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  「自然を巡って―小学校のホームルームよりもアインシュタインをこそ」

 世の中にはいくつか嫌なものがあるが、そのうちのひとつに「自然=善」と「文明=悪」という単純な二元論を前提とした上で、「自然万歳」とやらかす平板な議論がある。

 女性文化人によく見られるケースだと、南極あたりに出かけて行ってその荘厳な風景に胸打たれ、「自然は素晴らしい」「自然は差別なんかしない」「人間は文明病を患っている」と「無垢なる天使」としての自然を表象してしまうパターンがある。べつだんそうした言明を100パーセント間違っていると否定するつもりはないし、「貴女のそのような感性を大切に守って下さいね」といくぶんかの皮肉を込めて語りかけてしまうかもしれないが、まず第一に強調しておきたいことは、そのような快楽を行使する権利はあるにせよ、「人間化された自然」というイメージと都合よく戯れることに対する批判的視点は、どこかできちんと保持されておくべきだということである。

 いまさらながらエリック・ホッファーの名を出すのも気が引けるが、次のようなまっとうな認識は忘れるべきではない(と言ってもホッファーは類稀なる洞察力の持ち主だとは思うが、私の印象ではホッファーは本性的に「青春嫌いの哲学者」であり、彼の情熱観には全面的に同意するわけではない。彼が「親近感」を抱く「舗装道路」は「情熱」の賜物である)。「大人になってからというもの、私は、自然がいかにわれわれを助け導くか、いかに厳しい母のように人間を突いたり押したりして彼女の賢明な意図を実現しようとするかなどと聞かされるたびに反撥をおぼえてきた。十八歳の時以来の移動労働者として、私は自然を意地の悪いもの、無愛想なものと知っていたのである。休もうとして土の上に身体をのばすと、自然はそのかたい指の関節を私の脇腹に押しつけてきたし、私を立ちのかせるために虫やいがやえのころぐさをつかわしもした」(「自然の回復」)。自然には悪意としての側面も備わっているのであり、そうかんたんに「自然は美しい。文明化された人間は醜い」とは言えないだろう。小学校のホームルームじゃあるまいし。本気で文明を憎むというのであれば、まずは「言葉」を捨てなければなるまい。南極に感激した人間だって、そこをたんなる観光先ではなく生活空間としたなら、一週間で音を上げるのではないか。文明の恩恵たる防寒用具なしで挑めば、一日で凍死するだろう。

 また常々不思議に思っているのが、農業における有機栽培農法と大量の農薬を使った廉価な農産物の対比を、自然と文明の対立で語ってしまう言説である。農業自体は英語でagricultureというように、あくまでも文化(culture)の側にある。だからあれは正しくは、ローテク(手仕事)とハイテク(機械技術)の対立であって、あくまでも文明内における対比なのである。あとは手仕事と機械技術に対する価格(価値)の考え方の問題である(なんだかハイデガーみたい)。

 ところで以上のように「文明」の肩を持つようなことを書いてきたからといって、私はけっして文明の方が自然よりも優位にあると言いたいわけではない。そもそも私はそのような贋の問題のあり方にうんざりしている。私は人間の営みというのは、自然と文化のコラボレーション、あるいはアジャンスマン(組み合わせ)だと思っている。人間は身体と精神の両方ともどもを生きる存在だからである。自然と文化を対立比較し、善悪を論じることがいかに幼稚じみて馬鹿げたふるまいであることかはいますこし反省されてもよいだろうと思う。

