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  「昭和と小松左京」

 小松左京は懐かしい。その懐かしさは、小松が故人となった現在、さらに増しているかのようだ。小松という存在、そして彼の人生の軌跡は、戦後日本の、とりわけ昭和という時代の象徴として、ふるさとのように懐かしい。私の世代にとって、昭和40年代(1965〜1974年)という時間が、私たちのふるさとの役割を果たした。それは東京オリンピックから、大阪万博を挟んで、オイルショックへと至る時間帯だ。その10年という歳月において、戦後日本の切れば必ず血の出る「大きな物語」は生きられた。

 ここでいう「大きな物語」は、フランスの哲学者リオタールが語ったマルクス主義のようなイデオロギーを必ずしも意味しない。エコノミストの水野和夫が言うところの国民経済の成長物語を指して、「大きな物語」という言葉を使っている。資本と国家と国民という三位一体の関係が成立し、経済発展することが、三者それぞれの利益となる、言い換えれば進歩の先に幸福があると信じられていたモダニズムの夢を「大きな物語」と呼んでいる。小松左京という作家は、「大きな物語」の時代の刻印を受けた作家だった。

 戦後の廃墟というゼロ地点から、「復活の日」を信じて、おのが実存を壮大なプロジェクトに投企するという、青年のビルドゥングス・ロマンが小松文学の真骨頂である。それは1970年代前半までは成立したのである。日本はまだまだ若かった。平成の成熟社会日本とは状況が違ったのである。世界経済にとって1974年前後が重大な転換点だったと、水野和夫は語る(『超マクロ展望 世界経済の真実』『金融大崩壊』その他)。水野によれば、1974年は「実物経済」から「金融経済」への移行期の始まりである。

 鉄鋼産業のような「実物経済」発展時代は、日本人のアナログなビルドゥングス・ロマンの時代だったと言っていい。それは青年的労働の時代でもある。石油などの原料を海外から輸入し、国内の製造技術をフルに活用して、国際競争に勝てる商品に仕立て上げ輸出し、外貨を獲得し富を国内に蓄積する。その過程においては、製造に携わる様々なエンジニアや労働者の育成が欠かせない。個人の成長が国全体の成長につながるという、晴れやかな成長神話が生き生きと息づいていたのである。

 経済高度成長時代は、個人の努力と勝利の達成が全体の成功へと一直線にむすびつくスポ根ものの全盛期でもあった。東京オリンピックもメキシコオリンピックもそしてその先にあった大阪万博も、右肩上がりに坂を駆け登る成長物語の輝ける挿話としてあった。科学技術を開発し未来を切り開くこと。ウルトラCや回転レシーブのようなテクニックを磨きあげ、輝かしい勝利をつかみ取ること。サイエンスとスポーツの両分野で、小松左京と梶原一騎は、それぞれ、坂の上の雲を見上げながら、上昇を実現する物語を語り続けた。それが昭和40年代という舞台であった。小松は昭和6年生まれ。梶原は昭和11年生まれ。ともに私の父の世代に当たる。彼らは私の世代のために、雲へとつながる「坂」を用意してくれた(その舞台の背後には先進国による後進国の搾取というからくりがあったにせよ)。そしてまたこの時代は、バブル期の消費社会とは違って、消費を我慢して将来のために節約し、貿易黒字をため込むことが国是の時代でもあったので、かろうじて精神性に価値が認められる物語がリアリティを持っていた。星飛雄馬も矢吹丈も伊達直人も、田所博士も渡老人も小野寺俊夫も精神性の高いキャラクターとして造形されていた。そして昭和49年に昭和なるもの、すなわち小松左京的世界像は終焉を迎える(昭和50年から64年までは、プレ平成というべきものだ)。

