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目次 A.文学系 B.サブカル系 C.ノンセクション D.どうでもいい話 Abou me
 

  「アテネオリンピック雑感」

 この夏最大のイベントであったアテネオリンピックについて感じたり、気になったりしたことについてメモ風にいくつか書いてみようと思う。

(1)世代に関して

 今回のオリンピック参加選手の年齢層は、上は山本博選手(アーチェリー・41歳)から下は福原愛選手(卓球・15歳)までと幅は広いが、中心となっているのは70年代後半から80年代前半に生れた選手で占められている。特に80年前後に生れた選手たちは90年代初めに物心がついてスポーツに取り組んだ人たちである。

 92年のバルセロナオリンピックで印象に残っていることは、柔道で大会前に負傷しながらも金メダルを取った古賀稔彦(今回はコーチとして参加し教え子の女子選手が金メダルを獲得)が、「同世代の人間から変わり者扱いされてもいい」と語っていたことだった。67年生れの古賀は80年代にスポーツに取り組んでいたわけだが、居心地の悪さを感じていたようだ。80年代には谷(旧姓田村)亮子のニックネームの由来となった人気コミック『 Y A W A R A 』が連載されていたが、この作品は当初スポ根マンガへのアンチ、すなわちパロディとして構想されていた。このことは同時代の代表的スポーツマンガである『タッチ』にもあてはまる。両作品とも後にマジなスポーツものへと変質していくことになるが、80年代の感性は基本的に当時盛んに言われていた「軽薄短小」にあった。ソウルオリンピックのあった88年には、井上陽水が自動車の C M で「くうねるあそぶ(食う寝る遊ぶ)」とテレビの画面から言っていたのである(バブルの絶頂期であった)。80年代の用語「軽薄短小」は文化的な性格のみならず、産業構造の転換すなわち鉄鋼産業からコンピューター産業への移行という文脈においても語られていた。鉄鋼は当然、高度経済成長を牽引した「重厚長大」の代表格だが、「軽薄短小」に対立する「重厚長大」のイデオロギーを通俗的に体現していたのがスポ根というジャンルだったのである。「軽薄短小」は言うなれば、運動音痴によるスポ根への逆襲であった。もちろん運動音痴にも人権はあるが、いささか過剰にやりすぎた感がある。悪しき精神主義のようなものは否定されるべきだろうが、スポーツ的なものすべてが押し流されてしまったのが80年代の弊害といえば弊害である。競技としてのスポーツが抑圧されたという印象がある。ところでスポーツとは話が少しずれるが、88年か89年頃に柄谷行人による村上春樹(80年代感性の代表格)批判があった。(ただし80年代的なものに関してはハイカルチャー側とサブカルチャー側の間には認識上の誤認があり、そのためにハイカルチャー側は失態を演じることになったのだが、それについては話がややこしくなるのでここでは省く。)簡単に言ってしまうと村上は「情熱」や「闘争」を抑圧しているというものである。今思い出したが80年代のキーワードに「ニュートラル」というものがあり、これなども「情熱」や「闘争」と対立するものであった。スポーツ選手が「闘争心」という言葉を口にし始めたのは、柄谷による村上批判、すなわち「闘争」の擁護がなされた頃からである。88年には柄谷と蓮実(重彦)による対談本『闘争のエチカ』が刊行されている。80年代前半には「闘争」という言葉は口にすることができなかったと断言できる。89年がひとつの分岐点となっているが、この年は偶然にも東西冷戦構造の崩壊、つまりはグローバリゼーションが拡大化し始める年でもあった。この項が長くなってきたので、項を変えることにしよう。