 自然と文明のアジャンスマンの具体例をいくつかあげるとすると、例えば木材と家具職人とその技術の遭遇(組み合わせ)によるその「変状―結果(アフェクション)」としての椅子。ここではいくつかの要素がコラボレーションをかたちづくりながら、「椅子」という現実的結果を生産している。操作主としての人間のみが主君として、「椅子の生産」という現象を統治しているわけではない。人間の技術はあくまでも全体の一部にすぎない。ここから(よくあるパターンだが)怠惰な馬鹿は「人間がすべてを操作しているわけではないのだから、自分たちはただ自然の流れにまかせておけばいいんだ」と自分勝手な、おそらくは今社会問題化している「ニート」にしかつながらないであろう結論を出してしまうのだが、こういうのは八十年代でやめてほしい。左翼の凋落も精神面での失業者の増加も八十年代の気分にかなり責任があると思う。あの頃の左翼はソ連的な社会主義(全体主義)に対する批判としての理性批判(行過ぎたコントロール批判)だけにかまけてきたが、今や左翼のすがる言葉は「理念」だものね。ニート問題に関して言えば、リベラルなエコノミストは「働きたい気持ちや努力したい意欲はあるのだが、その機会が奪われているのです」と主張するが(一部にはそういうこともあろうが、半分ぐらいは嘘だと思う。しかしこういう虚構は対抗言説としては必要だと思う)、昔は「労働」も「努力」もとことん馬鹿にされていたと記憶する。特にサブカル文化人が「労働しないこと」「努力しないこと」を制度化するようなことをしてきた。そうした雰囲気に感染した(潜在的な落伍者になりやすい資質を持った)者たちの成れの果てがニートなのではないかと私は判断している。

 上質の食材と腕のいい料理人。上質の食材と腕の悪い料理人。質の悪い食材と腕のいい料理人。質の悪い食材と腕の悪い料理人。それぞれの組み合わせを考えてみれば、人間の意志がけっして無効なのではないことは明らかだろう。

 ところで自然と文化のコラボレーションの問題を最も切実に日々体験しているのはアスリートたちではないだろうか。アスリートは自分の身体(自然)を所与の条件として、そこを基点に日々格闘している技術者(文化人)だからである。例えば背が高いか低いかによって選択する運動種目はほぼ決定される。仮に背が低いにもかかわらずバスケットボールを選んだ場合、自分の背の低さという決定的な自然を相手にそれとの共同作業や共闘的挑戦を強いられるのであり、唯物論的なさまざまな文化的営みを通して、アスリートたちは最良のアフェクション(結果)を引き出してくるのだ。

 私が身体性や身体感覚というものを考える時、その考察の土台となっているのは私の子供の頃のスポーツ体験(鬼ごっこなどの身体遊戯なども含む)である。しかるに「身体」の問題となるとすべて「セックス」一色にしてしまう人がいるが、あれは子供の頃体を動かすことをしてこなかった人間なのではないだろうか。スポーツというのは中性的な身体感覚の経験である。こういう身体感覚を知らないまま成長し、やがて下の方の毛が生え始め身体性に目覚めると、いっきょにセックスに取り込まれてしまうのではないか。私はべつだん「セックスは醜いものだ」と言いたいわけではない。ある種の人々のように「セックスは美しいものなのです」と言うことだって時には辞さないだろう(まああんなふうに絵に描いたような進歩派気取りはしたくないが。私はセッックスというものはフーコー的な意味でのポルノグラフィーだと思う。つまり公権力的な表象の視線を逃れゆくプライヴァシーに属するものであるということだ。「セックスは美しい」と啓蒙化することはプライヴェートなものを表象空間に引きずり出すことではないだろうか)。けれどもレイプなどの例(最近も奈良の方で忌まわしい事件が発生したが)のように、醜い結果につながるような要素は確かに含んでいるとは思う。こうした性の重力に対抗しうるもののひとつに、先に挙げた中性的な身体感覚があるのではないだろうか。あるいは動物的な性とは異質のエロスというか……「恋に身を焦がす」というやつもこうした系列のエロスの体験ではないか。道徳の起源にはこうしたエロスがおそらくあるにちがいない。「天」に対する「恋の囚われの身」になるという恋愛体験が……身体もまたあい矛盾する多様なものを内包する自然である。

