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  「「村野四郎の『体操詩集』」

 1984年のロス五輪開催の頃、ラジオのFM放送でオリンピックにあやかって、村野四郎の『体操詩集』を紹介していた(ほぼ同時期に同じくFM放送で印象に残っている特集があり、このことについての記述を<附録>として文末に置く)。

 村野四郎については、中学生の頃、国語の教科書でその作品を見かけた記憶があったのだが、その時の印象は「つまらないなあ」というものだった。教科書に取り上げられる「詩」というのは、どうしてああも退屈なものが多いのだろう?だからその時も何の期待もなしに聞いていたのだが、思いもかけない新鮮な感動を覚えたのだった。3,4篇ほどの作品が女性アナウンサーによって読み上げられたのだが、どの作品であったかは残念ながら正確には記憶していない。次のようなものではなかったかと思う。2篇の作品を紹介する。

花のやうに雲たちの衣装が開く
水の反射が
あなたの裸体に縞をつける
あなたは遂に飛びだした
筋肉の翅で。
日に焦げた小さい蜂よ
あなたは花に向かつて落ち
つき刺さるやうにもぐりこんだ
軈て あちらの花のかげから
あなたは出てくる
液体に濡れて
さも重たさうに  (「飛込」)

僕には愛がない
僕は権力を持たぬ
白いシャツの中の個だ
僕は解体し、構成する
地平線がきて僕に交叉る

僕は周囲を無視する
しかも外界は整列するのだ
僕の咽喉は笛だ
僕の命令は音だ

僕は柔い掌をひるがへし
深呼吸する
このとき
僕の形へ挿される一輪の薔薇     (「体操」)

 『体操詩集』は昭和14年12月に刊行されている。同時期の日本の詩の世界には「四季派」や「日本浪漫派」が活動していたが、この詩集のメカニズムは彼らのそれとは異質である。村野自身が「ここでは一切の叙情的な想像を排して、冷静なカメラ・アイによるように、物そのものがとらえられている」と語っているごとく、テクノロジーを介在させた後に見出されるような世界が描かれている。ただし村野があまりに楽天的に語るところの「物そのものがとらえられている」かどうかは、甚だ疑問である。「僕の形へ挿される一輪の薔薇」という詩句は「物そのもの」の美学的なイメージであろうし、そのような美学的なイメージを解体するように働くのが「物そのもの」であるのだから。そもそも人間の統御や想像を裏切るようにあるのが「物そのもの」の属性である。

 ところで私が参照しているのは日本図書センターから出されている初刊の愛蔵版である。この版には15点の競技写真が載せられているのだが、それらはリーフェンシュタールとウォルフによる撮影である。その事実を知ったのはつい最近であるが、「やっぱりそうだったか」というのが私の感想であった。村野のこの詩集からは、リーフェンシュタール的な美学を感じていたのである。

 言うまでもなくリーフェンシュタールは、ナチス政権下で開催されたベルリン・オリンピックを記録した五輪映画『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』)の監督である。この映画を村野が見ていたかどうかはわからないのだが(日本での公開は昭和15年である)、対象の把握の仕方はほぼ同質であると言っていい。スローモーション撮影とクローズ・アップによって、肉眼では捉えることが難しい選手の身体の表情に接することができる。このとき旧時代的な精神性は払拭されているのだが、一方で機能主義的美学の蠱惑が輝きだす(村野自身建築家のル・コルビュジエの名前を出してこの詩集の意図を説明している)。

 『民族の祭典』は一応ノンフィクション映画であると言えるが、この作品の導入部は、ギリシアの古代遺跡の映像が続き、次いで同様にスポーツに興じる古代ギリシア人の彫刻の映像が映し出され、そのうちのひとつである円盤投げをする男の彫刻が生身の人間へとオーヴァーラップするという演出がなされている。明らかにリーフェンシュタール(およびヒトラー)は、20世紀の神話を描くことを目指している(ここの部分は私は観ていて恥ずかしかった)。近代科学的合理主義によってもたらされた「脱魔術」の時代に、「神話」への要求が強化されるという逆説がある。

 この映画は日本で公開された当時、熱狂的な反響を呼んだようで、その熱狂の渦中にいた淀川長治は、この映画の力で日本はドイツ贔屓に傾いたと証言している。小林秀雄もまた、この映画を見て「文藝春秋」に「オリムピア」という文章を発表している。

 「「オリムピア」という映画を見て非常に気持ちがよかつた。近頃、稀有な事である。 健康といふものはいいものだ。肉体といふものは美しいものだ。映画の主題が、執拗に語つている所は、たつたそれだけの事に過ぎない……」

 淀川も小林もともに、ファシズムの美学に心身を痺れさせられてしまっている。「ファシズムの可能性の中心」は陶酔の中で充実した人生を取り戻すことにあり、それは「数と凡庸の支配」によって危機をもたらす資本主義に対する右からの批判という善意を孕んだモティーフに発祥する(左からの批判はコミュニズムである)。だからファシズムは異常事態というよりは、正常と思わされやすい事態なのである。なにせ「政治の美学化」なのであるから。例えば私は、「健康といふものはいいものだ」という言葉には、けっこう親和しやすいタイプである(90年代にはベルグソンの生の哲学=ファシズムに対する批判的視点が存在していたが―この原稿はそれに影響を受けている―現在はそうした傾向が希薄になっている)。

 アスリートの肉体というのは、三島由紀夫がそこにおのがロマンティシズムを見出したように、幾分かは不自然なほどに均整美がとれてしまっているものである。であるがゆえにそれはイデオロギーにたやすく転化されやすい。リーフェンシュタール=ヒトラーは、意識的にも無意識的にも、アスリートの身体映像の中に、彼らのけっして非人間的とは言えない美学志向の欲望を投射している。「健康といふものはいいものだ。肉体といふものは美しいものだ」と、無防備に書いた小林秀雄は、リーフェンシュタール=ヒトラーの術中にはまってしまっている。