 1974年、世界の経済構造は一変する。この年、先進国の「実物経済」は頭打ちになる。またG7の国では、人口維持に欠かせない出生率2.1が、73〜75年の時期にいっせいに下回る。それから経済成長にとって大事なのは世帯数および世帯数の増加に伴う都市化だが、日本では73〜74年に都市化が終わっていることが明らかになっている。さらにつけ加えると世界の長期金利(利潤率の観測可能な代わりの数値)は、74年をピークとしてやはりいっせいに下がり始めるのだ。「実物経済」から「金融経済」へとシフトせざるを得ない条件が、この時期にせきを切ったように露出し始める。

 「金融経済」への移行を後押ししたのは、経済史上の一大事件だと経済学者の誰もが口をそろえて言う「ニクソン・ショック=ブレトンウッズ体制の崩壊」(1971年)である。金とドルとの交換制度が停止され、変動相場制への移行が2008年のリーマン・ショックへの流れを作った。ブレトンウッズ体制というのは、通貨は管理されるべきものであるという認識に基づいた「管理通貨体制」であったが、それが崩れ落ちることによって、資本が世界中をアナーキーに駆け巡るという現象が生じるようになった。資本・国家・国民のつながりは断ち切られ、資本家や株主が国民国家を凌駕するようになる。国民国家経済は国際資本の前に敗北する(水野和夫はそれを「国家と資本が離婚する」というふうに表現する)。それはSFの世界でたとえるなら、小松左京の国民国家SF(大きな物語)がサイバーパンクSF(インターネット空間のアナーキズム)にそのヘゲモニーを譲り渡す姿に似ている。

 金融経済とサイバーパンクのアナロジーは、次のような金融経済史上の事実からも見て取ることができる。アメリカのアポロ計画は1972年に打ち切られるが、その時失業したロケット工学のエリートたちが、こぞってウォール街に参入して金融工学に手を染めるようになる。この時期は変動相場制への移行によって、通貨先物市場が開設されてもいるので、彼らの能力が金融界も大いに必要としたのである。金融技術の発達には複雑な計算を可能にするコンピューターの存在が不可欠であるが、その技術を駆使することによって、彼らは日本の金融界には真似することのできない新しいスタイルを生み出した。じっさい金融ビッグバン(1996年)以降の日本の投資機関は、外国から有能な人材を引き抜くしかなかった。またインターネット空間を利用することで、実物経済の市場が飽和してしまったことによる損失を埋め合わせることが可能となった。インターネット空間を金融空間として扱うことによって、金融経済による利潤の極大化を目指すようになったのだ。国際資本の完全移動性が実現した1995年からリーマン・ショックの2008年までの13年間で、欧米主導の金融空間は100兆ドル(1京円―2009年春時点)もの金融資産を作り出してみせた。日本が戦後60年をかけて築いた金融資産が1500兆円だったことと比べると、その額がいかに途方もないものであるかがわかるであろう。

 こうした時代の流れは、「長期金融」から「短期金融」への転換という流れに如実に反映されている。1952年に吉田茂内閣によって、重厚長大産業をじっくり時間をかけて育成する目的で設立された日本長期信用銀行は、1998年に破綻し、アメリカのファンドに買い取られた。「護送船団方式」と揶揄され、批判されることの多かった日本の金融システムは、大企業には都市銀行、中小企業には信用金庫、鉄鋼などの基幹産業には政府系の日本長期信用銀行がつくというふうにきめ細かく整備が整い、短期的利益が見えにくい産業を保護育成する意志を保持していた。株もアナログ時代は、この企業を育てようという意図のもと、じっと長く持っているものであったが、株券が電子化される時代にあっては、アメリカの株主は3日以上同じ株を持たない。インターネット技術に飲み込まれた株式市場では、デイ・トレーダーたちが秒単位で株を売買する。このようなサイバーパンク的ともいえる時代の趨勢が、小松左京的世界像に対して、圧倒的に不利に働くのは言うまでもない。小松SFとは、国民国家プロジェクトを感動的に描く「実物経済」時代の「大きな物語」であるからだ。NHKの人気番組「プロジェクトX」のようなものだ。あの番組もまた金融経済戦争に敗北した時代に、かつての「実物経済時代」を懐かしむ日本人にとって、時代劇=大きな物語の役割を果たしたと言える。

