5 心の隠れたくぼみ
「光」の主人たる自分を確立すること。アシモフ作品の大半の登場人物たちの行動原理は、このひとつのことに尽きる。
「第一ファウンデーション」は、太陽のような光の世界を、光にも似た速さで、設立することを目指す。「第二ファウンデーション」は、「基本輻射体」なる特殊装置が放射する「光」が描き出すところの方程式によって、「セルダン・プラン」の正しい機能ぶりを測定し、第二銀河帝国建設に貢献しようとする。その建設成就に千年という時間がかかるのは、「今の社会はまだ、心理学者の支配階級を嫌悪する社会であり、その発達を恐れ、それと戦う社会」(『第二ファウンデーション』p.169)だからである。十二代目「第一発言者」によるこの言葉は、彼らの目指す「光」が、多分に、「支配」の方へと重心を置いていることを示している。帝国の安定がそのような抑圧を要請するわけだが、亀裂や罅のような不透明要素を含まない光の抽象的な広がりは、当然、具体性としてある事物の固有な輪郭を塗りつぶしてゆく。わかりやすい例を持ち出すと、アリストテレスによる「思考は個物そのものを対象にしてはならない」という禁止である。思考が破綻なく機能するのは、「花」なら「花」という概念の枠内においてのみであって、個々の「花」そのものを扱おうとする時、思考が基づく体系は根拠を失ってばらばらになる危険性がある。「心理歴史学」が「個々の人間は予測不可能だが、人間の群衆の反応は統計的に処理できる」という発想に、ほぼ対応している。
そろそろこのへんで書いておくと、アシモフ作品に少数ながら登場する固有性に憑かれた人物たちを擁護することが本稿のサブ・テーマでもあるのだが、それはそれとして、「第一ファウンデーション」および「第二ファウンデーション」の他に、『ファウンデーションの彼方へ』では、「ガイア」という第三の勢力が登場する。この集団も「第二ファウンデーション」に似て、人の心に侵入してそれを操ることができる(ミュールの出身地とされている)。けれどもひたすら受け身で、「拡張衝動」を持たず、植物的な存在様態なのである。「第一ファウンデーション」と「第二ファウンデーション」が、互いに相手をだしぬき、あわよくば滅ぼそうと、覇権争いを演じているのに対して、「ガイア」は闘争を世界から締め出す形で、世界を律しようとする。根源にある外部の荒々しさを巧妙に隠蔽した上で、偽りの多様性を保持してみせる東洋的な隠微な権力機構に似ているといえる(註14)。
これらの勢力が三つ巴となって、銀河系における帝国圏どうしのような争いとなるのが、『ファウンデーションの彼方へ』の物語内容である。この争いは膠着して身動きが取れなくなる。ガイア出身のノヴィは、それを「致命的な手詰まり状態」と呼ぶ。ガイアは介入の必要を感じるが、「行為をした方が銀河系の被害が少ないのか、行為をしない方が銀河系の被害が少ないのか、分からない」(下巻p.310)という状況である。そこでガイア(のみならず「第一ファウンデーション」や「第二ファウンデーション」側からも)が注目するのが、トレヴィズというキャラクターである。
トレヴィズを特異たらしめているものは、彼の「生まれつきの直観力」(下巻p.49)である。「なすべき正しいことを知るという天分」(同上p.308)とも「銀河系の貴重な天然資源」(p.308)とも呼ばれるこの能力によって、トレヴィズは銀河系の三大勢力を凌駕する。トレヴィズの特異性は、三大勢力が一致して認めるところであり、彼らは三者択一の権限をトレヴィズに委託する。「選択はあなたのものです」(p.311)
トレヴィズは「すべてを正しく認識できる」という神の位置に立っている。トレヴィズは「光」そのものだと言っていい。けれども筆者が注目するのは、「光」そのものとしてのトレヴィズではなく、彼が有する、「光」から「光」の絶対性を抜き取り、それを中和するように横にずらす「力」とでもいうものである。最終的にトレヴィズは「ガイア」を選択するが、そのあとに「僕はあんたがたの世界には適応しないよ」(p.343)とはぐらかす姿勢を示す。「ガイアに味方したのは、ぼくの時間稼ぎであり、また、たとえ決断が間違っていても、事態を修正する時間が――あるいはひっくりかえす時間さえも――必ず残るようにするためだった」とも発言する。
