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  「かっこよすぎるぞ宮崎哲弥」

 いくぶんか過去のことになるのでいたってあやふやな記憶を基にして書くことになるが、朝日新聞の朝刊の1ページ全面(半分ぐらいのスペースだったかもしれない。当の新聞を見つけようとしたが、結局探し出せなかった)に意見広告のような対談記事が掲載された。対談メンバーは2人の男で、2人並んでスツールに腰かけカメラのレンズを見る両者の写真も、対談内容の活字といっしょに載せられていた。左側に座っていたのが評論家の宮崎哲弥であり、その右隣に腰かけていたのがロック・ミュージシャンの河村隆一であった。

 意外と言えば意外な印象を受けるし、ファッショナブルな真摯な男志向を生得の資質として身につけているという点では、納得のゆく組み合わせだとも言える。2人の話の内容はほとんど覚えていないのだが、確か「祖国の将来を憂う」といった内容のものだったと思う。このあたりの記憶はほとんど曖昧なのだが、唯一鮮烈に記憶に焼きつけられているのが、宮崎の「R・Kは……」という発言である。

 R・Kって一体なんだ?唐突なアルファベット2文字の侵入に私の頭は軽くパニックを起こしたが、しばらく考えるうちに、それが対談相手である河村隆一のイニシャル(=R・K)であることに思い至った。人物の名を固有名ではなく、イニシャルで表記する書法は、フランス現代思想あたりがよく使う手で、確か「固有名」がまとってしまう権威(権力)を意図的に拡散化し、反権力的な動きをディスクール内に導入しようとする試みだとか何とかという記述をどこかで読んだ記憶がある(このへんの記憶はひどく曖昧で、心当たりのある文献を探してみたが、見つけられなかった。だから私がカン違いをしている可能性もある)。この記述を読んだ時は「ははーん。なるほどね」と感じたが、おしゃれすぎて自分にはとても真似できそうもないと思った。

 この眩しすぎるほどにおしゃれなスタイルをさり気なく用いる宮崎に、私はいたく感心してしまった。そういう目で改めて宮崎の肖像写真を見直して見ると、さり気なく流線を描く彼の前髪のウェーブが、テンプターズ時代のショーケンの前髪の流線のようで、「この男は筋金入りの美学者だ」と美学オンチの私は白旗を揚げる準備をし始めそうになってしまう。

 とりわけ私を打ちのめしたのは、彼がとなりの河村とスツールに腰かけて仲よくとる揃いのポーズ。すなわち文化人定番の被写体ポーズであるところの軽く足を組み、おのが顎に手をそえる必勝ポーズである。人はここまでおしゃれを貫いてしまっていいのだろうか、日光東照宮陽明門の逆柱の(嫌味な)謙虚さはどこへやら、という脆弱な慎み深さを粉砕しそうなほど堂々たる被写体振りである。「ポスト・チャールズ・ブロンソンは俺だ」という倣岸な自信を漲らせている。そのオーラに私の両目は焼きつぶされそうであった。このような戦慄を味わったのは83年の『構造と力』の裏帯に掲げられた著者(浅田彰)の肖像写真以来である。あの時も「これは冗談でやっているのか。それとも本気でやって大すべりをやらかしているのか」と判断できずに未決定のまま置き去りにされたような、宙吊りの不安定感を味わったのだった(このことに関連する記述を<付録其壱><付録其参>として文末に置く)。

 宮崎の自信ぶりに比べると、宮崎につきあわされているとなりの河村は、素人の善良さを図らずも露呈させてしまっているようだった(河村はむろんれっきとしれた玄人の芸能人だが、文化人ポーズには不慣れなようだった)。ようするに照れや羞恥心に揺れる心の動揺を隠し切れずにいるようなのである。「僕がこういうポーズをとっているのはロダンの「考える人」の真似をしているだけなんだよ」と弁解したげである。「もしかしたらこのあとカラオケで、宮崎さんにジェリー・ウォレスの「ラヴァーズ・オブ・ザ・ワールド」を強制的に歌わされるかもしれない」と新たなる試練の予感とそれに対する不安を抱えていそうだ。ことによるとカラオケの会場では、心労に耐え切れずにブチ切れてしまい、海援隊の「母に捧げるバラード」をやけくそになって歌ってしまったかもしれない(「こら!てつや!なんばしよっと!」)。

