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　「『セルフ・ヘルプ』を巡って」

　明治以降、とりわけ戦後以降の社会における書籍刊行物の中で、おそらくはほぼコンスタントに出版市場に出回っているもののひとつに「ハウ・ツーもの」がある。

　明治以前の社会にもこれに類するものはあったのだろう。けれどもそれは「職業選択の自由」なる言葉など存在し得なかった確固とした身分制の中において、代々受け継がれてゆく技能や技術を扱ったものであっただろう（例えば家具職人の技術の伝授や武士で言えば『葉隠』など）。

　これに対して所謂「ハウ・ツーもの」は身分制階級社会が解体した後に見出された「職業選択の自由」を手にした何にでもなれる個人＝何者でもない個人＝何になっていいのか判らない個人に向けられた（平等であるべき）万人のための書物である。
　反動的教養主義（反実利主義）志向の強い私はこの手の本にはあまり関心を持つことは少ないのだが、ハウ・ツー本に関わる忘れ難いエピソードがある。

　それは20年ほど前の頃の話である。当時私は総武線沿線にある大学に籍を置く学生だったのだが、同じ大学の友人の1人にS井という男がいた。新潟県出身の朴訥な人間で、大学卒業後に地元の公立中学校の教員になった。その彼が下宿していた新小岩のアパートに遊びに行った時のことである。大学4年に上がる直前の春休みで、それまで下宿していた相当なぼろアパート（今では存在しないような共同便所スタイルで、部屋の扉が横開き、鍵は南京錠という代物であった）から、えらくグレードアップしたアパート（当然風呂トイレつき、申し訳程度であったがベランダまでついていた）に移ったことを祝っての集まりであった。

　実家から送ってきて大事にキープしておいたというスモーク・サーモン（ビンボー学生の口に入るものではなかった）を振舞ってもらったり、アルバイト代を貯めて買ったというオーディオ・セットで沢田研二のベスト・アルバムを聴かされたり（「男らしい」という理由でS井は沢田研二のことを尊敬していた。ジュリーファンの男に私ははじめて会った）していたのだが、私はS井の本棚にふと重大な発見をしてしまったのだった。そこには今はなき雑誌『ホットドッグ・プレス』（講談社）の「How to Sex」を特集したナンバーがずらりと並んでいたのである（たしか10冊ぐらいはあったと思う）。

　私は絶句してしまった。1，2冊ぐらいなら笑い話になるものの、全巻まるまる揃えることはないだろうとあっけにとられていた。S井がそんなものを買っているというよりは、買わされていることに私は腹が立ってきた。と同時に何だか切なくなってしまった。

　当時は童貞差別がかなり露骨に行われていて、その風潮に煽られたおっちょこちょいが川崎あたりのソープで筆おろしをし、そのまま黙ってりゃいいものを、「笑っていいとも」の素人参加コーナーに出てきて「捨てたぜ童貞」とマッチのヒット曲の歌詞を変えて歌ってしまうという、目を覆いたくなるような光景がまかり通っていたのである。そういうテレビ文化の犠牲者のことを思い出したり、S井の前のアパートに終電がなくなって泊めてもらったおりに、たったひとつだけ残っていたレトルトの豚汁を食べさせてもらったことを思い出したりするうちに、私は何だか切なくなってしまった。あんまりしみじみしてしまったがゆえに、ほんとにあともう1歩のところで、私はS井に対して次のように語りかけてしまうところだったのである。

　「なあ、S井よ。オレといっしょに夕陽に向かって『バカヤロー』って叫ばないか」

　もちろんその時はそんなことは言いはしなかったが、別の機会に私は夕陽に向かってではなく、S井本人に対して「バカヤロー」と叫んでしまったのである。それはS井が別の日に次のような心情を吐露した時のことである。S井いわく。

　「オレさあ。アメリカのヤッピーみたいになって、青山のハウスマヌカンとステディになりたいんだ」

　S井のそのようなあまりにも80年代的な言葉を聞いて私はぷっつんしてしまった。

　「バカヤロー。オレはがっかりしたよ。まさかおまえの口からそんな言葉を聞かされるなんて思ってもみなかったぜ。（ガラガラガラと部屋の窓を開ける）S井！あの夕陽が見えるか。あの搾りたてのオレンジみたいな夕陽に対して恥ずかしいとは思わないのか。ちくしょうめ。オレは悔しいぜ。情けないぜ。ええい、もうこうなったら『夕焼け番長』のテーマソングを歌ってやるう」