トレヴィズは、性急さを慎む。彼は「急がば回れ」という知恵を本能的に身につけている。その「回り道」が『ファウンデーションの彼方へ』の続編として書かれた『ファウンデーションと地球』である。この作品の中では、トレヴィズを特徴づける「銀河系の貴重な天然資源」は、「ブラック・ボックス」(『ファウンデーションと地球』上巻p.19)あるいは「心の隠れたくぼみ」(p.130)というふうに呼ばれている。このような表現は、「光」の属性というよりは、「光」の限界を暴きだし、「光」に穿たれた「くぼみ」において別の次元に目覚めうる可能性を示唆するものである。
じっさい「ぼくの知っているいろいろな社会では、人は反逆できる」(『ファウンデーションと地球』上巻p.51)「われわれにあってガイアにないものはね、ブリス、多様性なんだ。もしガイアが拡大してガラクシアになったら、銀河系のあらゆる世界は強制的に温和なものにされてしまうのだろうか?同一性なんて、ぼくは耐えられないぞ」(p.101)という言葉をトレヴィズは口にし、光の専制がその体制を完了せしめる直前に(あるいは完了した後に)、「回り道」という生産的な余白を導入しようと試みる。「反対とか不賛成のチャンスはどこにある?人類の歴史を考えれば、ある人間の少数意見が社会から排斥されても、最後にはそれが勝ちを占め、社会を変革するという例がときどきあるじゃないか。歴史の偉大なる反逆者が出現するチャンスが、ガイアにはあるのか?」(p.43)
「心の隠れたくぼみ」とは、光の均質な広がりが、それが秩序の安定には不可欠なものだとしても、それが単一のシステムであるかぎり、限界を持つ不自由なものであることを暴きたてる、肉体の不実な肉体性のことである。制度というものが不自然な抽象であることを、具体的に触知させてくれるのが、「個別そのもの」の肌ざわりであるが、「心の隠れたくぼみ」は、そのような固有性へと通じる回路でもある。あるいは、「回り道」と戯れる資質を支えるものが「心の隠れたくぼみ」だと、言ってもいい。
トレヴィズが辿る経路は、「迷い道」ではなく「回り道」であるのだから、当然、それは「本道」へと戻ってくる。トレヴィズは社会的には、あくまでもターミナスの議員であり、白痴や芸術家の類ではない。「回り道」から「本道」へと戻る『ファウンデーションと地球』の最終面において、トレヴィズはガイアが目指すガラクシアを支持する。それは心からの絶対的な支持というよりは、「より少ない不正義」としての政治的な決断であり、議員という彼の身分にふさわしい実務的なものといえる。彼は次のように言う。「インベーダーがやってきて、われわれが分裂し対立しているのを見れば、我々全部を支配するか、または皆殺しにするだろう。唯一の真の防衛はガラクシアを作りだすことだ。ガラクシアなら自らに背くことはありえないし、最大限の力をもってインベーダーを迎え撃つことができるだろう」(下巻pp.376―377)政治的軍事的共同体であるがゆえに、ガラクシアは「多様性」ではなく、「同一性」に基づく世界となる。この場面の前の箇所で、ダニールによって「ロボット工学の三原則」の上位に立つ「第零法則」が披露され、それは「ロボットは人類を傷つけてはならない。または危険を見過すことによって、人類に危害を及ぼしてはならない」(傍点原文)というものであり、それが布石となっている。「人類は抽象的な概念」であり、「それをどのように扱うことができるか?」という問題には、「人類を単一の有機体に変える」(p.357)という答えが提示される。「単一の有機体」なるものが途方もない抽象であることは見逃され、「心の隠れたくぼみ」は抹消される。「インベーダー」とてひとつの「有機体」ではないのかと思われもするが、「唯一の真の防衛」であるところの巨大な城砦が形成され、帝国は完成する。
