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　「不快の承認―柄谷行人（２）」

　「グローバリゼーション」なる概念が一般常識化したことや、その背景としてある「資本主義は本質的に世界資本主義である」という決定的な事実が、我々の「生」を規定していることを認めぬわけにはいかない状況があからさまになっていること（日本経済はアメリカや中国なしにはもはや成り立たない）や、そしてまた近代哲学の「同一性」に対抗した現代思想の「差異」の哲学がようやくそのマイナー性を脱したこともあってか（むろんこの背景には資本主義の「自然成長」的な運動があることを認めないわけにはいかない。いうなれば近代哲学が「国内資本主義」だとすれば、現代思想は「世界資本主義」だからである。この動きへのリアクションとして「ナショナリズム」が各地で興隆していることは我々が目撃していることである）、近年のメディアにおけるトレンディーな言説のひとつに「世界には多種多様な意見があります。だから楽しいんですね」というものがある。

　それに反対するつもりなど、毛頭もありはしない。けれども上記の意見は決定的なことを捨象してしまっていることに危惧の念を覚える。そこで捨て去られてしまっているものは、次のような当たり前の現実である。「多様性なるもの、つまりは他者の他者性を体験することは楽しいことや快楽ではあるが、と同時にそれは苦痛や不快を味わうことでもある」という現実である。

　楽しさだけの「多様性」というのは、他者の他者性を剥奪したイメージとしての他者というものにすぎず、そこには欺瞞やそうとは自覚されにくい「暴力」がある。なぜこのような「不公正」が選ばれてしまうのか。理由はいたって簡単である。「鏡の世界」の心地よさに固着するあまり、それを突き破る「批評」の力が麻痺させられているからである。ここでいう「批評」は「鏡」に対立する「写真装置」に対応している。

　今からほぼ20年前（1982年）に柄谷行人は「鏡と写真装置」（『隠喩としての建築』所収）というエッセイを発表している。とりわけこのエッセイが数多くある柄谷の論考の中で、特異な結節点をなしているというわけではない。その出発点からずっと「鏡と写真装置」におけるダイアローグが、彼の唯一の「問題」であるといっていいくらいだ。

　例えば文壇デビュー作である「意識と自然」は、「鏡と写真装置」の原型的構図であるし、当時は「共犯的反省」（馴れ合うしかない偽りの批判―具体的に言うと、企業や役所などが不祥事を犯した時に、第三者的機関を除外して仲間内だけで調査委員会を設立して、問題解決のポーズを取り繕うパターン。「情」という言葉が巧みに用いられたりする。「情」という言葉は「鏡」という装置の側に属している）という言葉が「鏡」という装置の弱点や欺瞞性を現すためによく用いられていた。80年代以降は「内部と外部」という言葉が「鏡と写真装置」という問題系に対応していることは誰もが知っていよう。

　ところで「鏡と写真装置」というフレーズをはじめて聞く人のために、若干の説明をしておこう。フーコーは、近代の「主観性」を鏡の使用の増大と結びつけてみようとしたが、ようするに「鏡」という装置はナルシステックなモノローグ的感性を培養させやすいのである。よくいわれる「褒めて育成する」というやつがこのパターン。私もこのほうがいいと思っている。誰もがタフなわけではないのだから。けれども経済活動にしろ、学問にしろ、タフさは貴重な資質なのであるから、「タフさ」を消し去ろうとする動きには反対を表明しておきたい。「ヤワにも五分の魂」という謙虚さは必要であろう。もちろん「繊細さ」もまた貴重な資質である。

　「鏡」に対して「写真装置」は「テープレコーダー」が典型的にそうであるように、異様な客観性を露出させる。これらの装置は「この顔（声）は私のものではない」といういたたまれないおぞましさの感覚を引き起こすのである。自己愛的な主観性を打ち砕くのは、写真のような主観を突き放す客観（現実）性である。

　思想的に言うと、「哲学者たちが自分でそう思っている姿と、現実にある姿はちがうのだ」というマルクスのイデオロギー批判がある。はからずもマルクスは、ニーチェがそうであったように、思想史において「写真装置」の役割を果たした。ここにもう一人、フロイトをつけ加えることも可能だ。フロイトは「無意識」という「他」なるものを発見することによって、「意識」という「鏡」の限界を暴いた。むろんこのことだけをフロイトの功績とするのは不十分で、フロイトには「前期」と「後期」というものがあり、前者はバフチン（神経症モデル）の、そして後者はカント（快感原則の彼岸）の「可能性の中心」に対応している。

　フロイトの「快感原則の彼岸」が出たところで、坂口安語的な風景へと赴くことにする。安吾は「文学のふるさと」と題されたエッセイの中で次のように言っている

「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。（略）そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
　私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる―私は、そうも思います。」