　こんなふうに書くとなんだか私が異常人格者のように見えてしまうが、私はいたって穏健で常識的な人間である。常識的なことしか言えないのが、自分の弱点だとすら思っている。

　ところで随分と長い前振りになってしまったが、学生時代のこの話を思い出したのは、つい最近『セルフ・ヘルプ』（ローリー・ムーア）という本を読んだからである。この本は、世界（特に先進国）の文化状況がこぞってマニュアル化、カタログ化していった80年代に、まさに「ハウ・ツーもの」をパスティーシュ（この方法自体が80年代的な試みではある）して書かれたムーアの処女短篇集である。今読んでみてもそれなりに面白いし、少し前にバラエティー番組を席巻していた女性ピン芸人ブームや、それとパラレルなものとしてあるのであろう「負け犬」の話題と重なる部分が多いのではないかとも感じたりした。「満たすこと」という作品は、精神病院に入院中の母親を持つ女主人公が絶えず付き纏う「満たされなさ」の果てに事件を起こし、母親と同じ病院に入院するというブラック・ヒューモア的でもあり、かなりヘヴィーともいえる話である。それが重苦しくならず、都会的なヒューモラスな感覚で語られる背景には、おそらくテレビ的な感性が控えている。

　ところで先に登場した「ホットドッグ・プレス」の「How to Sex」であるが、これにはじつは前身があり、それは1971年5月に出版された奈良林祥の『HOW TO SEX』（「ホットドッグ・プレス」版のはこれの二番煎じだったのである）であり、さらにこれの元ネタとして1960年の6月に登場した『性生活の知恵』がある（こうしたマニュアル文化ブームを描いた筒井康隆の短編小説があって、悪ノリした男性ファッション雑誌の編集者が「イケてる男は自分の肛門にタンポンを入れている」という記事を書いたら、それを実行した読者が出現したという件があって大笑いしたことがあった）。評論家の上野昂志は戦後のこうしたハウ・ツーものの隆盛（他にも『記憶術』や『英語に強くなる本』などがある）を指して、「生活そのものが、具体的な技術の問題として浮上してきたのである」と書いている。

　さらに私なりに言葉を付け加えておくと、自分自身および自分の人生が操作の対象となりうるような社会的環境が整ったのである。近代社会の出現である。かつて近代の個人主義を貨幣の社会への浸透ぶりと結びつけて考察した社会学的見解があった。貨幣それ自体は無色透明で中立的な媒体である。それは極めて抽象的な存在だと言っていい。しかしそれは、食品であろうが、土地であろうが、お望みなら何でも欲しい商品と交換することのできる万能物である。このような貨幣の特殊な性質が認知されて、望むもの何にでもなりうる個人主義の担い手たる近代的自我（無色透明な抽象的な個人）が成立したというのである。近代以前の社会では個人は何にでもなれるわけではなかった。貴族の子は貴族に、農民の子は農民になるしかなかった。しかし貨幣＝個人という図式が成立して、そのような身分制度は解体する。と同時に農村的共同体の解体＝市場社会の発展が同時進行する。中世社会に比べればはるかに自由だが、そのぶん不安の付き纏う社会であり、その不安は各自の能力によって克服してゆくしかない。

　所謂「小さな政府」は民間（近代的個人）の能力によってこの自由＝不安を享受＝克服することを目指す社会であり、「大きな政府」は中世的な体制によって不自由＝安定を容認＝維持することを目指す社会と言える。