けれども、トレヴィズの真の美質は、巨大な城砦とは対極にある、もっと小さな親密な空間、それこそまさに「くぼみ」のような内密性と親和する点にある。「公人」としてのトレヴィズは、銀河系の未来を背負って立つ、であるがゆえに矛盾の隠蔽に手を貸し、抑圧に加担しさえもする不自由さを、身に纏わざるを得ない。その一方で「私人」としての彼は、幼児じみた愚かさに共感し得るというか、あるいはそれと嬉々として積極的に戯れることのできる資質を持ち合わせている。そうした彼の側面を物語るのは、ファースターー号の相棒ジャノヴ・ペロラットとの関係である。ペロラット自身、大きな幼児ではある。五十二歳の歴史学者である彼は、分別を持っていてもいいはずだが、トレヴィズとの旅の途中で、ブリスという名の謎めいた美女と出会うと、老いらくの恋に溺れてしまう。そのような愚かさを、トラヴィズは犯すべからず「権利」として尊重しようと思う。「あんたは、いいかい、本当にロマンチックな愚か者だと思うよ。でも、別のあんたなんかほしくない」(『ファウンデーションの彼方へ』下巻p.329)そしてさらに、ブリスに対して次のように懇願する。「ぼくはかれを傷つけたくない。かれを傷つけさせたくない。もしぼくがガイアを救ったのなら、報酬を受ける資格がある――そして、ぼくの報酬は、ジャノヴ・ペロラットの幸福を維持するというきみの保証だ」(p.338)
社会機構を担う者として官僚の冷酷さに徹する一方で、肉体の奥深い所に小動物のような柔らかさを、アシモフは隠し持っている。最晩年のハリ・セルダンが、一人きりのオフィスの中で、人知れずprivateな心情へと傾いていくように。「自分の人生を振り返って、ある物事は別のやりかたですることもできたのではないか――すべきであったのではないか――と思う。たとえば、わたしは心理歴史学の大きな進歩を考えるあまり、わが人生を横切っていった人々や出来事を、それに比べれば取るに足らないもののように思ったことが、ときどきあったのではないだろうか」(『ファウンデーションの誕生』下巻p.337)社会的使命と日常的なささやかな事柄のあいだで、セルダンは揺れ動いている。この直後、セルダンの独白は次のように幕を閉じる。
〈これが――これが――わたしのライフワークだった。わたしの過去――人類の未来。ファウンデーション。すごく美しく、すごく生き生きしている。そして、なにものも……
ドース!〉(p.341)
短い引用部の中で、頻繁に繰り返されるダッシュが、意識の揺れと混乱を伝えている。そして最後の「ドース!」の一語が、読む者を厳粛な気持ちにさせる。ドースは、セルダンの妻(実はロボット)であり、セルダンの安全を守るために命(?)を落とすファウンデーションの影の立役者である。ファウンデーションの偉大なる父としてのセルダンの中に秘匿されていた、それとは矛盾する繊細な子供のいたいけな表情を垣間見るようであるが、じつはアシモフの中にも、「前進」や「探検」のような威勢のいい掛け声とは裏腹な、退嬰的とも呼べるような気質があるのである。一九六四年に開催されたニューヨーク万博を見学したさい、アシモフは次のような感慨を抱く。「八時間そこにいたが、いちばん印象に残ったのは、〝地下住宅〟と称するものだった。私はいつも閉鎖された場所を好み、居心地よさそうな地下の巣にいる小動物を羨ましく思っていたし、ファウンデーションものや『鋼鉄都市』では閉鎖された都市を描いていたから、これは正しい方向への一歩だと思った」(『アシモフ自伝Ⅱ』上巻p.418)
ベイリ刑事の口からは、地下都市を非難する言葉が、盛んに飛び出していたのだから、アシモフ自身によるこのような陳述はかなり意外である。ことによるとベイリによる激しい非難は、非アメリカ的な「内向き志向」に対するアシモフの自己処罰のようなものだったのかもしれない。