 こうした歴史的文脈においてみると、『日本沈没』が「大きな物語」が終息する1973年に発表されたことの意味は深い。軽薄短小SFの時代に背を向けて、重厚長大SFに殉じるアナログな男の美学を読み取れるからだ。ヴァーチャルリアリティの中でしか成立しないような小さな物語へとなし崩し的に変質しつつある日本の大きな物語を、いったんは沈没させ=抹殺し、もう一度大きな物語を復活させようと試みる反時代的な「父」の不器用な生きざまにこみあげてくる愛おしさを抑えることなどできはしない。であるがゆえに、富士山の大爆発などという大時代的なけれんに対し、息子は一片の疑いも抱かずに同調する。

 『日本沈没』は、伊豆沖で沈んだ島の挿話に始まり、3月12日の富士山の大噴火をクライマックスとして終わる。主な舞台が静岡を選んでいるのは、偶然にもそこに「糸魚川静岡構造線」が走っているからだ。東日本と西日本を分かつユーラシアプレートと北米プレートの境界線が「糸魚川静岡構造線」なのである。「本州を西と東にわける関東山脈の下の富士火山帯は、今や一斉に燃え上がり……」と作品中では描かれているが、ここでは日本という風土のみならず、それ以上に昭和という時代そのものが燃え上がっているようだ。火を噴く富士山というアイコンは、昭和の終焉にふさわしい。

 それにしても「富士山」は、「桜」同様、「日本」なるものを鮮やかに象徴してやまない(平成ふうに「JAPAN」と表記してはならない。あくまでも昭和的に「日本」である)。この山が日本列島のほぼ中心点に位置していることは、とても偶然とは思えない。かつては霊峰と呼ばれ、修験者の信仰対象であったこの山が、「日本」なるものの象徴として日本列島のど真ん中に位置するのは必然だったのだ。そして静岡もまた、日本列島のど真ん中に位置している。東日本と西日本の境界にあたるのが静岡なのである。再び繰り返せば、「糸魚川静岡構造線」を境にして、東日本と西日本はまるで地質構造が異なるのである。静岡を中心に真っ二つに裂かれるイメージが、田所博士が幻視し、的中させた日本=昭和の破局=再生なのである。小野寺と玲子のラブシーンにおける天城山の噴火など、静岡は『日本沈没』において、特権的な場所であり続ける。「一頭の竜」という美しいイメージを小松によって託された日本にとって、静岡は竜の腹部に当たる。引き裂かれる竜という劇的な竜の死のメイン・ステージとして静岡は、『日本沈没』の読者に対して崇高な輝きを持ち続けるだろう。

 ところで、もし小松左京が一世代(30年)遅れて生まれていたらと、つい想像してしまう。平成のSFは異なる姿を見せていたのではなかったかと。『超マクロ展望』において、水野和夫と萱野稔人は、21世紀の経済戦略として、暴走する国際資本への規制としての「トービン税」の可能性や、温暖化に対する環境規制による市場の創出などのアイデアを出している。小松なら現実的条件から出発するSF的想像力を、水野や萱野のように行使したのではないか。彼らのいう「超マクロ展望」とは、従来の「マクロ経済学」の枠組みでは解決できない現象への試みとしてある。それはSFの試みと同義である。「超マクロ展望」とは、SFの視線と等しく、なかんずく小松左京的俯瞰する視線の運動は「超マクロ展望」の知性のことだ。水野と萱野の試みにSFは嫉妬せざるを得ない。けれども、このようなところに小松のDNAが息づいていることを知り、小松の子供はほっとし、一筋の希望の光を認めないわけにはいかない。

(2011・10・1)
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