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  「情熱の消滅」

 ある燃え上がった季節の余熱を、リアルなものとして感じ取ることのできた1970年の3月から1971年の2月にかけて、金井美恵子は、「現代詩手帳」誌上で、「絢爛の椅子」と題された長めのエッセイを書き継いでいた。そこには次のような言葉が読まれる。

 「わたしたちは異様な情熱によって支配された者の根源的な不可能性の中に、さまざまな事物が燃えあがるのを見るだろう。わたしたちを駆りたてるもの、わたしたちを作品行為へと駆りたてるものは、今、情熱のたどる悲劇として、あらわな原型をほのめかしはじめる。それはあきらかにひとつのそして無数でありあくまで唯一の悲劇的構造を持つものがたり群として、わたしたちに作品の意味を啓示しつづけている。魅惑された者がひきうけなければならない試練であり耐えることであり、魅惑しつくされることによって書く者を襲う狂気、性急すぎる不可能な願望の中で生きる者が経験する下降と上昇の運動である」

 西洋において、「情熱」を意味する言葉であるpassionは、同時に「受難」をも意味する。金井は「悲劇的構造」を、フーコーとともに「下降と上昇の運動」と定義しているが、それは「情熱=受難」の経験と同義である。受難者であること、「異様な情熱によって支配された者」であることが、本質的な文学者の条件であると私は考えている。私が、80年代以降の文学にどうにも興味をもてないのは、このような理由による(もちろん例外はあるが、それは80年代的なダブついた精神を免れている場合に限る)。上に引いた文章は70年代初頭においては、まだ、多くの人間の共感を期待することができただろうが、70年代末においては、かっこうの嘲笑の対象とされていた。例えば、村上春樹の文章の中に、上のような言葉を期待することは、まず、不可能である。

 村上春樹は1979年に『風の歌を聴け』でデビューするが、それよりも早く詩人として世に出た荒川洋治は、奇しくも同じ79年に発表した詩集『あたらしいぞわたしは』の中で、次のような村上春樹っぽい言葉を書いている。

さあ、みんな
くりかえすまでもないが
真芯を生きてはならぬ
生きては、ならぬ
守ってもらう(!)    (「広尾の広尾」)

 「真芯を生きようが、それをはずして生きようが各自の好き好きではないか。大きなお世話だ」と私なんぞは思ってしまうが、80年代前半においては、「真芯を生きてはならぬ」というのが、同時代の格率として頑としてあった。荒川洋治は、80年代の大衆社会に露骨なまでに同調する現代詩人として、自他ともに認められていた。

 荒川(1949年生まれ)よりは年長の征矢泰子(1934年生まれ)は、1980年に発表した詩集『てのひら』の中で、まるで荒川とは真逆の詩句を書いていた。

かくも容赦なくのっぴきならずひとであることの
あけてもくれてもひとでありつづけることの
そのむごたらしさのまんなかをこそ
おまえは生きよまっすぐに      (「息子に」)

 同系列の詩作品でいうと、征矢よりもさらに年長の堀川正美(1931年生まれ)の超有名作品「新鮮で苦しみおおい日々」の第1連は次のようなものである。

時代は感受性に運命をもたらす
むきだしの純粋さがふたつに裂けてゆくとき
腕のながさよりもとおくから運命は
芯を一撃して決意をうながす。けれども
自分をつかいはたせるとき何がのこるだろう?

 自分をつかいはたそうとする決意は、80年代の長い空白期を経て、ようやく回復の兆しが見出せるようになったものである。それは90年代に頭角を現してきた松本大洋のような作家によって担われた(「しかしこの作家は、現代マンガのうちに、往年のスポーツマンガの極端な熱狂を呼び込む契機を狙いつづけていて、だからこそ彼は、失われた「スポ根」ヒーローが回帰してくるための居場所としても、ある種の運動のユートピアに期待をかけつづけているのである」中田健太郎「ユートピアを開く力学」)。松本はマンガ家ではないかと、文句をつけられそうだが、少なくとも私にとっては、松本は村上春樹よりも重要な作家なのである。

 「79年」に話を戻そう。「芯を一撃して決意をうながす」運命とは、堀川正美にとっては、おそらく60年安保のことであろう(「新鮮で苦しみおおい日々」が収められた詩集『太平洋』は1964年に刊行されている)。まさに「時代は感受性に運命をもたらす」である。この時代性は60年代から70年代前半までは続いていた。「新鮮で苦しみおおい日々」の言葉の有効期限は、70年代前半までであったろう。そして79年に「真芯を生きてはならぬ」が発話された。荒川洋治は80年代を予告していた。同じ年に村上春樹は、デビュー作の中で次のように発話した。

 「気分が良くて何が悪い?」

 「別に悪くはないっす」としか応えられないが、反面、「機嫌が悪くて何が悪い?」と発話することの自由は確保しておきたいとは思う。上の言葉は、『風の歌を聴け』の中に、村上が登場させた架空の作家デレク・ハートフィールドのエッセイ集のタイトルである。村上の記述によれば、この作家は、銃と猫と母親の焼いたクッキー以外のものは憎んでいるような男で、1938年に母親が死んだ時、「右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたまま」エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りて「蛙のようにペシャンコになって死んだ」ことになっていて、じっさいは、そうとうに機嫌の悪い男だったようだ。けれども、村上の小説のこうした側面は、当時、文芸批評のフィールドでは着目されていても、サブカルチャーにおいては完全に捨象されていて、「気分が良くて何が悪い?」という言葉だけが1人歩きしていた。生半可な村上像がマスメディア内を流通していて、そうした状況を村上自身が利用していたフシもある。