ともあれアシモフの中には、「膨張」と「収縮」というあきらかに相矛盾する要素が確固として存在するのであり、そのことがアシモフという作家を一筋縄ではいかないものにしていることが確認できるのである。「一筋縄ではいかない」とは、もちろん、「豊かさ」と同義である。「繭」や「藁葺小屋」という「収縮」を象徴するイメージに価値を見いだそうとするサン=ポル・ルーの作品に着目しつつ、バシュラールは次のように述べる。「藁葺小屋と城という両極の現実は、サン=ポル・ルーの例にみられるように、われわれが収縮と膨張、質素と壮麗を必要とすることを考慮しているのである。われわれはここで住むことのリズム分析を体験する。よくねむるためには、大きな部屋でねむってはいけない。よくはたらくためには奥まった片隅ではたらいてはならない。詩を夢み、詩をかくためには、二つの住まいが必要だ。なぜならば創造するたましいにとってこそリズム分析が有効なのだから」(『空間の詩学』p.101・註15)
「城」とは「帝国」の同義語であるが、存在の休息と休息後の飛翔は、「城」のような巨大な空間ではなく、「藁葺小屋」のような内密の価値を温かく擁く場所においてこそなされる。そして、アシモフの作品には、「藁葺小屋」的な非「帝国」的なものの方に強い執着を覚え、帝国の論理からすれば愚かとしか思えない振る舞いに殉じる者が少数ながら登場する。セルダンやリオーズのような責務と義の美徳に生きる者たちも筆者は好きである。けれどもまたその一方で、世にいう「負け組」なのかもしれないが、愚かさに埋没できるバカヤローな者どもにも、セルダンたち以上に好意を覚える。最後に何人かのバカヤローな面々について言及したい。
(註14)ガイアの秩序体制についてトレヴィズは次のように批判している。「ガイアという超有機体の場合は、社会の規則に対して自動的な同意があり、それを破ろうなんて、だれも思わない。ガイアは植物的に生き、また化石化しているといってもいいかもしれないな。自由な連合にはたしかに無秩序の要素がある。しかし、それは新しさと変化を誘発する能力に対して、支払わねばならぬ代価なんだ」(『ファウンデーションと地球』上巻p.129)
(註15)「藁葺小屋」の劣性は覆しようがない。「詩」と関わる「創造するたましい」など、いまや、およびでないからだ。ところでバシュラールは、「詩人」と対立する者としての「哲学者」を次にように批判している。「しかしわれわれおとなの生からは最初の富が奪いとられて、人間=空間の絆がゆるんでしまったために、家という宇宙のなかでの最初の結びつきが感じられない。抽象的に「世界化し」、自我と非我の弁証法的活動によって宇宙を発見する哲学者は少なくない。実際かれらは家のまえに宇宙を、棲家のまえに地平線を認識するのだ」(『空間の詩学』p.39)ここで言われている「哲学者」は、「経済人」に置き換えた方が、よりリアリティーがある。グローバリゼーションとは、空間が抽象的に「世界化」することだから。この全面的な世界化は、資本という抽象的な媒体によって、経済のネットワークが地球を覆いつくした結果である。経済的に言えば、「地平線」は「国際市場」のことであるし、「棲家」は「国内市場」のことである。
グローバリゼーションを肌で感じる経験を、われわれは、つい最近オリンピック中継で目撃した。二〇〇八年北京オリンピックにおいて顕在化した「柔道」と「JUDO」のあいだのどうしようもない「ずれ」をわれわれは思い知らされた。日本人が疑うことなく依拠していた日本的美意識(国内市場)が、国際社会の共通感覚(国際市場)とは誤魔化しようもなくずれていることを認めないわけにはいかなかった。もちろん大半の日本人は、自分たちのローカリティを正当なものだと思っている。
(「アシモフの二つの顔――ファースト・ヴァージョン(6)」へと続く)
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