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  「吉田一穂と極北(2)」

 ファシズムは「熱狂」や「慰撫」といった液体的環境の中に個を溶け込ませ、盲目的な群衆を組織してゆく甘美な誘惑のことだが、この魔的な誘惑を拒むためには、個体は群衆が鳴り響かせるリズムとは別の体系の韻律を刻むことでこれに対抗するしかない。戦争体験から『空気の研究』を書いた山本七兵は、「空気」に唯一抵抗できる「水を差す」ことの効用を説いたが、共通感覚から逸脱した異質の感覚というのはそれなりに存在意義があるのだ。「奴隷の韻律」と呼ばれた短歌のリズムから身を引き離そうとする試みもそのような動機に発してもいよう。

 口語自由詩の韻律について日本で初めて自覚的に考察したのが吉田一穂であった。瀬尾育生は吉田の詩論を受ける形で「詩とは、国語の波動が別の国語の波動と遭遇するところに生じる、物質言語と国語とのあいだの振動のことだ」(「ポラリザシオン」)という命題を提示し、定型についても次のように論じる。「ある国語が自分自身を超えた高次な言語になろうとするとき、ある特定の外国語を通路とすること。いずれにせよ詩の定型は、その外国語とある外国語との間の関係あるいは振動に由来するのであって、単一の国語の生理や構造に帰せられるものではない。(略)吉田一穂が素描してみせた和歌の二音単位四拍子もまた、日本語の固有性のなかに根づくものではなく、むしろ日本語が中国大陸とのあいだに形づくった振動に由来している」

 吉田の唱える「ポラリザシオン理論」とは、極性を生み出すことであり、成極作用のことであるが、そのためには、異国としての「北」が、「極北」が要請されるのだ。極北の力強い振動が微弱化するとき、自由詩は民衆詩へむかって衰退していかざるを得ない。吉田が極北の韻律を受け取ったのは、生まれ故郷である北海道の風景からであった。北海道の裕福な網元の長男として生まれた吉田は、自らを「海の民」として位置づけ、北の海の「青」に染め上げられることを、ほとんど存在論的倫理として受け取っている。「しかしこの海の青の感覚は私の薄明思想となり、ノスタルヂアの性格的な北方の誘引となつた。」「私は近代詩の形成原理を、三基構造の力学的な<比率>の面から時・空・意・の三元に自己の坐標原点をとり、方向性を与へることによつて<ポラリザッション・セオリイ>を成す一体系の組織に、三十年の実験と思索を要した迂愚の一人である。幼少時代の海の彼方は詩のイペルポオルとなつてわが思想の方向を決定し、その実現の方法論としてポラリザッションを成したにすぎない。何是か、ヴァイキングの裔なるアムンゼンを証人に呼ばう、卿は何故に再びエッダの氷極に帰り去つたかと」(「海の思想」)

 このような「故郷」のイメージは少し奇異な印象を与えるかもしれない。存在を温かく包み込む甘美な環境という、通常の「ふるさと」のイメージとは異なるからだ。だが、吉田にあっては、「母」という作品で「麗はしい距離(デスタンス)」と歌われたように、「ふるさと」から突き放される体験そのものが「ふるさと」としてあるのだ。このような特異な「ふるさと」のイメージは、坂口安吾の「文学のふるさと」というエッセイを連想させずにはおかない。安吾によれば、モラルから突き放され、「救いがない」という「絶対の孤独」こそが「文学のふるさと」なのだ。もともと安吾が惹かれる風景は、他の人々とはかなり異なっていた。あるとき友人の北原武夫に「どこか風景のよい温泉はないか」と問われ、お気に入りの温泉を紹介したところ、あまりの殺風景さに北原は本気で怒ったという。安吾が感じる「美」は、安吾以外の人間には「不快」なものなのだ。このような挿話から、柄谷行人は、母親に疎まれて育った安吾の生の姿を思い描く。そしてそれは、フロイトが見出した「快感原則の彼岸」とつながる。