 「気分が良くて何が悪い?」という言葉によって、「自同律の不快」は完全に息の根を止められた。当時はやたらと「快感原則」という言葉がもてはやされていたが、違和感としてある批評の出る幕はなかった。カントをみても判るとおり、「理念」は「快感原則の彼岸」に根ざしているのだから、この頃「理念」が死語になっていたのは理に適っている。90年代末になって、「理念」という言葉がテレビメディアですらもてはやされるようになったが、最近ではテレビのコメンテーターが、またぞろ、「理念は気持ちのいいものなんだ」と口からでまかせをやらかしている(不快を通しての快感という「崇高=サブライム」の経験はある)。フロイトは「自我はエス(イド)の上に築き上げられる」といっているが、それと同様「理念」は「快感原則の彼岸」の上に築き上げられるものである。口先だけのレトリックは空疎なだけである。論理=倫理=批評のことをあまり軽視しないほうがいい。「理念」を貫こうと思うなら、それしかないのである(後述するが、私自身は「理念」という言葉を積極的に発したことはない)。

 80年代には村上春樹と違う動きの試みもあった。82年の詩集『胡桃の戦意のために』で、平出隆は「打撃するものが不足していく。打撃せよ」と書いた。それより少し前に中上健次は、エッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』を出した(この本も『風の歌を聴け』と同じ79年に刊行されていて、そこには「状況の裂け目、存在の裂け目に身をもんでいる三十代の作家、誰がいるか、いやしないのである」という言葉も読まれるが、結局は、裂け目を隠蔽した三十代の文化人たちに状況的には敗北せざるを得なかった)。また83年に中上は、小説『地の果て至上の時』を出し、そこでは捻子くれた打撃が試みられた。「父殺し」という打撃の物語自体が空転し、自壊してしまうのである。この作品に先がけて1980年には、尾辻克彦が、「父が消えた」で芥川賞を受賞している。日本において、近代が奇妙な在り方をしていたのである。おそらく、ボタンの掛け違いはここにあった。父の抑圧の希薄が進行している傍らで、「大人vs子供」という偽りの図式が捏造され、「反近代」なる空疎な標語が飛び交っていた。いうなれば、モダンの条件がないところでポスト・モダンが叫ばれ、構築のないところで脱構築が持ち上げられていたのである。このことにいち早く気づいて、警鐘を鳴らしたのが、柄谷行人の「批評とポスト・モダン」(1984年)だった。

 このエッセイは、状況から頭一つ(いや二つも三つも)抜けていて、今読んでも非常に示唆にとんでいる。例えば「ケインズの可能性の中心」を無視したところでなされた日本の経済政策(高橋是清による金本位制の廃止――それは形而上学的意義がないゆえに、モダンの条件のないポスト・モダンでしかない)が、「近代の超克」派や「新青年」的なポスト・モダニズムと時代的に平行していることに注意を喚起している。このことは80年代半ばに生じた「新本格派」の推理小説やアニメーションのブームに対応している。事実80年代半ばには西田哲学=京都学派を評価する気運が盛り上がっていて、当時の首相中曽根は、それに依拠していた。「一即多、多即一という超論理は、何もかも「一緒くた」にする弁証法に転化してしまう。西田自身が日本の帝国主義的動機を哲学的に正当化する論理をそこから難なく紡ぎ出しえたのである」という言葉も読まれるのだが、このことは、いまもなお、「日本は多神教だから素晴らしい」という発言で繰り返されている。その次には「江戸時代を鏡とせよ」という発言が来る。だったらついでに「徳川家康って超イケてる」と発言してもらいたいよ。なんで「家康はダサいけど、織田信長はカッコいい」というふうになるのよ。論理的にめちゃくちゃ。ようするに「オイシイとこどり」したいだけなんだろ。ついでに言っておくと、多神教バンザイと言いながら「幕末の志士を見習え」という発言者も、けっこう無責任である。江戸は素晴らしいと言いながら、「家康はダサいけど、織田信長はカッコいい」というようなもんである。「明治維新は狂気の沙汰である」というほうが、まっとうな認識である。ところで「江戸」といっても、「元禄」の江戸もあれば、「文化文政」の江戸もあり、ヨーロッパでは「バロック」と「ロココ」に対応している。私は元禄=バロックには心惹かれるが、文化文政=ロココにはさほどの魅力は感じない。隠居してからはいいかなとは思うけど。「多神教バンザイ」と無邪気に発言している人には、次のような言葉を読んで欲しい、と私は常日頃思っている。

 「この会議のテーマが「平和のために書く」であることを私はよく承知している。私に課せられたセクションが「世界秩序をめぐる東アジア的な思考」であることも知らぬわけではない。にもかかわらず「平和」でもなく「秩序」でもなく、その対立概念ともいえる「葛藤」と「無秩序」に言及することでスピーチを始めたいと思う。(略)「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語を巡るごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい」

 これは2005年5月にソウルで開催された「第2回世界文学フォーラム」において読み上げられた蓮実重彦のスピーチの冒頭の一節である。アニメーション映画かなにかを見て、「日本は多神教だから平和だ」というような言葉が、どれほど抽象的かつ薄っぺらなものかがわかるだろう。にもかかわらず「政治家や官僚の言葉は薄っぺらでいかん」と発言するのだが、言葉を薄めることにジャーナリズムそれ自体が加担していることにもう少し自覚的であってもいいと思う。上に引いたような言葉に、テレビメディアにおいて、私は出会ったことは一度もない。

 またも話がだんだんと長くなりつつあるので、唐突だが、ここでいったんこの稿を終了することにする。「ハイカルチャーとサブカルチャーの行き違い」という(仮)タイトルで、この続きは、稿を改めて続行したいと思う。

(2007・2・20)
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