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  「最近の読書から(1)―『戦争と万博』他」

 (1)『戦争と万博』(椹木野衣)

 1969年アポロ11号による月面着陸成功。翌1970年大阪万博の開催。私の記憶の中ではBGMとして水前寺清子の「365歩のマーチ」が鳴り響いていた。当時の私が(6〜7歳)、まったく手のつけられていない可能性しか持ち合わせていない子供だったからという理由ばかりでなく、なんだか世の中全体がめったやたらとポジティヴであった(私の記憶においては)。私は、浅はかな単純さは醜悪なポピュリズムとして斥ける人間だが、それでも私のメンタリティーの根底に、気恥ずかしくなるほどにポジティヴィティを肯定する部分が残されているのは、この時代の空気を思う存分に吸い込んだからであろう。

 私と同年生れの椹木野衣が、『戦争と万博』と題されたなかなか刺激に満ちた本で取り上げているのは、大阪万博EXPO’70という一大イヴェントが孕んでいた「戦時概念」というともすれば人が見落としがちな重要な側面である。戦後の万博の30年前に(1940年)日本は紀元2600年を記念して、オリンピック大会と併せて東京の月島埋立地での万国博の開催を計画し前売り券までもが売り出されたが、15年戦争の勃発により中止を余儀なくされた。ここから椹木は戦前と戦後の連続線を見出し、プロジェクトなるものが元来持たざるを得ない「直線性」の運動と「曲線性」を担うものとしての「前衛」との相克の劇を視界に浮上させようと試みる(思考停止や批評が無力化するなかで「葛藤」や思考の運動を取り戻そうとする椹木の動機は貴重である)。結論から言ってしまえば、前衛は見事に手なずけられてしまったことを椹木は確認する。「戦後の前衛諸派が、ひとたび国策としての「万博」のために資本を投入され、機会を与えられると、あるものは率先して、またあるものは不安を抱きながらも、「未来」のための芸術を共同して手掛けるようになっていった」

 けれどもあらゆる葛藤を無効化して、大勢の流れを肥大化させてゆくあまりに無葛藤に明るい一般向けする物語に対して、そこには収まらない様々な矛盾や逸脱を丹念に掘り起こして、一般向けしない物語(「前衛」というやつはまずは「大衆」からは嫌われる)を編み上げることに取り組む椹木の試みは、前衛左翼の面目躍如であると言っていい。(ただし後述するように逆に椹木は「左翼の物語」に乗っかりすぎているきらいが無きにしも非ずである)。例えば戦前の「満州国」と戦後の「大阪万博」に潜む無意識的な意図があぶり出され、両者に関わった人物たちの言動が実証されてゆく(いい気分だけを味わいたいと思っているような人間からは顔をそむけられるだろう)。その中心人物であった丹下健三が、この書物が刊行された2005年(当然「愛知万博」の開催を意識してタイミングをあわせている)に死去したことはなにやら因縁めいている。

 さらにこの書物は「満州国」の重要人物甘粕正彦の映画選民としての側面を描き出して啓蒙的である。いうなればヒトラーがやったことを満州においてやったわけだが、「戦中に満映で甘粕の薫陶を受け、本国よりも早く先進的な映画作りの技法や技術を学んだものは、甘粕なきあと国に戻ると、東映や日活をはじめとする映画界の中心人物として、戦後の日本映画を引っ張る原動力となっていく。いってみれば今日の映像産業のハイテクノロジー化、エンターテインメント化は、その人脈の延長線上にある」ということが指摘されるのだ。

 このような「歴史的事実」を「事実の現実性」として捉えようとする視線の回復は、この書物の大きな功績である(今や「写真装置」の公正さよりも「鏡」の安楽さに流れていっているのだから。「マンション耐震偽装事件」は「楽になりたい」という願望が行き着いたグロテスクな姿だもの)。けれども、先にも述べたように、私には、ある部分で椹木が「左翼の物語」の「物語性」に十分に抗えずに敗れてしまっているように思えて、そこのところが残念なのである。

 丹下健三や浅田孝や田中角栄らの「直線志向」に対して、岡本太郎や網野善彦や中沢新一らの「曲線志向」を対置して「クリナメン」の擁護を試みる最終章は、この書物の大きな読みどころのひとつであろう(確か中沢新一が愛知博に関わっていたと記憶しているが、それについての言及はされていない。その点は疑問が残る)。「こうして考えたとき、浅田の「開発論」のほんとうの問題は、彼の「環境」概念が精緻である一方、ほとんど知のエンジニアリングといってよい直線志向ゆえに、日本列島から、人が生きる風土というディテールを捨象してしまっていることだろう。その結果、浅田の「開発論」は、国土を測量・開発可能な「土地」として捉ええることはあっても、日本列島をその地形的・気候的・民族的多数性/多様性において捉えることが、ついにできなかった」べつだんこうした意見に反対するつもりはないし、比較的良質な言葉から成り立っていると感心すらする。けれども「人は曲線のみを生きるわけでもあるまい」とふと思ってしまう。直線を生きるのも人の具体的な人生の姿なのではないのか。直線と曲線の両方を生きるのが真の多様性といったものではないのか。網野の歴史観を引きつつ、椹木は「ヤマトという古代国家」以来の道路行政に見られる高速道路を代表とする「直線志向」を告発する。しかしそれから随分と恩恵を享受した庶民も多いと思う。角栄神話は「道路」にあるわけだし、地方の高速道路を巡っては今でも地方代議士と地方庶民が手に手を取り合っている。「直線」は権力者とのみ結びつくわけではない。

 「直線と曲線」という図式に拘るあまり、椹木は現実の多様性を見る視線を放棄しかかっている。左翼的な物語がクリナメンの運動を抑圧する可能性もあるという危険に鈍感であってはならないのではないかと危惧してしまう。

 そういえば80年代に「車のハンドルは遊びの部分がないと危険だ」という言い方が流行ったことがある。硬直した真面目さを戒める言葉なわけだが、遊びの部分ばかりのハンドルも危険極まりなかろう(そもそも遊びの部分ばかりのハンドルでは車がまっすぐ走らない)。遊びの部分が肥大化したことにより時代のたがが外れたようにも思うが、このことは後で取り上げる香山リカの本のところで述べることにする。

 ともあれ椹木の近作は、今や反時代的な硬い書物だが、「教養は武器である」という遥か昔に打ち捨てられた(本当は忘れてはならない)一事を思い出させてくれて極めて貴重である。

 (以下「最近の読書から(2)―『凍』その他」へと続く)

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