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  「哀しい(そして滑稽な)子守唄――紀大偉の「膜」」

 母が子に手渡す贈り物は、様々な選択肢があるだろうが、まずは筆頭に挙げられるのは子守唄であろう。70年代に人気のあったフォーク・ソング・デュオ、ウイッシュの名作「六月の子守唄」に次のような歌詞がある。

さわるとすぐに こわれそう
ガラスのような おまえだから
風がわるさせぬように
悪魔がさらって行かぬよう

 「子」を「守る」とは、ガラスのように繊細な幼子の素肌を、過酷な外気に触れさせぬように、気を配ることであり、オゾン層の破壊によって、「悪魔」化した陸地のむごたらしい現実を、「液体の空」によって締め出し、海底都市の穏やかさを、子に提供することであるだろう。紀大偉の代表作「膜」が指し示そうとする膜は、幼い心に襲いかかろうとする暴力と、幼子との間に、周到に張り巡らされた衝撃緩和材としての遮蔽装置にほかならない(「私はあの子が真実の姿を知ってしまうのは望みません。むしろ永遠に脳の中に留まって夢を見つづけて欲しい、きれいで完全な夢を」)。

 切なく、だが、決定的にある種の錯誤に陥ってもいる母の子守唄としての「物語(お芝居)」は、20年という長い時間にわたって持続するが、過剰なまでに「母体の羊水」たらんとする母の愛情は、時として、娘を苛立たせ、家を出ることを決意させるまでにいたる。(「ろうの膜の下で生きるのはこんなにも鬱陶しい」)。

 「黙黙(モーモ)」と名付けられたヒロインは、その名の由来である「桃(MOMO)」の幸福と不幸を生きることを宿命づけられている。

 桃ほど内密性の高い果実もほかにあるまい。「そっと持たないとすぐにも破れそうな」ほど薄い皮の内側では、芳醇な熟成がエロティックに演じられ、「甘い香り」が一点の曇りもない幸福として立ち昇る。けれども逆に一方では、桃の芳醇な果肉の重みは、停滞を引き寄せ、存在の運動性を粘着の磁場のなかにからめ取ってゆくだろう。そうした桃の不幸な側面をするどく捉えた松浦寿輝の詩作品を引いてみよう。

水蜜桃は残酷なくだものだ。鼻をつく芳香、あわい色、うすい皮、ざらついた産毛のむずがゆさ。だが何よりも憂鬱なのは、噛むと口中にひろがる、あのいちめんに濡れて、濡れて、濡れてやまない過剰なうるおいの感覚だ。なぜ、こんなにしたたっているのだろう。ただ甘美な汁のたゆたいだけをぴっちりとつつみこんだ果皮のうすさの、なんというみだらな不幸。ぼくは、結局、都会にしか生きられないのか。  (「逢引5」)

 「ただ甘美な汁のたゆたいだけをぴっちりとつつみこんだ」桃という果実は、幸福にも不幸の方へも傾斜する両義的な存在だが、松浦はとろけるような甘美な眠りの中に自足することよりも、苦い幻滅の中での自意識の覚醒を選ぶ。「ぼくは、結局、都会にしか生きられないのか」同様に「膜」の主人公もまた、「海底都市」という「都会にしか生きられない」存在だが、そこに不幸の意識はない。母によって、ネガティヴなもののいっさいは、周到に遠ざけられている。疫病による肉体の99パーセントの喪失と引き換えに、「MOMO」ならぬ「MEMO」の表面に書き込まれた「偽りの日記」が「一つの童話」として、退嬰的な母子空間のなかに孤独な軍事労働者を包み込んでいる。「桃太郎」伝説までもちだして綴られるファンタジーは、麻薬という「みだらな不幸」のことを思い出させずにはいられないが、作者の紀大偉は切れば血の出る物語の側へと、「光ディスク」のファンタジーを位置づけ、これに強く加担することを決意しているかのようだ。「マミーはすすり泣きながらこの脚本を書き終えた」のだから。

 「マミー」「軍事商社」「黙黙」の三つの要素の組み合わせによって構成される偽史は、突拍子もない勘違いをあちこちに巻き起こさずにはいられない。それは、あたかも、小咄の「豆腐問答」に似て、ノイズ除去装置が愛犬に、軍事アンドロイドがエステサロンの顧客へと勘違いされる。悲劇なのか、喜劇なのか、どう反応してよいものかわからないままに、深いところが動揺させられる。「マミーは黙黙のこうしたとりとめもない想像を知って、泣くに泣けず笑うに笑えなかった」物語において、人を泣かせることも、笑わせることも、比較的たやすい技である。しかし、人を「泣き笑い」の状態に置くことは、そう簡単な代物ではない。「泣き笑い」という大いなる感情は、「崇高」の次元に人を目覚めさせる。それをやってのけた紀大偉は、やはり、只者ではない。

 作品中にある無益で無意味な陸地での戦争とどう向き合うのか、という疑念が微かに脳裏をよぎらないではないが、SFならではの想像力が心地よい衝撃をもたらす「膜」という作品は、「一読の価値あり!」だと保証する。

(2009・12・1)
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