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  「意味するものと意味されるもの」

 株式市場におけるライブドアとフジテレビの間で繰り広げられているバトルが異様な展開に発展しつつある(あるいはソフトバンクにとっては予想外の早さでの思惑の到来であろうか)。メディアでは様々な言葉が飛び交っているが、この事態を明確に言い当てていたのは、私の知るかぎり、宮崎哲弥ただ1人である。宮崎は次のように簡潔に述べている。「中途半端なホンネ主義の保守派は、もっと突き抜けた、ラディカルなホンネ主義の挑戦を受けている!」(『論座』2005年4月号)

 堀江貴文が行っているのはマネーゲームだ(それは誰の目にもあきらかなことである)という言われ方がなされていて、堀江1人がそのゲームのゲーマーであるかと思わされてしまうが、市場の参加者でそのゲームを免れる者など1人もいはしない。堀江が反感を買ってしまうのはゲーマーとしてのあり方が、いささか変な比喩になってしまうが、相撲の朝青龍と似ているところがあるからであろう(いかにも未熟で粗雑なのだ。その点においては洗練されたゲーマーであるフジテレビに比べて一段も二段も劣っている)。昨年死去した日本マクドナルド社長だった藤田田なども「勝てば官軍」が座右の銘だと言いまくっていたものである(ソフトバンクの孫正義は高校時代藤田のことを崇拝しており、強引に面会した折に「これからの時代はコンピューターだ」と藤田からアドヴァイスを受けたという。ソフトバンクが語の本来の意味での「白馬の騎士」であるかどうかはかなり怪しい。そもそも「騎士」と「商売人」ではまるで志向性が異なっている。日本語には「士族の商法」という言葉もあるが、これは「士族(騎士)が会社経営に携わると会社を潰す」という逆の意味の言葉である。まあ「ソフトバンク=白馬の騎士」説はフジテレビ自身が警戒していることだろう。「勝てば官軍」という言葉についての記述を「付録其壱」として文末に置く)。

 とてつもなく卓越したゲーマーであったからこそフジテレビは優良企業と目される地位を確保したのであった。その戦略は「楽しくなければテレビではない」という路線であり、この周辺から渡辺和博の『金魂巻』も出てきた(渡辺は「笑っていいとも」の出演者だった)。「丸金」「丸ビ」は第1回流行語大賞受賞であったが、堀江貴文という人間は『金魂巻』の正統的直系であり、無自覚のうちに恥じることなきダーウィニズムを継承してしまっている(「金で買えないものはない」!)。先にあげた宮崎哲弥がフジとライブドアのバトルを異質のもの同士の戦いではなく、同質のもの同士の戦いと見做していることは、だから、妥当な認識なのである。

 ところで今回の騒動で思わぬ儲け物であると思われるのは、「公正」という言葉の時ならぬ復活ぶりである。「公正など裏山の犬にでも喰われろ」という世界にやはり存在してしまう卑しい欲望が一時的には抑制されそうな気配なのである。この傾向を風化させぬためにも、メディアには公正への欲望を持続させるべく努力し続けてもらいたいと心から願ってやまない。