 フロイトの孫は幼くして母親を亡くしたのだが、その孫は母の不在を、糸巻を使った「いないいないばあ」という遊びで、克服しようとしたのだ。「不快」を「快」に変える、このような試みから、フロイトは「快感原則」とは別の原理で働く衝動を見いだし、美とは異なる崇高(サブライム)の体験を想定した。柄谷は言う。「おそらく安吾にとって、海と空と砂を見てすごすことは、母の不在を克服する「遊び」であったといってよい。そうした風景は彼に快を与える。しかし、それは母の不在という不快さを再喚起することにおいてなされているのである。(略)安吾が好む風景は、美ではなくサブライム、つまり、不快を通して得られる快なのである」(「坂口安吾とフロイト」)そのような志向=嗜好は、吉田一穂にも見出されるものだ。たとえば、吉田は次のように証言している。「偏極的なこの強い乳児期の印象は、わが一生に焼ついて<青>に対する感覚の志向性と諧和性を表象し、赤や黄の明色と反した昏く冷たい感性と志向へ、自ずと導かれていく基調を成した」(「海の思想」)

 明色系の「赤」と対立する「青」に官能的に溺れこむ吉田は、本質的な詩人であり、詩人としてしか生きられない人間だった。青に反応することは詩人の条件だとさえ言える。リルケの『新詩集』は、当初、「青いあじさい」となる予定だったという。また、小林康夫は、『青の美術史』の中で、次のように述べている。「いや、ヘルダーリンといい、マラルメといい、詩人は本質的に青に対する感度が高いのかもしれないとすら思います。もしそうだとしたら、それは、青が、詩がそうであるように、感覚的なものと知的なものとの合一の精神を暗示する色であるからかもしれません」

 「感覚的なものと知的なものとの合一の精神」という言葉は、吉田に似つかわしい言葉だ。よく指摘される日本詩史における「極北の詩人」という吉田に対する呼称も、そのことと関わっていよう。そしてまた、それは日本の60〜70年代の文化状況を表す言葉でもあった。「彼らはみな、何らかのかたちであれ、「北」を目指していた」(『シミュレーショニズム』)と椹木野衣は言う。「「北」とは何か。端的に言えばそれは「デッド・エンド」である」と規定する椹木は、「彼は世界の「底」が露出する瞬間をひたすら待つ」と冷静に指摘しつつ、そのような態度をしりぞける。「「北」へいくやつはといえば、いつものたれ死に」するではないか、と。グレン・グールドにせよ。極北のギタリスト、デレク・ベイリーにせよ、「デッド・エンド」の探求の中で、みんなのたれ死んだ。80年代の音楽シーンにおいて、60年代の精神を生きようとしたロックバンド、ザ・スミスも、のたれ死んだ1人だ。「それはモリッシーとジョニー・マーの薄氷を踏むかのごときテンションの持続によってのみ可能となるような性質のものだった。そのような緊張がそう長く持続するはずもなく、事実それは数枚のアルバムを残して跡形もなく消え去ってしまう。彼らこそは根源的に「北」を志向していたロック・ミュージックのさいはての表現――すなわちロック・ミュージックの極北を示唆するものだったといえるかもしれない」そうした光景を目撃してきた椹木は言う。「われわれは「北」という意識の監獄から「南」という外界へと、一刻も速く逃げ出せるのでなければならない」だがしかし、椹木は、やれやれといった調子で次のように続ける。「しかし実際にはそうならない。まだまだ世間には「詩」を書くやつが多いからね……」なかなか辛辣な言葉であるが、この言葉は真摯に受け取る必要があるだろう。少なくとも私はそう思う。「詩」だけでは駄目だと。

 先に私は吉田の「白鳥」を引きつつ、堅固な結晶世界を構築することで、吉田は戦争をやり過ごした、と書いた。それはそれでよい。「現実の対極に詩の純粋空間を築こうとする」(三好豊一郎「桃花の里」)試みは、なにがしかの批評を含んでもいよう。だがそこでは現実を認識しようとする視線は、全くの不在である。現実の空間に戦争があるなら、それがいかなる経緯と性質を有するかを、批評は見定めなければならない。現実の総体を掴むためには、詩人の感度が必要とされるが、それを分析=記述するためには、散文家としての力が必要なのだ。現実を転倒し改革するためには、現実を分析し、制度の限界と弱点を見定める散文の力が必要とされる。

(2012・4・3)
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