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  「模倣熱というウィルス」

 ヘーゲルやジラールが明瞭に自覚し、彼らの人間学の中心に据えた認識として、「人間の欲望というものは他者の欲望に媒介されている」というよく知られたテーゼがある。特に子供の世界は、欲望の連鎖のダイナミズムが渦を巻いており、幼児期に「おたふく風邪」や「水疱瘡」などの病気が集中しているように、あれは一種の病気ではなかろうかと思われるほどに、次から次へと欲望の波が絶え間なく襲いかかる津波のごとく打ち寄せてきて、それに振り回されたものだった。

 いろいろとあったなあ。

 まずは思い出されるのは「自転車」であろうか。あれは小学校に入学する1年前の頃のことであった。今でもはっきりと覚えているが、週明けの月曜日に風景が激変するような出来事に遭遇したのであった。日曜以前の週には補助輪付きの子供用自転車で遊んでいた近所の子供たちが、皆揃って補助輪なしの自転車に乗って登場したのである。ただ一人補助輪付きの自転車に乗っていた私は、身も世もないような情けない気分に突き落とされたよ。「補助輪付きのなんか乗ってらんねえよ」と、まるで大人のような顔をして補助輪なし自転車を颯爽とこぐ仲間たちにおいてけぼりを食らわされた私は、真っ青な顔をして自宅へと帰り、「補助輪をはずして欲しい」と母親に頼み込み、母は家にあったペンチか何かで2つあるうちの右側だけのははずしたのだが(左側だったかもしれない。チェーンがネックになったような記憶がある)、もう片方のははずすことができなかった。しかたなく左側だけの補助輪を付けたままよれよれと自転車をこいでいた私は、「何なんだ。そのかっこ悪い自転車は」と仲間たちから笑われ、さらに恥の上塗りを重ねたのだった。

 結局その自転車は近所の自動車整備工場に持ち込まれ、めでたく(?)左側の補助輪もはずされて、私は膝小僧を赤チンで真っ赤に染めながら明けても暮れても、補助輪なしの子供用自転車をこぎ続けたのだった。やがて自宅の前の家に住んでいたよく遊んでいた男の子の3,4歳ほど年上のお姉さんの好意によって、私はそのお姉さんの小学生以上が乗るような「正式の」補助輪なしの自転車を貸してもらうこととなった。図々しくも自分の家に置きっぱなしにして使わせてもらっていた。サドルの高さが合わずに、三角乗りするしかなかったが、暇さえあれば乗っていた。なにせ女の子の所有物であったから、赤い色の自転車で最初は違和感があったが、乗り続けているうちに赤色の自転車に慣れ親しんでしまった。

 それがいけなかったのであろう。小学校に上がった年の誕生日のプレゼントに、私は「正式の」自転車を買ってもらうこととなった。買う前には「青色の自転車」を買うことに決めていた。近所の自転車屋に行くとずらりと青い自転車が並んでいた。その列の一番端の所に赤い自転車が一台だけ置いてあった。その一台がやけに目立つ格好となっていた。赤い色に対する親和性を身につけてしまってもいた。一緒にいた親が赤い自転車はなかなかユニークだという意味のことを言い始め、どういう料簡か自転車屋の親父も「以前は赤いのは女の子が乗っていたが、今は男の子も乗っている」とか言い出し、私は催眠術にかかったでもしたかのように赤色の自転車を選んでしまったのだ。当時は、確固とした自我がなく他人の言葉に染まりやすい、という典型的な潜在的ファシストのような人間だったのだ(このことに関する記述を「附録」として文末に置く)。

 それでもまあ当初はその赤い自転車には一応納得はしていた。けれども同級生たちとの放課後の集まりなどで、自転車を乗り付けて集合場所に行くと自分以外の子供はみな青い自転車であることを発見するのである。ここでもまた「なんで赤い自転車なの?」という話になるのである。またしても身も世もないような気分に陥り、なんという過ちを犯してしまったんだろうと後悔することしきりなのである。

 ちょうどこの頃「酒蓋集め」なるものが流行りだした。どういういきさつでそのような現象が始まったのかはまるでわからない。気がついたら、たんなる日本酒の一升瓶の蓋が希少な宝石のような扱いを受けているという熱病のようなものが周囲を席巻し、自分もそれに感染していたのだというしかない。休み時間になると校内のあちらこちらで酒蓋のコレクションの品評会となり、薄気味の悪い熱を帯びた瞳で鑑賞しあい、同意が成立すれば酒蓋を交換したりもする不思議な光景が目撃された。

 この種の熱狂にはすぐ感染してしまう私は、母親に頼んで、当時我が家に出入りしていた酒屋さんから不要になったかなりの数の酒蓋をゲットすることに成功した。「酒蓋成金」や「酒蓋長者」なる言葉があったとしたら、当時の私がそれであった。「黄桜」や「月桂冠」という酒の銘柄はその時覚えた(ちなみに「月桂冠」の蓋は金色だったこともあってか人気度の高いアイテムであった)。

 他の地区や学校での事情は知らなかったが、私が通学していた三鷹市立第四小学校では1年から6年まで全学年をあげて、そのような欲望の虜となっていた。インフルエンザウィルスが蔓延し、学校閉鎖になってもおかしくないような状況であった。その末期症状とでもいうのであろうか、我が第四小学校の一部の集団がその欲望を昂進させ、「酒蓋難民」じみたものを形成してしまい、子供らが「酒蓋ありませんか」と三鷹市内の酒屋を訪ね歩くというところまで事態は発展してしまったのである。