 「公正さ」というのは実現するのが本当に困難なものなのである。それは先験的な自然の所与としてあるものではいささかもない。むしろ不公正であることが自然の条件であると言ったほうがよく、だから公正さを目指すことは、あたりにはびこっている偽の公正さに対して「これは公正ではない。これも公正ではない」と不断に続く「ないないづくし」を持続するという、徒労感を伴わずにはいられない(所謂ひとつの)否定神学的実践(カント的リゴリズム!)の過程の果てにかろうじて存する(かもしれない)ものなのである。「公正」という言葉を無邪気に口にする人間には、「公正であることの困難さ=不可能性」に対する畏れが欠けている。「公正さ」が自然(自明なもの)としてあるのではないということは、言い換えれば、システムの外もしくはシステムの亀裂を体験することのうちに「倫理」の萌芽があるということである。例えば日本と北朝鮮と韓国と中国の間で公正さを樹立することの困難さを考えてみればよい。北朝鮮一国のシステム内の公正さとはいったいなんであろうか。北朝鮮において「正義」を「意味するもの」は、はたして日本において「正義」と「意味されるもの」とぴたりと重なり合うことがあるのだろうか(最終的には「国益」という言葉を用いて「公正であることの困難さ=不可能性」から目を逸らすであろう。「これが公正だ」とみんなで錯覚し合い、錯覚していることすらも忘れることのうちに「公正」と思われるものがなし崩し的に到来するのであろう。我々にできるのは、過酷な覚醒を放棄し眠り込む地点のレベルをできるだけ高いところに設定しておくことぐらいだろう)。複数の力のせめぎ合いを通して「倫理」が垣間見られる。ひとつのシステム内で思考することはモノローグに陥る危険性が高く、過酷なことではあるが複数の力による検証、すなわち心身的には傷を負わずにはいられない体験と倫理は結びついているのである。倫理と外傷(トラウマ)の関係については精神科医の斉藤環が、私などよりもはるかに精緻に正確に語ってくれるだろう。

 精神分析学のことが出てきたので、「意味するもの」と「意味されるもの」の間のずれについて若干付け加えておこう。よく知られるように精神分析学には「意識」や「無意識」という用語が登場する。大雑把に言うと「意識」は言語に関わるものであり、「無意識」は非言語的なものに関わるものである。つまり意識は「意味するもの」に対応し、無意識は「意味されるもの」に対応している。無意識は言語化(表象化)しえないものであるがゆえに、言説化(透明化)されることはない。我々は、通常、表象空間における言説を「真理」と見做してしまいがちなのであるが、実際は「意味するもの」と「意味されるもの」との間のずれを隠蔽した上で成り立つ「非真理」に近いものなのである(だからと言ってどこかに「真理」が存在するわけでもない)。言説はとりあえずの虚構であり、暴力を含むものであると言っていい。これは致し方のないことであり、我々はこの条件を引き受けてやっていくしかない。こういう言語の条件を考えただけでも「公正さ」というものがいかに困難であるかがわかるであろう。我々は我々自身のこと(我々自身の無意識)すら正確にはとらえることができないのである。「私の欲望を読んでごらんなさい」というラカンの挑発的な言葉を踏まえた上で、ラカニストである斉藤環には「公正さ」の問題を本格的に論じてもらいたい(と私は密かに思っている)。視聴率やスポンサーなどの問題もあって、現在のマスメデイアではここまで射程に入れて「公正さ」の問題を扱うことは、残念ながらおそらく望むことはできないだろうから。もしかしたらNHK教育テレビあたりでやってくれるかもしれない(NHKにまつわる記述を「付録其弐」として文末に置く)。

 ゲームとして現象せざるを得ない言説空間にはどうしても私は違和感を覚えずにはいられないのだが(しかしこれが生の条件である)、群集の声である「世論」というものについて触れてみよう。一般的には世論=真理の声という構図が無自覚のうちに広く共有されているようなのだが、このような思い込みに私は以前から違和感を覚えていた。私の考えでは「世論」というのは(ハイデガーの用語を用いると)「真理の声」と「空談(無償のおしゃべり)」の間に広がって漠然と揺れ動いている言語領域のことである。この帯状に広がる言葉の集積は、常にゆらゆらと波動しているものであるがゆえ、昨日と明日ではがらりとその様相を変えてしまうものなのである。私はそのような有様をそれでいいと肯定したいと思う。私自身は「真理の声」志向の強い人間だが、この志向が突き詰められた果てにはスターリニズム的なリゴリスティックな空間が現れるがゆえに、「空談」のいかがわしさによって暴力的な透明性が不透明化することは、むしろ健全なことなのではないかと思っている(むろん「自堕落さ」の温床にもなりうる。世界が「空談」一色で満たされたならそうした事態には耐えられないので、その場合はその空間を叩き潰す側に加担するであろう)。そうした相対主義的な世界では、逆に言うと、絶対的な善の普遍性は断念されている。そのようなものに対する希求は、公共空間というよりは市場空間では抑圧されざるを得ない。強いて言えば、売れた商品が善、テレビ的には視聴率の高い番組が善であると見做されることになる(「絶対的な善」と思われるものはもしかしたら「独り善がり」の可能性もあるかもしれないのである)。複数の声の真の多様性が保持される空間を想定しようとするなら、その空間はあちらこちらに罅割れが生じているものであり、一元的な透明な空間など成立しようがない。仮に一人の人間の声が世界の隅々まで浸透しうるとするなら、その声の持ち主は金正日のような存在であろう。