(2)柔道における相撲型からレスリング型へ

 前項において90年前後の世界情勢の変化について触れた。そのことと何らかの因果関係があるのかどうかはわからないが、90年を境にして柔道選手のビジュアルというか体型に変化が生じているように思える。88年のソウル大会までは日本柔道の重量階級の選手は山下や斉藤に見られるが如く、相撲型(あんこ型力士)の選手が多かった。バルセロナやアトランタでの重量級についてはじつは記憶にないのだが、少なくとも篠原や井上ならびに鈴木は相撲というよりはむしろレスリングもしくはアメリカンフットボールのディフェンダーを思わせるタイプなのだ(と言っても鈴木がライバルと呼んでいる棟田康幸は、典型的なあんこ型であり、じっさいかつて土俵を沸かせた富士桜に容貌が似ている。彼は滑稽なくらい古典的である。「金ピカ先生(佐藤忠志)のモノマネなんかするんじゃない!」という野次を飛ばすことはすまい)。近年の重量級は柔道といえども、パワーの他にスピードを兼ね備えていなければならないようなのだ。

 88年はソウル大会後山下泰裕が日本柔道連盟の強化コーチに就任し、日本柔道史上初めて科学的トレーニングを取り入れたという記事を読んだ記憶があるし、同じ年にはアメリカンフットボール好きで知られる若乃花がプロとして相撲部屋に入門した(ただし彼の取り口はアメフトのように真正面から激突するのではなく、おっつけることによって相手の体のバランスを崩して横から攻めるという野球の投手で言えば変化球やチェンジアップで勝負するスタイルであった)。若貴兄弟のライバルであった小錦、曙、武蔵丸はアメフトの経験者であり、現在では千代大海の突き相撲はあからさまにアメフトのディフェンスの動きである。いらぬことを書いておくと組相撲の苦手な千代大海はたぶん大関どまりだと思う。さらに付け加えておくと、90年代にはかつてのキックボクシングが K−1(空手の国際的興行)と名を変えて、外国の有力選手を中心とした人気イベントとなり、一方では寝技ありのプライドはブラジリアン柔道との覇権争いを演じている。ただしどちらにおいても90年代の金融業界のように外国勢優位である。

 こうしてみると他の日本発の格闘技同様、日本の柔道も青色の柔道着を着用した段階で完全にグローバリゼーションの動きと一体化し、それゆえに国際市場への参入を果たしたわけである。相撲における朝青龍の一人勝ちもこの流れの中にある。下手に国内保護に動けば相撲の格闘技としての側面は弱体化するだろう。相撲はスポーツなのか伝統芸なのかは意見の分かれるところだが。

 相撲についてはひとつ書いておきたいことがある。前々から疑問に思っていたのだが、横綱審議会による横綱への推挙というのは絶対的な強制力を持つものなのだろうか。推挙された力士が金屏風の前で口上を述べる光景はそれなりに格式を感じさせるものだが、若乃花は両手をつきながら「弱ったな」という思いが胸中をかすめていたのではなかったろうか。「推挙のお言葉は誠に有難いのですが、僕自身は“細く長く”やりたいタイプですので、横綱の件については辞退させて頂きたいと思います」と言うことは許されてはいないのだろうか。聡明な若乃花は、自分は脇で輝くタイプであり、関脇として場所を盛り上げてゆきたいと、実際は思っていたのではなかろうか。たぶん大関だって本当は勘弁してほしかったろうと思う。自分の小柄な体格では関脇がいいところであり、大関やましては横綱を張らされるのであれば、自分は確実に力士生命を縮めさせられると思っていたはずだ。彼が横綱を受け入れて土俵入りの型として短命とされる「不知火型」を選択した時は、自分の運命を予感していたと思う。相撲のために犠牲者の役割を引き受けた彼の人のいい優等生振りには胸が痛んだものだった。若乃花と貴乃花の兄弟は、良くも悪くも「相撲」という物語にからめとられた感がある。話がだいぶ脇にそれてきたので、再びオリンピックに話題を戻す。


