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  「アシモフの二つの顔――ファースト・ヴァージョン(4)」

4 光の暴力としてのテクノロジー

 「人類の性質は、結局、昼行性なんだなあ。テクノロジーを発達させるごく初期の目的の一つは、夜を昼に転換することだったろう」(『ファウンデーションの彼方へ』上巻p.326)と、ジャノヴ・ペロラット教授は言う。ペロラットは、『ファウンデーションの彼方へ』の主人公ゴラン・トレヴィズとともに、「新型のポケット・クルーザー」ファースター号に乗り組む歴史学者である。

 ペロラットが言うように、自然の条理に抗い、その限界を超えて、自らの意志を貫徹することが、科学技術の本領といえよう。惑星によって異なる重力の大きさを自分の身体にあわせて調整したり、何万光年という遥かな距離を一挙にジャンプすることによって踏破可能にせしめたりと、アシモフ作品に登場する特殊テクノロジーのみならず、科学技術全般は、人間の手仕事文化ではとうてい実現することのできない難事業を成功させ、人類の幸福に多大な貢献を果たしてきた。

 「夜を昼に転換する」ことによって、闇の危険性は減少し、世界は透明化され、言い換えるなら均質な空間・時間が成立し、人間の意志・目的を阻むものが取り除かれ、世界の隅々までをも人間の管理下に置くことが可能となった。人の方向感覚を惑わせ、回り道での余計な労力を強いかねない不便な闇の領域を、効率性の高い直線通路へと転換し、進歩を確実なものとし、生産性を上げる。それは、まさに、啓蒙の歴史である。「啓蒙する」という日本語は、英語では、enlightenという語に対応するが、「無知蒙昧」な闇の状態を、導きとしての光(light)が差し込むことで、闇に埋没する盲目にある者を教育し、支配してゆく。啓蒙としてのテクノロジーの先鋭化された形態が、『宇宙の小石』に登場する「シナプシファイアー」であろう。

 「シナプシファイアー」とは、物理学者アフレット・シェクトによって開発された「哺乳動物の神経組織の学習能力を高める装置」(p.53)のことである。脳の細胞間の隔壁の絶縁力を人為的に弱めることによって、学習時に生じる神経衝撃が隔壁を飛び越えやすくなる。その結果、「もっと早く考え、もっと早く学習できるようになる」(p.66)

 『宇宙の小石』の主人公ジョゼフ・シュヴァルツは、アクシデントに遭遇し、「一九四九年のからりと晴れ渡った初夏のその日」(p.10)から、遥かかなたの未来へとタイム・スリップしてしまう。その時代においては、ジョゼフの時代の言葉はもはや通じない。「シナプシファイアー」の手術を受けて、ジョゼフは未来の時代の言葉を短期間に習得することができる。手術の副作用として、彼は「マインド・タッチ」なる一種の超能力を身につけることになるのだが、ここで筆者が引っかかりを感じてしまうのは、ジョゼフの言語習得過程における固有な体験の欠落ぶりである。「シナプシファイアー」というテクノロジーによって、記号体系としての言語を、効率よくジョゼフは習得することに成功した。けれどもこの効率のよさが、生身としての言葉の事件性を消去し、希薄なる抽象としてのテクノロジーの限界を露呈させているように思える。言葉と人間の関係について小林秀雄は次のように言っている。

 〈子供は母親から海は青いものだと教えられる。この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもない赤くもないことを感じて、愕然として、色鉛筆を投げ出したとしたら彼は天才だ。しかしかつて世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ。それなら子供は「海は青い」という概念を持っているのであるか?だが、品川湾の傍に住む子供は、品川湾なくして海を考えまい。子供にとって言葉は概念を指すのでもなく対象を指すのでもない。言葉がこの中間を彷徨することは、子供がこの世に成長するための必須な条件である〉(「様々なる意匠」p.22―23)

 ジョゼフが習得した言語は、結局は、「概念」としての記号体系にすぎない。そこでは「品川湾」という固有の「対象」と遭遇する生きられた言語体験が忘れられている。ヘレン・ケラーがwaterという言葉と遭遇した時に生じたような一回きりの出来事性が見落とされている。小林秀雄は「Xへの手紙」の中で「俺はよく考える。俺たちは皆めいめいの生ま生ましい経験の頂に奇怪に不器用な言葉を持っているものではないのだろうか、と。ただそういう言葉は当然交換価値に乏しいから手もなく置き忘れられているに過ぎない」(p.247)とも書いているが、テクノロジーは結局「交換価値」をしか対象とすることができず、「皆めいめいの生ま生ましい経験」を取り逃がしてしまう。あるいは「皆めいめいの生ま生ましい経験」を、「交換価値」のシステムの中に平準(均質)化し回収することのうちに、テクノロジーの暴力性があると言ってもよい。

 「皆めいめいの生ま生ましい経験」を剥ぎとり、平和と幸福に満ちてはいる一方、恐ろしく抽象的でもあるような体制の維持管理を、歴史的に大がかりな規模で営んでいるのが、『永遠の終り』における「全時域評議会」と呼ばれる機構である。「全時域評議会」は、いうなれば、人類の歴史の上に立つ「官僚主義的な管理機構」である。彼らは、「ケトル」というタイム・マシン装置を操って、様々な時代を自由に行き来し、彼らの価値基準から逸脱する気配を察知すれば、その時代に介入し、「現実矯正」と呼ばれる取締りを遂行する。