 議会や裁判所のような公共的な言説空間は神聖なる真理が保証されている場所という以前に、多くの不自由や葛藤を隠蔽した上で、より少ない不自由を目指すしかない、云わば断念を確認しあう場所という性格を色濃く持っているのである。大岡越前の「三方一両損」のような良質の妥協を良しとするしかない不自由な(しかしこの不自由は倫理的なものであろう。なぜなら他者の自由を考慮に入れているのだから)空間なのである。けれども「三方一両損」というのはあくまでも「理想型」であって、実際のところはAが一両の損、Bが二両の損、Cが三両の得というのが実情ではなかろうか。この背景には当然階級的なものや自由主義経済的なものが控えている。「三方一両損」というのは、(理想)社会主義的発想であるのかもしれない。

 よく「今国会では国民の声が反映されていない」という言葉を耳にすることがあるが、代表制議会というものは、もともと構造的に個々の国民の声が反映されないようになっているものなのである。1人の代表者が数十万から数百万の票を集めて選挙に当選した場合、数百万人分の声がたった1人の口を通して発せられるなど物理的に不可能である。議会制度とは自分が良しとする人物に下駄を預ける制度であり、下駄を預けた以上は自分の声が黙殺される可能性もありうることを認めなければならない制度なのである。けれども他者(代議士)に移譲した声は、実際上、もはや自分のものではないが、議会の外にある世論としての個々の声を上げる権利は我々自身の手の中にある。好きな時に好きなことを言う行為は禁じられてはいない(自堕落なアナーキズムに陥る危険性はもちろんあるが)。

 それからまた「代表するもの」と「代表されるもの」の関係の恣意性という問題もある。この問題を極めて鋭利に分析した著作に『ブリュメール十八日』(マルクス)がある。そうとう杜撰に言ってしまうと、1848年のフランス議会の選挙において、「代表するもの」と「代表されるもの」が分離されているがゆえに、かつ恣意的であるがゆえに、産業ブルジョアジーもその他の階級ももともとの「代表するもの」を見捨て、また分割農民たちは自らを「代表するもの」を持たないがゆえに、ボナパルトが選ばれるという奇怪な事態が起こることになる。

 公共空間と声(欲望)の関係とは、本来的に不自由極まりないものであり、透明な言説は不透明な多様性を抹殺した上に成り立ついかがわしさを抱え込まざるを得ない。けれどもこの不自由さを前提とした上で公共空間における言説交換はなされるほかはない。このゲームにおいて勝利したければゲームの規則に習熟し腕を磨くしかない。「みなさん、学習しないと狡賢い人たちに騙されますよ」という堀江貴文の言葉はそういう意味であり、だから彼は法廷闘争における勝利を手に入れることができた。一方のフジテレビもルール許容範囲内での裏技を繰り出し応戦している。彼らのバトルは一種のショーとして視聴者を楽しませてくれており、視聴者の経済的(というよりは商法的)知性のトレーニングにも役立ってくれている。汚さや狡賢さに呆れ返ることもあるが、それらもまた人間の属性である。「人間は心だ」「ソフトは優しい心がつくるものだ」という思わず目をそむけたくなるような薄っぺらな言葉を発するだけでなく、「ソフトは商品である」「人間はポルノ商品に誘惑されることもある」という防御的な建前が、都合よく捨象してしまうもうひとつの人間的側面を忘れることなくつきあうことがより生産的に思われる。