 ところでスポーツの話題が出たが、スポーツという場ほどDNAの問題が露骨に問われる場もあるまい。スポーツというかDNAというのは反民主主義的な性質のものである。DNAのことに言及したのは、アメリカにおけるヒトゲノムの研究開発のことが気になっているからである。これは間違いなくビッグビジネスになる。当初のうちは遺伝子に関わる病気や臓器移植などに限定されたビジネスとして推移していくのだろうが、その先にさらに大きなマーケットが控えているだろう。反民主的なDNAの民主化マーケットというか……私自身はそういう動きには抵抗感を強く感じるけれども、こうしたものに対する潜在的な需要はあると思う。というよりはすでに顕在化している。その顕在化の具体例は美容整形手術の流行である。これなどもDNAの民主化と言ってよいだろう。私は美容整形にも抵抗感を持つ人間だが、これをできる人間はさほど躊躇うことなくDNAへの人為的介入に手をつけるのではないか。アメリカにおけるスポーツ選手の筋肉増強剤への依存ぶりを見ていてそう思う。私などは原始的なウェイト・トレーニングでいいではないか、こと人間の身体に関してはローテクでいこうよと考えてしまう。そのくせバイオテクノロジー(まあゆるいやつであるが)を施された農産物は許容してしまうのだが。このへんは何だか曖昧なのだ。ところで(あまり到来してほしくはない)DNAの民主化の動きのその先にもうワン・ステージあると思う。魚などで天然物と養殖物の区別にこだわってしまう性向が顔を出すと思う(人間ってやーね)。

 長々と「自然」について書いてきたが、なぜ自然にこだわるかというと、自然を味方につけることが神を味方につけることと同義だからである。天動説の時代においては「神」が絶対であったが、地動説以降の時代においてはこの「神」の位置に「自然」が座するようになった。じつは自然は物自体であるので表象の外部にあるのだが、表象空間内における自然についての解釈は中立的というよりは政治的な性格を含む行為なのである。具体的にはナチズムにおける優生学(競走馬の種付けなどはこの発想である。競馬はロマンであるとはのどかには言えない。オグリキャップやハイセイコーにはロマンがあるとは思うが)がそうであるし、他にも多くの例がある。「自然の摂理は……」と言いつつ人はその中に自分の嗜好を紛れ込ませている場合が多い。「私が勝者であり、あなたが敗者であるのは、自然の意志によるものなのです」という表明を想起してみればよい。「自然」という言葉の重大さが見てとれるはずだ。

 だから一見「中立」に見える「自然は真空を嫌う」という言葉にも政治的な含意がある。これは「現状維持」保守的な姿勢である。「真空」とは過剰な無意味が露呈することであり、表象の秩序を脅かす事態であるから、このような自然観が支配権を持つ世界においては、「変化」や「革命」といったものが排除されてゆく。そしてまた「自然は真空を嫌う」というこの言葉が、いかなる状況において誰によって発せられたのかということも重要である。支配者の勝利宣言であるのか、被支配者のあきらめの容認であるのか、あるいは人民による君主を頂点とした調和あるコスモロジーへの讃美なのか。いずれにせよここではすべてが(ニュートン物理学におけるように)決定しており、平和と安定の中に自足する幸福な階級社会のヴィジョンが科学的に支持されているようだ。このような世界においては、周辺者は、あるいは敗者や下層階級所属者は、最後まで劣位の地位に甘んじなければならない。

 すべてが決定済みの自然界というヴィジョンにはどのように対抗したらよいのか。それには自然の(真の)多様性を思い起こしてみることだ。「自然は真空を嫌う」という現象は自然の一面にすぎない。自然には真空としての自然が出来する時がある。例えばそれは予測もしなかった火山の噴火であり、大地震であり、空を走り抜ける稲妻(稲妻のイメージを「強度」の比喩に用いたヨーロッパの思想家がいたはずだ)であり、「クリナメン」と呼ばれた原子の逸脱運動であり……と惰眠を貪る世界においては少数派でしかないかもしれないが、確実に顕在化する変化や変容のヴィジョンを勇気づける自然現象がある。

