禁じる真摯な思考の持ち主であればわかりきったことではないか。抑圧とそれに対する抵抗を通して主体というものが形成されることは精神分析学の常識である。まさに一神教的な風土において、主体は成立するのである。

 また幾分か上記のことと通じるものがあるのだが、「政治家は普段着の言葉を語らない」とか「学者言葉は抽象的でよくない」とか(まったく間違いというわけではないが)いかにもそれっぽくて俗耳に入りやすい言い草がある。おそらくこの類の発言をする人間は、抽象的な言葉の根底にあるもの(こと)には無感覚である。フロイトは次のように言っている。「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくことになり、それによって、内的事象そのものが、しだいに知覚されるようになったのである」この一節を引いた後、柄谷行人は『日本近代文学の起源』においてこう述べている。

フロイト流にいえば、政治小説または自由民権運動にふりむけられていたリビドーがその対象をうしなって内向したとき、「内面」や「風景」が出現したといってもよい。

 また柄谷は岩井克人との対談で、「内面」というものを「差異の内面化」と呼んでいるが、切れば血の出る抽象言語には、俗説が誤解するのとは全く逆に、生々しい出来事性(歴史性)が刻まれている。近代文学の根底にはこうした政治的起源があるのであり、近代文学が成立する「明治」の作家北村透谷、西田幾多郎、『こころ』(夏目漱石)のK、そしてまた『万延元年のフットボール』(大江健三郎)の蜜三郎の曾祖父の弟のような反逆者たちの系譜を追いながら、柄谷は別のところで次のように述べている。「たとえば、キリスト教に向かった北村透谷や、禅に向かった西田幾多郎をみればよい。彼らはそれぞれ政治的な闘いに敗れたあと、急速に整備されるブルジョア国家の体制に対して、「内面」に立てこもった。つまり、「明治維新」の可能性が閉ざされたあとで、世俗的なもの一切に対立しようとしたのだ。しかも、彼らは世俗的=自然的なものに敗れざるをえなかった。透谷は自殺し、西田幾多郎は屈辱をしのんで帝大の選科に入ったのである。Kもまたそのようなタイプであったといえる」

 言い換えると彼らは日本的な自然の「なあなあ主義」に対立するいわば「天」の感覚のようなものを保持していた。それが彼らの彼ら特有の「風景」に対する忠誠だったのである。丸山真男が「忠誠と反逆」で示したように、この忠誠は別の側面では(徳川時代のキリスト教のように)反逆として現象する。ここにも「主体」というものがある。そしてそこには必ずハイテンションな強度というものがある。ところで「世俗的」という言葉に引き摺られて、つい「天」という言葉を書いてしまったが、今の私はそれよりも「最良」という世俗的な言葉を選びたい。「天」や「超越」や「極限」のような語彙では、それこそ世俗的な雰囲気の中ではパロディーにしかならないだろうから。よく「自分のできる範囲で頑張る」という言葉を耳にすることがあるが、あれは努力をせずにできることという意味のような気がする。それに対して「最良」は努力をして手の届く範囲という意味なのであるが、こうした積み重ねを続けることのうちに改革というものは実現するのではないか。「自然体」といういかにも耳に心地好く響く言葉を発していても、あまり可能性はないように思う。

 ところで、話題をがらりと変えるが、いつの時代にも「癒し」の言説というものがある。若者の間に不安と自信のなさが広まっている。こういう時はカリスマ的な権力者への潜在的な欲求が醸成されやすい。威勢のいい言葉には気をつけろ、云々。弱さをこじらせてしまうよりは、頑張らないほうがいい、云々。こうした言葉を否定するつもりはない。ヒーリングは必要であることには同意する。ただし言っておきたいことは、「癒し」関係者がイメージするがごとく権力は上からだけくるのではなく、「庇護」というスタイルを通して「権力は下からもやってくる」ことがあるということである。今はそれ以上のことは言わない。

 先に述べた固有の風景への忠誠=制度的な風景への反逆は、マニュアルの類を通して習得されるものではなく、マニュアルとは対立する「遭遇」を通して習得されるものである。そこでは各自が単独者としてふるまうしかない。そして「遭遇」とは「イメージ」の風土とは対立するものであり、広告の言葉的なわかりやすさとは異なる性格のものである。制度の外にあるものを、どうやって制度の言葉に翻訳できようか。広告業者的な人間はこのことがまるでわかっていない。

 最後にひとことだけ。私は「わかりやすくても拙劣な政治」は望んでいない。わかりやすいにこしたことはないが、「いい政治」であるならば、避けられない「わかりにくさ」は容認する。たんなる甘えから「わかりやすくしろ」とゴネるばかりでなく、『神聖喜劇』の東堂太郎のように、政治家以上の理解力を武器とし、政治家に鋭いツッコミ(批評)を入れるような大衆が登場することを、ひそかに期待する。

(2005・9・24)
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