(3)ボリショイバレエとブレークダンス

 今回の日本選手団の活躍のうちでも上位に位置づけられるであろうもののひとつに体操の復活が挙げられる。団体戦が日本の金メダルで終え、個人総合はアメリカと韓国の選手で争われることとなったが、最後の鉄棒でアメリカの選手が逆転勝利を収めた。その選手の優勝が決まった瞬間アメリカチームの喜びようをテレビカメラは映し出したが、ほんの数瞬金メダルを獲得した選手とチームのスタッフの一人らしい体格のいい黒人男性が抱き合う様子をカメラは捉えた。その時の軽い驚きを忘れられない。20年前のロス五輪の時にも体操チームには日本人スタッフがいたが、それはごく自然な光景であった。落ち目だったとはいえ日本はアメリカよりは体操先進国だったから。しかし体操競技と黒人という組み合わせは私には未知のものとしてあった。

 近年スポーツの世界で私の注目を惹くもののひとつに、それまでは考えられなかったジャンルに黒人選手が進出し活躍し始めている現象がある。ゴルフのタイガーウッズやテニスのウィリアムズ姉妹などがその例である。ゴルフもテニスも(イメージ的には)上流階級のスポーツであり、四半世紀前にはそこに黒人が食い込むのは想像し難いことであった。とはいえ共和党の大統領のスタッフに黒人女性がいるくらいなのだから、時代は確かに進歩してはいるのだ。ウッズにしろライス補佐官にしろ比較的富裕層の出であり、エスタブリッシュな雰囲気を漂わせている。興味深いことにライスはアラバマの教師の家庭に生まれ育ち、人種差別に対する最強の防御策は「教育」であると指導された。彼女はユダヤ人的な家庭環境にいたようだ。ライスは「進歩するためには2倍頑張らなければならず、幼少時代の経験が自分の強い決意と自尊心を作ったのだ」と語っている。15歳で大学に入り、19歳で卒業したこの秀才は「白人以上にアメリカ人になってみせる」というアメリカンナショナリズムの担い手である(こういうフィクションがナショナリズムには作動している)。ウィリアムズ姉妹は彼らとは異なる経歴を持っているようだ。経済的にはさほど恵まれてはいなかったが、彼女たちの父親は無理をして有名テニススクールに入学させ「おまえたちは必ず成功する」と言い続けていたようだ。名門イエール大学に在籍していたことのあるウッズと違って、彼女たちは大学に進んだことはなくテニス引退後に大学に進みたいと語っているらしい。

 ところでテニスと違って、「走る」要素が無く下半身のリズムを抑圧しているゴルフ(ゴルフは専ら上半身のスィングのリズムが中心となる競技であろう)は、非黒人的なスポーツのような気がする。べつだんウッズが黒い肌の白人と言いたいわけではないが、「山の手」系とは言えるだろう。スラム街のストリートを生まれ育った環境のように歩くウッズの姿というのは想像し難い。それに比べるとウィリアムズ姉妹の方は、テニスの補助練習と称してダウンタウンのクラブでステップを踏んでいそうだし(よくわからんが)、彼女らはテニスウェアを着ていなければ薬代欲しさに体を売っていそうな雰囲気がある(またいらんことを書いてしまった)。

 長々と書いてきたがこの項で考えてみたいのは白人と黒人の身体性の違いということである。先に書いた「アメリカ体操チームの中の黒人」はそのことと関連している。体操競技というのは1812年にドイツのヤーンという人物によって作られたらしいが、この時代のドイツはナポレオンの支配下に置かれており、ドイツナショナリズムが国民の気分の中に培養されていたのではないだろうか。体操競技というのは、どうも国家的なものと縁が強そうなのだ。今大会でよく耳にした着地の仕方や技の正確さと点数の関係という問題は、理念型だとか憲法だとか規律だとかいうものを連想させる。ほとんどあてずっぽうのヨタ話になってしまうが、体操の強いロシアとボリショイバレエ、中国とカンフーアクションそして今回台頭してきた韓国(北朝鮮)とサーカスの空中芸という取り合わせが、私の中では文化の身体性の問題としてイメージされてしまっているのだ(ついでに付け加えておくと日本と出初式という組み合わせもある。出初式というのは江戸時代の上野東照宮で行われた行事が起源のようで、現在も消防庁管轄の行事であるが、してみるとこれは国家公務員によって担われているということになる)。