 特に最後に取り上げた「クリナメン」は、デモクリトスの「決定論」への対抗言説であり、「不確定性理論」の先駆でもある。このエピクロスの自然哲学を学位論文のテーマに取り上げたのはマルクスであったが、彼が無意識のうちに希求していたのは人間の「自由」と「主体性」の可能性を確保することだった。真空としての自然(「偶然」「偏差」)の顕在化の中に、人間の主体性や自由が生じる根拠がある。ところでこの真空としての自然という概念にこだわることで、ユダヤ人たちの知性上の、そしてまたモラル上の闘争運動は展開された。ユダヤ人たちの知性上の闘いが世界のヴィジョンを変容させていく様をエドマンド・ウィルソンは次のように描き出す。「ブルジョアの自己満足の砦を破壊する道徳的武器を自由に操ったのは、一九世紀半ばのユダヤ人にほかならなかったのだ。(原文改行)ユダヤ人ほど、所有権を奪われた階級を勝利にみちびくために、執拗に、妥協することなく闘った人たちはいないだろう。閉鎖的なユダヤ人社会から解放された最初の世代に属するこれら偉大なユダヤ人は、なおも中世的な隷属状態の記憶をとどめており、みずからを、いまだ解放されず諸権利を認められていない他の社会集団や教義の代弁者として示す傾向が強かった。それゆえフロイトは、文明が排除し、ピューリタニズムが抑圧しようとした性的衝動が、このうえなく重要であることを看て取り、精神科学にこれらの衝動を説明させようとした。アインシュタインは、ニュートンの、よく作動する予定調和的な体系のなかでは強調されていない数少ない変則的事実に関心をもち、ニュートンがしりぞけた変則を、古い体系の権威を揺るがす新しい体系の土台に据えた。またラサールは、ドイツの女性がたいてい父や夫に支配されていた時代に、フェミニズムを標榜した。プルーストは、社会におけるユダヤ人の悲劇的運命と、みずからが道徳的に優越するというユダヤ人の内的信念を、芸術家や同性愛者の悲劇的運命と道徳的優越性というかたちに移し替えた。そしてマルクスは、すでに示したように、ユダヤ人の苦境をプロレタリアートの苦境に移し替えたのである。」(『フィンランド駅へ』)

 私の印象ではユダヤ的自然観というものは、農村共同体的(予定調和的)自然観と対立するものである。言うまでも無くそれはエピクロス(アインシュタイン)とデモクリトス(ニュートン)の対立と相似の関係である。そしてまたそれは(奇妙な言い方だが)都市的自然観というものであり、農村共同体から見れば異教的なものである。

 ユダヤ人というのは、一言で言えば、都会人のことをいう。べつだんそれは「ハイカラ」だとか「トレンディー」だとか「シティボーイ」を意味しているわけではない。「都会人」という言葉は「すべてを根こそぎにされてゼロから出発しなければならなかった人間」という意味を表している。「都市」の起源はモーセに引き連れられたユダヤ人たちの集団が彷徨ったあの「砂漠」に由来する。ユダヤ人というのは「砂漠」を彷徨った経験を持つ人間のことである。近(現)代ユダヤ人たちの闘争と旧約聖書のモーセの闘争が、私には重なり合って見える。ユダヤの奴隷たちの呻きとそれに見合った切実な希望を背負った闘争の光景が。もちろんそれらは「自由」を求めての闘争だ。

 本稿のタイトルに掲げたアインシュタインによる自然(世界)観に私がシンパシーを感じるのは、私の中のユダヤ的メンタリティーが強く共振れを起こすがゆえである。

(2005・1・27)
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