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  「戦後日本と『だれも知らない小さな国』」

 「二十年近い前のことだから、もうむかしといっていいかもしれない」という書き出しで始まる佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』は、冒頭の一文に忠実であるかのように、控えめだが、熱いノスタルジアの輝きに満ち満ちている。この作品は、輝ける幼年期への恋情を、唯一の動機として成立している作品だ。

 戦争が始まる直前の平穏な夏休み、小学3年だった語り手の「ぼく」は、「とりもち」作りのための「もちの木」を探す過程で、人の目を逃れた「小山」をたまたま発見し、これを自分だけの秘密の場所と見なして熱中する。魅惑的な三角平地。美しいいずみ。鮮やかな赤い花を咲かす大きなつばきの木。熱に浮かされたかのように、足しげく通いつめる「ぼく」は、やがて「いつか僕が大きくなったら、この小山を買って、ほんとうに自分の小山にしたい」と考えるまでに至る。

 そんなある日、小山を流れる川で偶然出会った女の子の流れてゆく靴の中に、「ぼく」は「小指ほどしかない小さな人」の姿を発見し、その土地に伝わる伝説の「こぼしさま」だと思い当たる。これがすべての始まりである。終戦後、青年となった「ぼく」は、女の子や小さな人たちと再会し、コロボックルの共同体の味方として、小山をつぶす自動車専用道路の計画と戦うことになる。

 この戦いは、日本の戦後の価値観との戦いという性格を持つ。道路計画自体は戦争中に計画されたものだが、「ぼく」やコロボックルが背を向けているのは、日本の戦後のメイン・ストーリーであった「成長神話」なのであるから。『だれも知らない小さな国』が出版されたのは1959年のことである。これに先立つ1956年、経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な宣言を出し、日本は国民所得が上昇してゆくコースを歩み始める。

 高度経済成長の絶頂時の1967年、製菓会社森永は、この時代を象徴する「エールチョコレート」を発売する。「従来の板チョコよりひとまわりほど大きくして値段は50円のお徳用板チョコ」は、その広告戦略を「今までの日本は、小さな幸せ、慎ましやかな幸せが美徳とされてきた。これまでにない速さで経済大国の道を歩みつつあるこれからは、もっとのびのびと胸を張って、大きいことはいいことだと主張しよう」という方向で展開することに決まった。こうして「大きいことはいいことだ」という時代を代表する名コピーは生まれた。そのコマーシャル映像は、富士山を背景に、気球に乗った山本直純が派手なアクションで気球の上から1300人もの大群衆を指揮する、というものだった。

 誰もが大きくあろうとすることに何の疑いを持たない社会が戦後の日本に出現したのである。日本のSFもこのような時代の波と無縁ではありえなかった。10万馬力の鉄腕アトムは、ミッキーマウスのようなかわいい顔をした幼児体型でありながら、内実としては、「大きいことはいいことだ」というメッセージを無邪気にまき散らしていた。鉄人28号だって、ウルトラマンだって、とにかくでかい。

 核融合をエネルギー源として動くアトムに象徴されるように、巨大な力の実用化に成功した20世紀の物理学は、レヴィ=ストロースのいう「熱い社会」の可能性を極限まで拡大してみせたのである。20世紀の知およびSFは、熱力学のパラダイムに属していた。『だれも知らない小さな国』の世界もまた、そのようなパラダイムに包摂されていた。戦争が終わった後の混乱から、復興に立ち上がる日本の社会の中で、「ぼく」は電気工事をする小さな会社」の社員として戦後の人生を始める。彼は、だから、世界的なメーカーとなったソニーのような道も選択肢としてはあったはずである。けれども彼はそのような方向を、まったく選ぼうとしない。「ぼくは、小山に新しいコロボックルの国をつくろうと思っているんだ。小さくとも美しい静かな国をね」という台詞に見られるごとく、戦後の時間から完全に外れてしまっている。幼年期の記憶の生々しさが、戦後の熱さを上回っているわけだが、彼のそのような姿は、SFとファンタジーの対立を思わせずにはいられない。

 SFが熱力学と結びついているのに対して、ファンタジーはそれ以前の知、すなわち古典力学(あるいはそれ以前の知)と結びついている。テクノロジー的に言えば、前者は蒸気機関とともにあり、後者は時計に似ていた。マルクスやフロイトが蒸気機関がその核心にある知的パラダイムの上で考えていたのに対して、彼ら以前のデカルトは時計をモデルとしていた(厳密に言うと、ファンタジーの原理はデカルトよりさらに先に遡ることになるが――近代以前の中世――ここでは話をわかりやすくするために「時計」の比喩を用いている)。時計の哲学者デカルトは、延長としての道具とそれを操作する主体(コギト)を想定していたが、マルクスやフロイトにあっては、そのような考え方は否定される。マルクスは、社会を工場のような総体として見ていて、そこでは労働者はシステムを構成し、(社会)機械の全体的運動を支える部品に過ぎない。フロイトもまた、意識(主体)は無意識の一部にすぎないと考える。

 ファンタジーには蒸気機関によって根こそぎにされる以前の世界の感触への郷愁が感じられる。ファンタジーは時計のような秩序を重んじる。世界の法則に則った共同体の維持がファンタジーの使命なのだ。それは、時計職人の世界において、職人を育成する徒弟制度が、顔のある個人と個人を向き合わせる懐かしい旧共同体の光景に似ている。『だれも知らない小さな国』の作者佐藤さとるがこだわったのも、そのような世界の感触だろう。射影幾何学により、均質空間、均質時間を見いだし、中世と近代の分岐点に立つデカルトの名は、本稿の文脈にいささか収まり難いところがあるのだが、ここで私が言いたいことは、SFとファンタジーはそれぞれ異なる別の原理に基づいているということであり、両者を同一のものと見なす思考は、知性上の怠慢に陥っているがゆえに慎まなければならい、ということである。

 神奈川県生まれの佐藤にとって、北海道やコロボックルがどのような歴史対象であるのかは、はっきりとはわからない。だが、戦後の近代のプロジェクトの外部を、佐藤が希求していたことは了解される。近代の運動が(植民化される以前の北海道や農村部のような)共同体を解体するものであり、それに対し解体化した共同体を想像的に回復しようとする試みとしてファンタジーが要請されるものであることを、佐藤のファンタジー作品は納得させてくれる。

(2012・6・1)
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