 と、以上のようなことをまざまざと想像させてくれるほどに、宮崎のかっこよさは際立っているのである(私にはとても真似できそうにない)。彼には男なら一度は呼ばれてみたい「マンダム・北斗」という名誉ある呼称を授けたいと思う。

 <付録其壱>
1年ほど前に蔵書の整理をしていたら、「小説すばる」の創刊号(1987年)が出てきた。何気なくページをパラパラめくっていたら、当時の若手の作家たちがベテランの五木寛之を囲んで行った座談会の記事が目に入る。当然そこには参加者たちの顔写真が載っており、私は眼のやり場に困ってしまった。参加者の一人には現長野県知事の田中康夫がいたが、彼が推し進めた「なんクリ」イデオロギー、すなわち内面より外見が大事という時代の風潮にほぼ全員が感染しており、そのイデオロギーの忠実なしもべをけなげに演じていたのである。正直言って恥ずかしかったっす。なかでも「やっちゃったよ」ではすまされず、「目が強姦されるぅ」と悲鳴を上げたくなるような暴力的な写真が、中沢けいのものであった。それはヨーロッパのバレリーナものの映画の1シーンを再現するかのような光景で、体を左側にやや傾けながら床に座り、フレームの外側へ憂いを帯びた視線を注ぐといった写真であった。興味のある方は現物を確認して頂きたい。あなたはあの恥ずかしさに耐えられるか。

 どうも中沢という人は生れる時代が早すぎたか、育った場所を間違えたかという気がする(1959年生まれで6歳の時から高校卒業まで千葉県の館山市で育つ)。私は東京の三鷹市という土地で生まれ育ったのであるが(三鷹市の思い出については別の機会に書いてみたい)、子供の頃私にとって千葉という土地は全くの未知の場所であって、かろうじてイメージできたのは当時のコントのコンビがネタの中で使っていた「千葉の女が乳搾り」というフレーズを基にした映像であった。ぬけるような青空の下、どこまでも広がる緑の草原。大柄だがこれっぽっちの悪意も感じさせない、京塚昌子のような目をした一匹の牝牛と、その脇に屈みこむ一人の健康そうな若い女。女は額にうっすらと汗を滲ませ、小麦色に日焼けした両腕を上下運動させて、鮮やかな白い乳を搾り取る。青と緑と白の調和が大地の生命力を謳い上げる。「人生って素晴らしい」今や千葉も幕張メッセなどもあってそれなりに都会化しているが、酪農産業全盛期の千葉で育ってしまったことが、中沢のタイミングの悪さであるのかもしれない。

 <付録其弐>
「其壱」で書いたように「内容よりは外見」というのが80年代文化の特徴であったが、その弊害を強く感じさせてくれたのが87年スタートの異色のテレビ番組「朝まで生テレビ」であった。今でこそまともな討論番組となっているが、開始時の87年から88年にかけてぐらいの期間はほとんどパワーゲームのような様相を呈していた。「目立つ奴が勝ち」という80年代の至上命題に参加者たちが呪縛されてしまい、自分と他のメンバーの意見をきちんと交換し合うという大原則が機能しておらず、いかにその場で優位に立つかという見てくれの問題が優先されるあまり、パネラーの誰もが押しのけ合戦に巻き込まれる有様だった。そこでは鈴木宗男もびっくりの恫喝泥仕合が演じられていた。「品の良さなど犬にでもくれてやれ」というのが80年代の流儀であったのである。「朝生」は新種のエンターテイメントとして予想外の受け方をしていて、私などもそれなりに楽しんでいたのだが、同時に「80年代って罪深いなあ」という感想も持ったのだった。

 <付録其参>
「本編」において「本気でやって大すべり」という現象に触れたが、これを得意技にしているというか、というよりも「技術」なるものにはなから背を向けて、進化の過程で停滞し原始的な時間を永久保存パックするカブトガニやシーラカンスのような生き物に似た作家に車谷長吉と柳美里がいる。彼らに比べれば、中沢けいはIQが高すぎて野蛮人にはとてもなれそうにない。酪農産業こそが時代の先端であり、千葉こそがIT企業ひしめく「六本木ヒルズ」なのだと思えてくる。

 車谷や柳の文章に接していると、笑うべきなのか、感動すべきなのか、はたまたどう対処すべきかその方法を知らない自分は文明社会の落ちこぼれとして猛省すべきなのか、という寄る辺無い迷子のような失調感覚に陥るのである。

(2005・2・15)
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