　だから、私は「大きな政府」派が「民主主義」というような近代的な言葉を用いて自分たちを正当化することに違和感を覚える。反近代主義イデオローグをブレーンに据えて、「近代よりも中世の方がワンダフルだ」というようなレトリックを展開する方が説得力があると思う。「道路公団における談合はワーク・シェアリングだ」と言った経団連会長奥田碩の卓越したレトリック能力を見習うべきだろう。亀井＝綿貫は近代（自由）主義者小泉＝竹中に対抗するにはこれしか論法がないように思う。私はどちらかというと近代派だが、人文学的知見では「近代は反近代を内包する」というのは常識であるので、亀井＝綿貫には都市部の近代人をも魅了するような反近代を標榜する華麗なる虚構（強度に満ち満ちた大嘘）をでっち上げてもらいたい。先の奥田碩の言葉は嘘ではなく世界の条件を見据えた上での真実であるが（フェアな競争では格差が生じてしまうので、「みそっかすルール」は必要だ）、べつだん真実でなくともいいから、亀井＝綿貫には不可避的なアンフェアを擁護する極上のメロドラマ的（あるいは喜劇的でもよい）パフォーマンス＝レトリックを期待したい（よくありがちな涙の会見みたいなものはNG。ああいうことをやる人間は実務能力がなさそうに見えてしまう）。

　『セルフ・ヘルプ』に話を戻すと、この作品が書かれた80年代のアメリカはレーガン政権時であり、有名な「レーガノミックス」は「小さな政府」を目指した政策であった（ただし軍事費は増大）。私は「小さな政府」という言葉をこの時知った。すべてを時代に還元するつもりはないけれども、やはり時代の気分は作品に反映されるものである。「セルフ・ヘルプ」というタイトルの言葉（ただし収められている作品の中にはこういうタイトルのものはない）は、ごく一般的なアメリカ人の価値観に過ぎないにせよ、なかなか意味深である。当時のアメリカは深刻な財政赤字を抱えており、そこから「小さな政府」という発想も生れたわけであり、だから「セルフ・ヘルプ」というのは一種の政策遂行ともいえる。日本における改革派の「自己責任論」はこれにあたる。もちろん権力批判としての「セルフ・ヘルプ」もある。千利休周辺の商人たちの経済行為は権力への対抗というモティーフがあった。これとは逆の場合もあり、貿易摩擦における関税の引き上げや、テレビ局などの免許制度による保護などがこれにあたる。

　ともあれ、「セルフ・ヘルプ」には、意志と能力といったものが不可欠であり、残酷な面もある。現に80年代のアメリカは、自由（フェアな条件での）競争によって、貧富の差が拡大し、その不満は92年のロス暴動で爆発した。

　では「大きな政府」による「ヘルプ（救済）」はどうなのか。「郵政民営化」よりは大事とされる年金や社会保障などの「福祉」がそれにあたる。私も福祉は大事だと思うのだが、この問題が語られる時の「福祉＝絶対善」という前提がいつも気になっている。幸福な生の配分を通しての管理の遂行という面があまりに忘れ去られすぎているように感じる。もともと福祉政策というのは戦時の「総力戦体制」を支えるものとして出てきたものである。一生の保障はするから国家のために戦え、と。だからといって私は「福祉」を否定するつもりはないが、「福祉」のそういう側面にも注意は払っておいたほうがいいと思うのだ。

＜附録＞
　当初の予定と違って思いもかけず「政治」の話題に触れることになったので、日頃漠然と感じている何人かの政治家の印象について書いてみたい。尚個々の政治家の政策（郵政法案への賛成、反対など）とはまったく関わりがない。

　① 渡辺喜美（自民党）
庶民と同じ目線で」というのは政治家の常套句であるが、「お茶の間」媚売り作戦というのも不快になることが多々あるものだ。新人議員と呼ばれていた頃の渡辺はテレビなどで「今は二世議員が多いですが、ニセイモノは当選しません（選挙に当選した自分は贋物ではない）」とよく発言し、私の言語感覚を逆撫でしてくれた。顔も声も父親の渡辺美智雄そっくりで、ここまで滑稽感にまみれたなら、正統派志向はムリだとふんだのかもしれないが、こうした「反知性」戦略は渡辺美智雄一人で終わりにしてほしかった。栃木県はここまで泥臭くはない（私は小学生の頃1年半ほど宇都宮市で生活していたことがある）。