 ところでロシアにのみ話を絞ると、バレエというジャンルはもとはイタリア王侯貴族の宮廷舞踊として始まり、それがフランスを経由して、ロシアにおいて帝室音楽演劇舞踊学校のもとに大発展を遂げた。「白鳥の湖」や「くるみ割人形」などクラシックバレエの不朽の名作はこの国で生れた。体操(特に女子)や新体操のみならずシンクロナイズドスイミングにおいてロシアが強いのはこのような伝統的背景を持っているからであろう。ただし貴族のダンスという起源を刻印されているせいか、体操選手には官僚制の印象が拭い得ない。古典的な肉体美といい、競技の性格上長髪が難しいゆえのクルーカットのような髪型といい、ロシアで言えば K G B のエリートだったプーチン系、アメリカで言えば50年代のアイビーリーガー系といった雰囲気の容姿を持つ選手が多い。つま先に至るまでぴんと伸ばさなければならないという体操の訓練法は、身体の官僚化と言えるのではないだろうか。

 ロシアのバレエは貴族の世界観を担っているわけだが、それへのアンチとなるのが黒人ダンスである。貴族のスタイルを破壊するという、文字通りのブレーク(破壊)ダンスである。日本の一部の若者にも好まれているが、日本のほとんどの風俗現象同様あくまでも表層的であり、それゆえにいつまでたっても思考が深化されることはないが、まあそんなことはどうでもいい。問題は黒人の身体性と体操競技が馴染むのかということである。現在の採点基準ではどうも分が悪そうである(また種目によっては上半身の身体能力のみに重点が置かれるのでそのあたりも黒人には不利に働く)。けれども逆に言えば、黒人の身体性は体操競技を根底から組み替える可能性を持っているかもしれない。潜在的な体操の革新者かもしれないのである。体操競技と黒人の遭遇がどのように演じられるかは、興味深い問題である。


(4)バレーボールにおけるアナログからデジタルへ

 1980年の出来事であるからその細部の隅々まで覚えてはいないのだが、持続する緊張に体の奥底まで何とも言えない痺れで染め上げられてしまい、その後の人生に対する態度というか心構えに強く影響を残したスポーツの試合があった。ウィンブルドンテニス大会の男子決勝戦である。その試合はビヨン・ボルグとジョン・マッケンローの間で演じられた。18−16というタイブレークを含む第5セットまでもつれたその激闘は確か4時間半という長い試合時間をかけて行われた。マッケンローの矢のようなパッシングやボルグのめったに見られないダイビング、またボルグのサーブのパワーがあまりに強すぎてラケットが壊れてしまうハプニングなど、胸がわくわくし手に汗握る場面が多かった。試合中何度もなされたスタンディングオベーションがその試合の興奮ぶりを物語っている。勝利者がだれかという問題などどうでもよくなっていた。このままいつまでもプレーが続いてほしいと、素晴らしいスポーツを見たことのある者なら誰もが持つ願いを念じるばかりであった。ボルグの勝利が決まり、彼がコートに両膝をついて何かに対する祝福と感謝を示す姿を見た時は、それまで気取ったスポーツぐらいにしか思っていなかった私のテニス観を打ち壊し、テニスの凄さと素晴らしさを教えてくれた2人のプレーヤーとその試合を盛り上げたスタンドの観衆に心から感謝せずにはいられなかった。よく「鳥肌が立つ」という表現が用いられるが、この試合にこそその言葉はふさわしい。この試合を超えるテニスの試合を、それ以後見た記憶はない。そしてこの試合は、スポーツの魅力は結果ではなくその過程の輝きにあるのだということを、私にはっきりと教えてくれた。私にとってはスポーツは、まず、充実した過程の持続の中にこそある。