　「他」なるものに突き放されること、すなわち「出来事」そのものを生きることに、安吾は「文学のふるさと」（文学の条件）を見出している。そして「文学のふるさと」とは、何度も「むごたらしい」と繰り返されているように、強度に満ちた苛酷な風景のことなのである。

　「風景の強度は、精神の強度である」と書く柄谷行人は、安吾の好む風景に、「一切の“人間的”な親和性を寄せつけぬ、抽象的で無機的な世界」を見出している。その根底に、柄谷は、「ユダヤ教的な緊張」を感受するのだが、安吾＝柄谷的な風景は日本自然的な予定調和の風景とはまるで異質である。というよりも、安吾＝柄谷は日本的風景を、特異性であるべきはずの真の風景を馴致する偽りの風景として、告発する。だがそれは、一級の文学者であるならば、当然のことなのだ。「風景の強度は、精神の強度である」という柄谷の言葉には、さらにその直後に「それは言葉の強度である」とつけ加えることが可能だ。江藤淳は「宿命的な構図にあわせて世界を切りとる」少数の作家と、それができずに、「流通貨幣のような一般概念によって、世界を解釈するにすぎない」群小作家がいるといっているが、「宿命的な構図」とは各個人の「出来事」とともにある固有の風景のことである。近年よく耳にするようになった「胸に響く言葉」は、必ずこの「風景」とむすびついているものなのだ。

　風景と人間とののっぴきならぬ関係を、明瞭に自覚していたのは小林秀雄だった。小林は「手帖Ⅰ」のなかで次のように言っている。

　「或ものに対する人々の憑かれた想いは（単なる先入主でも、嫉妬の情でもいい）、この想いの始まった瞬間のある風景に最も密接に繋がれているものだ。だが憑かれた人々は自分のやりきれない想いの源を、ただ自分の心理のうちに捜そうと苦労する。そして見付け出すものは、自分の想いの対象そのものに過ぎないので、これが嵌めこまれている風景は必ず忘れられている。
　だからこの対象そのものが、思い掛けない風景のうちに生きているのに偶々出会う時、憑かれた想いも亦思い掛けなく破れてしまう」

　フロイトならば、この風景のことを、「トラウマ」という言葉で呼ぶかもしれない。フロイト理論によれば、患者は「原光景」を自覚した時に、トラウマからの解放を成就するという。パルジファルの口を借りて「傷は、傷つけた槍によってのみ癒される」と言ったワーグナーもまた、このことを肉体的に知っていた。さらに次のような引用を二つ並べてみる。

「バタイユが、過剰の消尽を通して獲得的・成長的・利害打算的意識（何ものかの意識）を放棄することが、聖なるもの・存在の連続性・たえざる人間への生成であるとのべたことは、身体論に関してもきわめて重要な意義をもつ。なぜなら、それは間身体性が、裂開とともに裂傷を不可欠のモメントとすることを言うにひとしいからである。あらゆる意味をこめた「過剰の消尽」ないしは「供犠」とは、裂開である。知覚的開けは、同時に知覚的被虐性（裂傷）である。バタイユ的用語法でいうと、根源的な「人間への移行」は、根源的な存在論的贈与に属する。「ある」（イリヤ・エス・ギープト）は、「開け」であるが、この開口は暴力的にこじ開けられる」
　　　　　　　　　　　　（今村仁司『暴力のオントロギー』）

力が働くのは、傷を治癒するためではなく、もはや治癒しすでに痕跡と化したかに見える傷口に、絶えず現在であるものの具体的な痛みをかきたてつづけるためである。それは「形式」や「構造」を標定しようとするシェーマ化の作用ではなく、内部と外部との分割を装いながらしかしその境界を絶えず曖昧に無効化しつづける倒錯的な傷を、擬態の実践そのものとして思考において現実化している暴力的な体験である。それを「差異」の体験と呼ぶことはたやすい。だが、この「差異」の一語自体すでに、刻みつけられた傷を痕跡として誇示している言葉である」　（松浦寿輝「不在の傷の現前」）

　どちらの文章も80年代に書かれたものである。しかしそのどちらもが反80年代的であることが今やはっきりしていることに、複雑な感慨を覚えずにはいられない。結局のところ80年代とは、「差異の体験」をあってはならぬ間違いとして、その可能性の芽を摘み取り続けた時代であったのである。むろん80年代にも「イメージとしての差異」はあり続けた。それを担ったのは当時の首相中曽根康弘であった。