 といってもこの(ライブドア)騒動に本気でつきあう気など、私はまったく持ち合わせていない。この機会に「言葉の条件」と「言葉の大切さ」を改めて考え直してみようと思ったしだいである(「公正」という言葉の扱われ方に憤りのようなものを感じ、それを擁護することを誰に頼まれたわけでもなく買って出てしまったのだ)。


 <付録其壱>
狡賢い松本清張を思わせる風貌をした藤田田の顔がテレビに映し出され、「勝てば官軍」という(絶対的矛盾の状況においてのみ発せられることが許されるしかない)言葉をニタつきながら臆面も無く語る姿を見る度に、むかっ腹が立ったものだった。この種の居直り経済主義には不快感を覚えていたが、そのうちに金儲けの話ばかりするエコノミストたちの顔をテレビで見続けているうちに、はたと思い至ったことがあった。それはなにかというと「勝てば官軍は醜男の最後の砦」というものである。こんなことを言うと、森永卓郎や金子勝から「おれ(たち)はちがう」と異論が出そうだが、世の中には心の優しい醜男というのもいる。彼らは資本主義体制下のエコノミストであるがゆえに、「社会主義」という言葉だけは使えないのだが(せいぜい許されるのは「日本型資本主義」という言葉であろう)、いかなる体制の下であろうと「難民キャンプ」のようなものは必要である。国連はあなた(がた)の味方です。

 <付録其弐>
最近は落ち着いてきたようだが、ちょっと前の頃、出版界には「新書」ブームというものがあった(最近では新書の案内本のようのものまである)。養老孟司の『バカの壁』などは途方もない売れ方をしたものである。この新書ブームはテレビ番組における情報番組の隆盛という現象と対応しているのではないかと思ったことがある。ここで新書も情報番組もともに「老舗」系と「新参」系の2つの系列に分かれることになる。新書における老舗は「岩波」「中公」「講談社」が対応し、新参組としては「ちくま」「文春」「集英社」「新潮」らが対応しその他にもいろいろあって『「捨てる!」技術』で有名な「宝島社新書」なんてのもある。

 新参系の新書というのは、民放系の情報番組に対応しているように思える。例えば『あるある大辞典』などがその例である(NHKの『ためしてガッテン』などはこちらのグループに入りそうだし、『「捨てる!」技術』は民放系のようにも思えるが、NHK教育テレビの番組にあってもそれほど違和感はないかもしれない)。一方の老舗系の新書はというと、こちらは「情報」という言葉よりは「教養」という言葉の方が似つかわしく、NHKの『NHK特集』(今なら『NHKスペシャル』)や『シルクロード』や『その時歴史が動いた』などの番組がそうした時代遅れの「教養主義」を担っている。ここのニーズはやはり何と言っても「岩波新書」であろう。話題になった『もてない男』は「岩波新書」には入っていて欲しくない気がする(この本はNHKのBSの番組(『マンガ夜話』系)には馴染みそうではある)。

 ところで私はというと、新参系の新書にも魅力は感じるのだが、実を言うと1980年以前の「岩波新書」にかなり強い執着を持っているのだ。「野暮ったいお洒落」というのか、あるいは「お洒落な野暮ったさ」というのか、そういう微妙な雰囲気のものに心惹かれるところがある。そしてこれは今や消滅していこうとしているものなのである。昭和48年前後というのは歴史的にも影の薄い一時期であるが(あまり関係はないが、映画史的には「73年の世代」というのがある)、この影の薄さはどうも引っかかってしまうのである(「岩波新書は昭和48年だ」と言おうとしているわけではないのだが)。