 今回のアテネ五輪のバレーボール男子決勝(イタリア対ブラジル戦)を見たのも、過程の輝きに触れたかったからである。日本で今回人気の高かった参加チーム女子バレーではなく、男子のバレーボールの試合を見るのは随分と久しぶりのことであった。けれども試合観戦を続けてゆくうちに私はしだいに焦りを抱き始めていた。正直言って試合に入り込めないのである。大縄跳び遊びであまりにも縄の回転が速すぎて、回転する縄の中に入ってゆけずに取り残されてしまった子供のような状態であった。

 バレーボール(特に男子)におけるサイドアウト制からラリーポイント制への移行は、私とバレーボールの間にあった調和ある時間のリズムのあり方に深刻な事態をもたらしてしまったようなのである。ラリーポイント制の導入は、試合時間の短縮を目的としている(らしい)。確かにそのような発想を導入することによって、柔道は観戦に耐えうる競技に生まれ変わった。攻めなければ反則をとられるようになってから、柔道は醜い停滞の時間を排除することに成功した。子供の頃見た記憶のある柔道の国内戦は、時間稼ぎのために相手から逃げ回る姿勢が許容されており、私の眼には2人の太った男が畳の上でいやいやフォークダンスを踊っているようにしか見えなかった。こんなのはスポーツではないと思ったものだった。しかしバレーボールのルール変更は、少なくとも私には(今のところは)うまく馴染めない感覚がある。

 サーブで崩して攻めるラリーポイント制の在り方はバレーボールに、以前とは比べ物にならないほどのパワーとスピードをもたらした。しかしパワーとスピードがありすぎるのだ。スピードがありすぎて、「過程」というものが介在する余地が失われてしまっているようなのだ。その速度は人間の尺度を越えてしまって、ライフル銃かなにかで攻めることを競い合っている感すらある。「ドン!」と銃声が鳴ったかと思ったら、もう標的に命中して結果が出てしまっているというような。これが光通信時代のバレーボールというものなのだろうか。冷戦時代の軍事兵器開発競争がバレーボールコートの上でなされている、そんな感じだった。ネットを挟んでボールと選手の肉体が演じる運動の過程の艶やかさを享受するという球技が本来持っていた楽しみは、遠くのどかな時代遅れのものになってしまったようだ。とにかく相手よりも早く正確にというむきだしの勝利志向が、コートを戦場の味気なさに変えてしまっている。「むこうがブローニングで撃ってくるなら、こっちは陸軍特注のレナト・ガンバで巻き返すまでよ」そんな声が聞こえてきそうですらある。それが狩猟民族のさがというものか。

 コートの両サイドを行き交うボールが作り出す充実した過程の持続に執着してしまう私は時代錯誤な人間なのだろうか。しかし「持続」というものは根本的にアナログなものである。運動の分割、すなわちデジタルは運動に対する裏切りであるとあえて強弁したい。その試合に手に汗握るサスペンス溢れる時間を見出せぬまま実りの無い焦燥感に苛立った私は、ファナティックな反動家の如く、国際バレーボール連盟に抗議の電話を入れようと受話器を取った。

 「俺の古き良きバレーボールを返してくれ!体育館の中でクレー射撃なんかやってんじゃないよ。ドレミファドンの超ウルトライントロじゃあるまいしドンはないだろ。ドンは。速すぎてついていけないんだよ。速度制限しろよ。それが無理なら妥協点を探して、あらかじめ設定された速度に最も近いほうが勝利者となるというふうなゲームにしてもいい。でもそれじゃまるでカーリングみたいじゃないか」

 幸か不幸か電話の番号を知らなかったがゆえ、そのような要求を届けることはできなかった。今後に危惧されることは、女子バレーまでもがデジタル化されて、その競技の魅力を失ってしまうことである。そのような良くない予兆があらわれた時には、日本の女子バレーは世界の流れに背を向けてもかまわないのではないか。新横浜のラーメン博物館のアトラクションとして、「東洋の魔女ショー」といったかたちで保存され、かつ生き残ってゆくこともまた一興かもしれない。やっぱりバレーボールは鮎原こずえに限る(よくわかんねぇー)。

(2004.9.2)
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