 じっさい小林の「オリムピア」という文章は、「様々なる意匠」に見られた研ぎ澄まされた緊張の力が、幾分弱まっており、小林の宿痾といえる「常識」が顔を覗かせている。「常識」とはコモン・センス(共通感覚)のことだが、共通感覚は五体満足の身体を前提としている。ナチスはアスリートの身体を賛美する一方で、身体障害者(五体不満足)の身体をユダヤ人と同じように排除したのであった。ではこのような美学にはどのように接したらいいのか。ひとつは、スガ秀美のように、マシーニックなボクサーの身体の傍らに、ノイズを孕んだプロレスラーのキッチュな身体を対置してみせることである(アマレス選手の身体はむしろボクサーのそれに近い)。別のやり方には、寺山修司が試みたように、私たちが無自覚のうちに信頼を寄せている認識の構図に亀裂を走らせることである(以下<附録>の文章へと続く)。

 <附録>
村野四郎の「体操詩集」のことをFMラジオで知った同じ年、FM東京に興味深いコーナーがあった。確か「寺山修司の実験」というタイトルのものであったように思う。いくつかの試みが紹介されていたが、その中のひとつが今でも記憶に焼きついている。

 それは「生まれつき目の見えない子供たち」に、寺山が「色」を音で表現してもらうという試みであった。「白」や「緑」の色を、ピアノの鍵盤やヴァイオリンの弦を鳴らして、子供たちが「伝達」しようとするのである。正直に言って、私にはなぜそれが「白」であり、「緑」であるのかは、まったくわからなかった。どう頑張ってみても音と色の対応がイメージできないのである。たぶん子供たち自身にも不可能な試みであったのだろうと思う。彼らの発するあれらの雑音のような音は、越えることのできない溝を前にして途方にくれる肉体が洩らす呻きではなかったか。今にして思えば、寺山はその「溝」そのものを露呈させたかったのではなかったかと推測する。

 「現象学」という学問に「間主体(観)性」という概念がある。「間主体(観)性」というのは、自己と他者の間に想定される仮想的主体のようなものである。単純に言ってしまうと、自分と他人は同じような人間なのだから、自分が考え感じることは、他人にもそのまま当てはまるというものだ。そこで私が思うのは、前々から現象学の専門家に聞いてみたかったのだが、現象学が言うところの「間主体(観)性」というものは「五体満足」を前提としているのではないか。先にあげた「目の見えない子供たち」と健常者たちとの間における「色」を巡ってのコミュニケーションにおける具体的困難は、現象学を破産させるのではないか。

 現象学を全否定するつもりはないのだが、やはりそれには限界があることには注意を喚起しておきたい。すべてを透明化することが出来る、不透明なものは「悪」である、とするレヴィナスがいうところの「全体性」の概念を現象学は担っている。例えばそれは「本来性(故郷)を取り戻せ」とするハイデガーの哲学で会ったりするわけだが、誰もが知るようにそれは「血と大地」のナチズムに結びついた。レヴィナスはナチスの収容所にいた人である。レヴィナスはその体験を通じて「倫理的な壁」について深く考察した。「倫理的な壁」とは「他者の他者性」のことである。「バカの壁」のことではない。

 「バカの壁」(養老孟司)がベストセラーになったことは記憶に新しい。人間どうしの間にはどうしても理解しあえない壁があると、厳しくも倫理的なことが書かれてあったように記憶していたが、あまりにも売れすぎたせいか、「バカの壁を越えて理解しあおうよ」的な口当たりの良い趣旨に、養老自らが微妙に態度をスライドさせていったフシがある。上記のレヴィナスについては養老も文章を書いている(「万物流転」「考える人」No.15)。養老のユダヤ人への違和感が鮮明に出た文章であり、「こういう私自身の感覚からすれば、たぶん私はたかだかナチスにはなれても、ユダヤ人にはなれないのかもしれない。しかし暴力が嫌いだから、ナチもダメか」とも書いている。確かに養老の感覚は反リベラルなものである。そのことを彼はきちんと把握しているので、私はそれは評価する。凡庸なジャーナリズムの空疎な言葉よりは、養老の言葉は貴重なのである。

 ところで「万物流転」は古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの考えであるが、彼の考えの土台には「火の運動性」がある。彼は「闘争は万物の父」とも説いていて、要するに「弁証法の思想」のことなのだが、これは社会的には「階級闘争」として表れる。ゆえにレーニンは、ヘラクレイトスの言葉を「弁証法的唯物論のひじょうにすぐれた叙述」と評価した。こうした事柄を養老はどう考えるのだろうか。「弁証法」はきわめて西洋的な原理なのであるが、「予定調和(反闘争=徳川体制)」が身に染み付いている養老の感覚とそれは馴染まないように思えるのだが。私の考えでは、養老の「自然観」はデモクリトスの「予定調和」を土台に、都合によってエピクロスの「逸脱運動」が密輸される、というものである。都合のいい時に「ユダヤ的なもの」が利用される現象に似ている。誰もが同じようなことをやっているのだから、べつだんいちいち目くじらを立てるつもりはない。自覚することは必要だとは思うが。「自覚」は「自己批判」の可能性ではある。

 話が思わぬところへと展開してしまった。ともあれ寺山修司的な批判的感性が、いまは懐かしく思う。寺山修司やスガ秀美や丹生谷貴志が担っていた(いる)ラインが、今後は先細りになり、やがては消滅するのではないかという危惧の念を抱いているしだいである。今回の原稿はこれでおしまい。

(2006・4・1)
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