 話のついでに書いておくとフジの人気番組『トリビアの泉』に対応する書物を探すとなると、どんぴしゃりというわけではないが、宮沢章夫の『青空の方法』(朝日文庫)や『わからなくなってきました』(新潮文庫)あたりになるのではないか。べつに教養が深くなったり、有用な情報を手に入れたりするわけでもないのだが、読み終わった後よくわからないスイッチが入り、ポジティブな気分になっている。子供の頃の遠足での「青空」の下での哄笑とでも言ったらいいか。

 <付録其参>
本原稿の文章に少なからぬ影響を与えているものに、8年ほど前にスガ秀美が発表した「『メディア』が透明でなくなった時―ナショナリズムとジャーナリズム」というタイトルの文章がある(このタイトル中の「ナショナリズム」という言葉は「ナルシズム」や「視聴率」という言葉に置き換えた方が具体性が高くなったように思う)。「日本のメディアの自己認識は、いまだ、メディア論以前の水準にある」「さすがにそう露骨に言わないだろうが、ゲイのエイズ感染は自業自得だというのが、日本のメディアの偽らざる「本音」だと見做して良い」「通俗的なメディア論とは、他の言説の政治性にはそれなりに敏感であるかも知れないが、自らの言説が透明であることは全く疑わない言説なのだ」という刺激的な文章が散見されるエッセイである。ひと頃大流行したカルスタ(カルチュラル・スタデイーズ)の「国民国家」論を踏まえているがゆえに、「左翼」対「保守」という図式が出すぎていて、一般性が低くなってしまっているという憾みがあるが、メディア関係者には是非とも一読しておいてほしい文章である。

 私が密かに愛読している書物に上野昂志の『肉体の時代』(現代書館)がある。時代の無意識(肉体性)とサブカルの表現(サブカルチャーにおける表象)との関係を扱った書物で、本ホームページの「時代と映像」と題された文章にも影響を与えている。「六〇年代が、さまざまな制度から肉体が意識的、無意識的にはぐれだした時代であったとすれば、八〇年代のいまは、そのはぐれた肉体を改めて囲いこむ時代なのだ」として80年代に肉体の肉体性が消滅したことが指摘されているが、この「肉体の肉体性」は「国民国家」と衝突し「非国民」として表象されかねないものなのである。このことについては、もうこれ以上ここでは触れないが、上野のこの著作の文章は、じつは、「TBSの『調査情報』誌に、1980年からまる五年間連載した文章」なのである。自社の雑誌でこれらの刺激的な文章に触れ、その刺激を契機として何かの企画書の下書きを書こうと、机にTBS職員を向かわせるだけの役割をうまく果たしてくれたであろうか。それとも駅前で配られる政治パンフレットの類の如く不幸な無視を蒙ったのであろうか。もしそうだとしたら非常に残念なことである。

 ところで上野の『沈黙の弾機』『映画=反英雄たちの夢』を手に入れたいと思っているのだが、残念ながら両方とも現在は絶版である。スガの上記エッセイの中でも触れられている津村喬の『戦略とスタイル』も絶版扱いである。スガのエッセイが収められた書物の版元はすでに倒産している。筑摩書房の「ちくま学芸文庫」あたりで、これらの書物が復刊されることを祈ってやまない。

 それにしても現代にあっては途方もなく謎めいているのは、筑摩書房が市場に存続してしまうという事実である。あれだけ良質でありながら、そうであるがゆえにあれだけ売れない(初版絶版は当たり前)本を出し続けながらも、涼しい顔をして市場の片隅にぽつねんといるさまは驚きに値する。かねてより筑摩書房の経営の秘密には非常に強い関心を抱いている。引田天功マジックショーなみのトリックでも用いているのだろうか。

(2005・3・30)
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