　岩井克人との対談で柄谷は次のように述べている。

「これは具体的に、中曽根の政策につながったと思う。中曽根はコメは切り捨ててよろしい、徹底的な自由化をやるべきであると考えていたと思いますが、たんに政策としてではなく、日本の戦略としてイデオロギー的な裏づけを必要とした。それを提供したのが新京都学派だった。日本人はもともと「国際的」である。アジアのさまざまな血が混じっている、というほうが、環太平洋（大東亜共栄圏）を確立するのにふさわしいですからね。（略）だから、中曽根を「日本人単一民族説」の代表のように見なして、それを批判すればよいと思った人たちは、まちがっていた。天皇制を批判するのに、多数民族とか先住民、南島その他をもってこようとする発想そのものが、この時点で破産していたことを知るべきだったのです」このことは今もなお続いている。反権力を標榜しているジャーナリストやサブカル文化人が、無邪気に「多様性云々」と言っている。べつに絶対に悪いとは私は思っていない。全く無いよりはこうした発言はあったほうがいいと思っている。ただ「底が浅いなあ」と感じることもあったのだが、テレビだから選挙中の政治家と有権者の関係のように、「コア」なことを言うのは自分の首を絞めることになりかねないと判断してそうしているのだと、好意的に見ていた。けれども最近は、この人たちは「差異の体験」を知らないがゆえに、こういうことになっているのではないかと、いやーな不安を持つようになってきた。「差異の体験」のない所で「多様性」と言ってみても、「同一性」の論理の中で戯れるしかないのは目に見えている。
　差異とは、今村が「裂開」と呼んだもの、松浦が「傷」と呼んだものであるが、スラヴォイ・ジジェクであれば、「裂け目」や「亀裂」という言葉を使うかもしれない。ジジェクの次のような言葉は肝に銘じておく必要がある。
　「人間は―とヘーゲルは語りき―「死の病に冒された動物」、すなわち貪欲な寄生虫（理性、ロゴス、言語）に侵略された動物である。この視点に立てば、「死の欲動」というこの根源的否定性の次元が、疎外された社会的条件の表現であるはずがない。それは人間の条件そのものを定義づけているのだ。解決はありえないし、それから逃げることもできない。すべきことはそれを「克服」「廃絶」することではなく、それと折り合いをつけ、それをその恐ろしい次元の中に認める術をおぼえ、そしてこの根本的認識の上に立って、それとの間に和解協定を結ぶことである。
　すべての「文化」はある意味で反動形成である。つまり、人間に自然や動物的恒常性との臍帯を断ち切らせた不均衡・外傷的核・根源的対立を制限し、水路をつけ、育てようという試みである。その目的はもはや欲動の対立を廃絶することではない。それどころか、それを廃絶しようという希求こそがまさしく全体主義の誘惑の源泉なのである。最悪の大量殺人やホロコーストはつねに、調和にみちた存在としての人間の名において、対立も緊張もない「新しい人間」の名において、なされてきたのである」
　　　　　　　　　　　　　　　（『イデオロギーの崇高な対象』）

　全力を挙げてこれと戦わねばならないとは、今のところは思っているわけではないけれども、なんともいやーな感じがして、ひとまずは警戒感を持っているものに「人間力」なる言葉がある。誰が言い出したのかは知らないが、どうせトロい広告文化周辺の人間がこの言葉は大衆にアピールするとでも思って使い出したのだろうと思う。この言葉を口にしたがる人間は、「人間力」なる言葉に「対立も緊張もない」「調和にみちた存在」のイメージを思い浮かべているのだろう。けれどもジジェクの上記のような認識を抜きにして、人間を把握することは、あまりに軽薄すぎる。存在の裂け目、根源的否定性を無視して人間を考える人間は、私に言わせれば、それこそ「人間力」が欠如しているとしか思えない。

　「日本は多神教だから優れているんです」とか言っている連中も上のような軽薄派である。先に触れた中曽根＝新京都学派と同じである。「差異」に触れた経験がないところから、このようなチョンボをやらかすのだと思う。一神教的なるものは、「差異の体験」そのものから来ているのだといっていい。そして「差異の体験」を知らない人間たちは「対立」や「緊張」を上手に生きる方法を編み出すことができない。彼らは「対立」や「緊張」そのものを「悪」とみなして、これらを「廃絶」しようとするだろう。しかも「この廃絶は調和と平和の達成なのです」と朗らかな表情さえ浮かべながら。先の原稿（「硬質な夢」）で、「仲良く喧嘩しよう」と「対立」や「緊張」の擁護にまわったのは、こうした漠たる不安感からである。では広告文化人たちと敵対関係に入るつもりなのかというと、今のところそこまでは追い込まれてはいない。

（２００５・１１・１）

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