 そのうちの不審に思った1軒の酒屋が、学校側に問い合わせの電話をいれ、事態が発覚した。緊急の職員会議が開かれ、前代未聞の「酒蓋収集禁止令」が全校生徒およびその保護者に発令されたのである。このような珍妙な校則が出たのは、全国的にも歴史的にも、この小学校ぐらいではなかろうか。その校則がワクチンとしての効果を発揮してか、なんとも不可解きわまる「酒蓋熱」は急速に沈静化していったのである。

 他にもこの学校では「靴べら熱」なるものが発生したこともあった。靴屋でサービスでくれるような手のひらサイズのセルロイド製の靴べらが、ブーメランの代用品として男子生徒のあいだで流行りだしたのである。上級生の何人かはうまい具合に手首のスナップをきかせて靴べらを空中に投げ上げ、旋回して戻ってきた靴べらを器用に片手でキャッチする光景が、校庭で見かけられるようになった。

 またしても「熱病」の勃発である。私と同級生たちは、家の下駄箱に放り込まれてあった小型靴べらを引っ張り出し、放課後、家の近くに集まって靴べら投げを練習し始めた。なかなかうまくいかず、近所の家の庭に投げ込んでしまい、インターホーン越しに「靴べらをとらせてください」と、それを聞いた相手は「いったいどういうカルト集団だ?」思いかねないようなことをやっていた。

 その他にも日本全国各地で社会問題化していた「(仮面)ライダー・カード熱」にも、御多分に漏れず感染した。私が「ライダー・カード」の存在を知ったのは、小学4年の時、私の前に座っていた男子生徒が、4人1組で食べる給食の時間中に、「ライダー・カードを20枚集めたけど、まだラッキー・カードには当たっていない」とぼそぼそぼやいていた時であった。いったい何の話か私も他の女子生徒2人も覧揄 ナきなかった。

 その生徒の家に遊びに行って、おやつを食べようという話になって、近所の駄菓子屋でつきあいで「ライダー・スナック」を買わされたが、おまけのカードには興味がもてなくて彼にあげてしまった。スナック自体もうまいとは思わなかった(あの味のお菓子がよく市場を流通したいたと思う)。けれどもしばらくするうちに、クラスでも2人、3人とライダー・カードのコレクターが登場するようになり、あっという間にクラスを挙げてその熱が沸騰するようになったのである。こうなると手がつけられない。私も眼の色を変えてカードを集め始めていた。

 私にとってはこの類の熱病騒動は「ライダー・カード」ブームが最後だったように思うが、本当にこれらのアイテムが欲しかったのかというと、そうではなかったような気がする。こうしたブームが孕んでいる熱気や、ブームに参加する人間たちが群れとして発する体温の熱さに惹きつけられていたように思う。群れることの熱さそのものが誘惑だったのだ。子供ならではの「主客未分化状態」が、熱狂の渦の中にたやすく溶け込んでいったであろうことはいうまでもない。今思えば、この熱さには性的な昂揚感と同質のものが混ざっていた。ファシズムの官能的な魅力といわれるものに通じるものがあったように思う。

 ということで、ここから先は「附録」として、少し硬めの記述を書かせていただく。


 <附録>
 性的な昂揚とファシズムという意味のことを書いたが、同時的に私は『共同幻想論』(吉本隆名)の解説に書かれた中上健次の「何にも増して国家とは性なのだと、国家は白昼に突発する幻想化された性なのだと予言した」という言葉を思い出していた。「対幻想」(家族的なもの)が「共同幻想」と通じ合っていることを言おうとしているわけだが、国家のエロス的側面に対する感性を持っているのは文学者ぐらいしか見当たらない。

 「国家」というとマスメディア・レベルでは、すぐ官僚機構(父権的なもの)がどうのこうのという話になるのだが(それはそれで間違いではないが)、「血と大地」というエロス的なものを通じてファシズムが人々の心を犯してゆくこと(これはもうほとんど「生の条件」というしかない)は、ナチスを見ればわかることである。ちなみに80年代半ば以降、中上健次のなかでは「母殺し」という問題がせり上がっていた。

 『共同幻想論』が刊行された1968年に、たまたまであろうが発表された柄谷行人の「「アメリカの息子のノート」のノート」という論文から次のような文章を引用してみる。

「しかし法と経済という両面からどのように人間を抽象化しようとしてもしきれないのは、<性>にもとづく関係、たとえば家族である。われわれが家族の中に生れ、そこで育つ以上、それはヘーゲル的に市民社会に揚棄されながらも、決して解体され尽しえない自然的定在である」
「「共同体」とはなにか、といえば、われわれはどのようにでも答えることができるだろうが、私はあえて限定して、婚姻関係が相互的に許容される範囲とみなす。それは共同体の成立が、家族の質的な遠隔化によって生じていることからも明らかである」

 「フロイトやマルクスがユダヤ人であり、それゆえ国家や民族の共同性をこえた普遍性を理論的に志向せざるをえなかったことに比べると、ユングやエリオットはあまりにも易きについた、といわざるをえない。しかも易きにつくことが可能なのも、いつも彼らが沈黙の共同性に憩うことができるからであったが、そのかわり理論的な普遍性を獲得しえなかったわけでもある。思想的な意味で易きにつくことは、その報いを必ずこういうかたちで受けとらざるをえないのである」

 「少子化」という時代背景もあってか、家族至上主義的な雰囲気が強まっている気配もあり、あえてそれを相対化する視点を紹介してみた。フロイトの名前が登場したが、「エロスとタナトス」のことについて書いてみたかったのだが、「どうでもいい話」ということもあるし、それは別の原稿でのことにしたい(「アンチ・ホームドラマが観たい」というようなタイトルになるかと思う)。今回の原稿はこれでおしまい。

(2005・11・23)
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