　② 鳩山邦夫（自民党）
　渡辺の場合は装われたセンスの悪さであろうが、鳩山は根っからのセンスの悪さで、そのひどさは突出していると思う。民主党所属の頃東京都知事選（1999年、石原慎太郎が当選）に出馬した際、「東京ロマン革命」とか「都庁の行政を透明化する、名づけて『摩周湖作戦』（摩周湖は日本で一番水の透明度が高い）です」とか発言し続け、「この人、広告代理店の社員だったらとっくに首を切られているだろうな」と思ったものだった。意味不明に巨大なクマのぬいぐるみを抱えてテレビカメラに映ったこともあった。家庭教師の教え子に手をつけて結婚するハメになったという話もセンスの悪いエピソードであろう。プロレスラーの大仁田厚を参議院選に引っ張り出してきたのもこの議員である。なぜこうも執拗に自らのセンスの悪さを宣伝して廻るのであろうか。見るからに鈍感そうでとてもそうは見えないのだが、無意識の領域に「自殺願望」でも隠し持っているのだろうか。唯一の合理的解釈は、安部晋三の引き立て役を買って出ているというものだ。してみると安部は鳩山にどれほどの額の袖の下を渡しているのだろうか。

　③ 冬柴鉄三（公明党）
　稀に見る「悪代官顔」である。現在の時代劇で、冬柴の顔に対抗できるほどの悪人顔を持った俳優は存在するだろうか。特に冬柴の笑った時の迫力といったら凄みがありすぎるというしかない。本人は「やっぱり政治家はプリティ・スマイルが命」と思っているのだろうが、その意に反して、幼な子の無垢な笑顔と真逆なものになってしまっている。参議院での「郵政法案」の決議前に「民主党と組む可能性もある」と発言した時は、悪代官の面目躍如であった。
　冬柴の顔を見て私が思い出し、そしてまた冬柴の顔に唯一対抗できると思われるのは、1978年の日本映画『曽根崎心中』の九平次役の橋本功である。この映画での橋本の演技は神がかり的であった。主人公徳兵衛（宇崎竜童）の敵役なのだが、それはもうこれほどのいやらしさはあるだろうかと思われるものなのである。ドストエフスキー作品によく登場する卑劣漢を思わせるほどである。映画の画面で橋本の鬼のような卑劣漢ぶりを見る度に、私ははらわたが煮えくり返りまくり、憤死しそうであった。映画を見てそのような体験をしたのは、後にも先にもこの時だけである。この体験があまりに強烈だったので、テレビのニュース映像などで冬柴の顔が映る度に「ええい、悪代官め。たたっ斬ってやる」と条件反射してしまう。
　（『曽根崎心中』のヒロインお初は梶芽衣子ですばらしくカッコよかった。私はこの映画で梶芽衣子という女優を発見した。梶のカッコよさが橋本のいやらしさと拮抗し、この2人がこの作品を引っ張っていた。）

　④荒井広幸（自民党）
饒舌な小物感が鈴木宗男を髣髴とさせる。鈴木と野中広務とのべったりした関係が、荒井と亀井静香との関係と重なり合って見える（派閥会長辞任を表明した亀井は2年前の自民党総裁選の時に国会議員引退を表明した野中のことを思い出させた）。ここぞという時にクールに決めれば共感を呼ぶところで、いちばんやってはいけない泣き顔を見せてしまうところも宗男的である。そういえばこの前の荒井の選挙の時は、応援に駆けつけた亀井が聴衆の前で土下座をして投票を頼む場面があった。彼らでは国外問題（特に対先進国）はダメだと思わせてしまう（ただしムネオハウスに見られるようにODAの絡んだ対後進国問題では妙な活躍ぶりを発揮したりする。国内の公共事業に絡む汚職の技術を海外で応用するという発想が凄い）。

　今回の選挙では荒井や亀井には、浪花節戦法は少し控えてほしい。まさかとは思うが、特に亀井には戦法として涙を見せるようなことはしてほしくない。それよりもむしろ広島に泉元彌の母親を選挙の応援に呼んで、選挙カーの上で２人並んで漫才をするぐらいのことはやってもらいたいもんだ（ティーンエイジャーのハートをギュッとつかむことはまちがいない）。

　岐阜の野田聖子のところへは（敵対関係にあるのかもしれないが）猪瀬直樹が応援に行くといいと思う。この2人の横広がりの顔面が、私にはどうもダブって見えるのだ。

（２００５・８・１６）

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