 この世界では時間は二重構造になっている。まずひとつは、「永遠(エターニティ)」という抽象的な時間帯があり、これが上位に位置して、あらゆる時代(世紀)を見渡し、かつ監視する。その下位には、「時間(タイム)」と呼ばれる固有の時代(世紀)が位置し、「永遠(エターニティ)」に従属するかたちとなっている。このような様態は、上位としての「帝国」とそこに従属する諸地域との関係に似ている。経済的に言えば、基軸通貨としてのドルとその他のローカルな通貨との関係に、あるいは言語的に言うなら、共通語としての英語とその他のローカルな言語との関係に似ている。実際、『永遠の終り』では、中心となる「標準時間語」が特定の時代の「地方時域方言」より優位に立つ関係となっている(「ファウンデーション」シリーズでは、「銀河標準語」が帝国の言語を担っている)。このように空間の上下関係が時間に適応され、歴史それ自体がヒエラルキーの中に置かれている。そしてまた、「ケトル」は、エレベーターのごとく、上から下へと垂直線上を移動する装置として設定されている。ケトルが移動する垂直線通路の「下方時域」に過去があり、未開としての下方から上方へ上昇するに応じて、歴史はよりよくなっていくという進歩史観が、この作品世界を規定している(作品では、紀元二四世紀以前は「現実矯正」が触れることができぬ「原始時代」と呼ばれている。「永遠(エターニティ)」の原理が発見されるのが二四世紀で、「永遠(エターニティ)」が存在を開始するのは二七世紀とされている。二四世紀を下限とし、七万世紀を上限とする巨大な螺旋上昇的な円環が「永遠(エターニティ)」の世界であるが、最終的にこの円環は破られる)。

 時間を空間のごとく思考し操作しうる対象と看做すことは、果して正しいのかという問題は、ここでは問わないでおく。それよりもまず確かめておきたいことは、「永遠(エターニティ)」内を自由に行き来する「永遠人(エターナル)」のコスモポリタンとしての特権性である。アシモフ作品の論理と言っていい「コズモポリタニズムはローカリズムに勝利する」という構図がこの作品にも認められる(註12)。啓蒙する者としての「永遠人(エターナル)」と啓蒙される者としての「時間人(タイマー)」という図式が、ここでも成り立っている。

 聡明なる光が愚かなる闇を訓育するという善意の物語は、アシモフ作品のそこかしこで読み取れる。そうした光の善意が暴力と同義語となるに至るまで膨張しているのが、「第二ファウンデーション」の「発言者」たちや、ロボット(ベイリ刑事)シリーズにおけるジスカルドといった存在である。彼らは、いうなれば、「光の帝王」である。

 「ファウンデーション」は、それ自体、光である。「財団」をも意味するfoundationの基本的語義は、「創設する」ことであり、もともと、秩序としての光と緊密に結びついている。ハリ・セルダンによる「セルダン・プラン」は、帝国崩壊後三万年にもおよぶと予測される「暗黒時代」を、わずか千年に短縮することを目的として考案されている(いくら光は世界で最速だからといって、凄まじい光速ぶりである。『宇宙の小石』の「シナプシファイアー」と同型の発想である)。すこぶる健康的な向光性と言っていいそのプランのもとに、人類の文化の保存を目的とする「第一ファウンデーション」が設立される。そしてさらには、「第一ファウンデーション」と対になっているというよりは、それより上位にある「第二ファウンデーション」が密かに準備される。

 「第二ファウンデーション」は、セルダンの孫娘ウォンダが「精神作用」という特殊能力を持っていることが偶然発覚されたことにより発想された。「精神作用」とは、先に登場した『宇宙の小石』のジョゼフの「マインド・タッチ」と同じ能力で、他人の心を読み取り、そればかりか他人の心の傾向性に刺激を与えることで、意のままに操ることのできる超能力のことである(註13)。このような超能力者集団によって、「第二ファウンデーション」は、構成され、「第一ファウンデーション」を保護し、かつ、それが逸脱しないようにと監視を怠らない。

 ジスカルドも、同様に、人間の心を読み取り、それを操作する能力を持つスーパー・ロボットである。「第二ファウンデーション」もジスカルドも、本来的に「秘密の暗がり」としてあるはずのprivacyを、光の世界(publicity)へと引きずり出し、それを統治する権限を特権的に手にしている。彼らは、自分たちの特殊能力に善意だけしか見い出さず、その暴力性にはいたって無自覚である。なるほど作品中においては、彼らは悪事にコミットすることはなく、ミュールとは一線を画してはいる。けれども彼らの担う「光」は、光として許される限界点を超えて膨張しきっていると言わざるを得ない。

 「第二ファウンデーション」の光は、倫理的に罰せられるのではなく、光の膨張がその膨張ゆえに、無能力に陥るというかたちで、その限界に突き当たる。

(註12)例外的に『暗黒星雲のかなたに』では、反乱軍が帝国側に一泡吹かせる。帝国の長官は、「被征服者の幸運」を祈りさえする。ただし最後にアメリカ合衆国憲法前文が高らかに読み上げられ、(帝国としての)アメリカ万歳というメッセージが謳い上げられる。

 (註13)『宇宙の小石』における「シナプシファイアー」の話は、トレヴィズの同僚議員コンパーが聞いた伝説として『ファウンデーションの彼方へ』にも登場する。「ぼくが主に覚えていることは、それがうまくいかなかったということです。人々は利口になったが、若死にしたと」(下巻p.23)

(「アシモフの二つの顔――ファースト・ヴァージョン(5)」へと続く)
(2009・9・1)
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