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  「マイク・パフォーマーとしてのハップとレナードその他」

 別個の二者をあえて対立させ、その優劣を競い合うといった儀式にとりわけ強い関心を持っているわけではないが、プロレスとボクシングという2つの格闘技のうちでなら、私はどちらかというとボクシング派である。ただしプロレスには本編の試合とは別箇にマイク・パフォーマンスなるコーナーが設けられていて、口達者なマッチョが巧みなレトリックを駆使して、対戦相手や観衆を挑発し、会場を盛り上げるイベントが用意されており、これがなかなかのエンターテイメントなのである。ジャイアント馬場とラッシャー木村の試合におけるラッシャーの話芸は、私のけっこうお気に入りであった。ボクシングにも辰吉丈一郎や、その後継者として最近注目を浴びている亀田興毅のビッグマウスぶりが人気を集めてはいるが、私はラッシャーのわびさびのある味わい深さに肩入れをする。

 ところで(私はそちらの方面については詳しくはないのであり、きちんとした情報は呈示できそうにないので、その点に関してはご容赦願うしかないのだが)、本場アメリカのプロレスのマイク・パフォーマンスは、西部のホラ話あたりに源流があるのではなかろうか。マーク・トウェインの作品がこの土壌から生れたのはよく知られた文学史上の事実であるが、日本でも落語と漱石の『吾輩は猫である』の関係がそれに対応している。

 落語の場合は、八っつぁん熊さんに代表される町内という村落共同体の予定調和的な世界が多いが、一方アメリカン・コメディの世界はそういう予定調和の保護を剥ぎ取られた「無頼」たらざるを得ない環境を土壌とし、そうであるがゆえにハイ・テンションなパワーが装填されているように思う(アメリカとイギリスという一般的な比較においては、私はどちらかというとイギリス派だが、ことエンターテインメント―特にお笑い―に関しては断然アメリカ派である。イギリスにもヒューモアはあるが、こちらの方はどうも、日本でもたまに見かける「クラシック音楽をネタにした冗談」のようで腹の底から笑うことが難しい。高級インテリと目される人がこの手のことを試みて失敗する場面を時々見かけることがある)。

 むろん日本にも折口信夫が注目した「無頼」の系譜はあり、現代では中上健次の作品に登場する中本の一統のような連中もいる(中上信者ほどには私は「中本の一統」に好意を持ってはいない。むしろ彼らの対極にあるような東堂太郎(『神聖喜劇』)のような人間に変革の可能性を見る。働きもせずに昼間からヒロポンでラリりやがって、と「中本の一統」には嫌悪感を持つこともある。大きなお世話だが、彼らにちばあきおの佳作『キャプテン』を渡して「ここには君たちの100倍は美しい青春が描かれているよ。読んでごらん」と神経を逆なでするような発言をし、挙句の果てには「夜明けの海岸をランニングせよ」と説教して、半蔵やオリエントの康から袋叩きに合うかもしれない。あの温和なオリュウノオバすらも、杖を振り回して殴りかかってくるかもしれない)。

 中上に比べれば普通の作家(人畜無害の作家に比べれば過剰と言えるが)と言える奥田英朗による直木賞受賞の快作『空中ブランコ』の伊良部一郎のような男もいるが、彼が(おそらくは建前とはいえ)世間的には反市民的な変人扱いされている様子を見ると、文化的に衰弱しているのではないかと、どうでもいい危惧を抱いたりもする。

 そのような環境がなせるわざなのであろうか、これだけヴァラエティー番組が隆盛でありながら、ランズデ―ルやハイアセンのような作家の人気があまりないというのはいささか不思議ではある(本国アメリカではハイアセンは多大な人気を得ているらしい)。

 ランズデールの「ハップ&レナード」シリーズは、レナードがゲイの黒人という特殊な身分であるがゆえに、そこから尖鋭的なポリティカルジョークが繰り出されることになる。胸に響くというか、腹にこたえるというか、骨太なジョークやギャグが連打される。

 またハイアセンの『トード島の騒動』は環境問題と悪徳政治家の陰謀を描いたスラップ・スティックである。物語的にはエコロジーの「必殺仕置き人」といったものであり、登場する環境運動家(トゥイリー・スプリー)は、漱石の『坊っちゃん』の主人公をサイキックにパワフルにしたような正義漢である。彼は「アマゾン川の流域に大きな穴ぼこをあけてる会社」に1400万ドルもの融資をしたかどで伯父の銀行を吹っ飛ばし、保護観察の条件として「怒りの克服コース」に参加させられるような男なのである。

 ランズデールの『罪深き誘惑のマンボ』のレナードも、彼にとっての正義の動機から放火する男で、3度目の放火事件を起こし、留置場に連行されるところからこの物語は始まる。レナードを取調べ中のチャ―リィ巡査のところに制服警官がやって来て告げる。「あの、三号房の男なんですが、女房に電話してほしいっていうんですよ。ナショナル・ジオグラフィック特別番組の、クマの特集をビデオに録ってほしいんだそうで。いま電話しないと間にあわないんですよ。あと十五分ではじまるんでね」その当の番組を見たハンソン警部補いわく。「おい、信じられるか?テレビのセットのどまんなかで、二匹のクマが堂々とファックしているんだぞ」「神さまとそこらの誰もの目の前で、二匹のクマがマンボを踊ってるときたもんだ」

 この小説のタイトル(原題The Two-Bear Mambo)はこの警部補の台詞に由来している。邦題を『罪深き誘惑のマンボ』としたのは、なかなかに秀逸である。物語全体のリズムがエグいマンボのリズムなのである。上の「二匹のクマのマンボ」の挿話から、私は一挙に物語の中に引き込まれてしまった。

 この作品は分類上は「ミステリ」に入るが、ミステリとしてのストーリーはそれほど上等なものではない。それを期待して読めば、失望することになるだろう。けれども作品を貫くリズムが素晴らしいのである。そしてそのリズムは、主人公の2人(ストレートの白人ハップとゲイの黒人レナード)、および彼らと関わるクセのある(マンボ的)人物たちとの間でやり取りされる台詞の応酬の上に刻まれてゆく。

 訳者(鎌田三平)が言うところの「ミステリ史上でも一、二位を争うほどの饒舌、しかも品位などかけらもない」言葉のやり取りは、さながら、プロレスにおける極上のマイク・パフォーマンスのようである。『罪深き誘惑のマンボ』を読む楽しさは、マイク・パフォーマーたちの深く鋭い言葉の饗宴を享受する楽しみに似ている。なかでも私の一押しは、ハップがレナードに披露する「さびしいカウボーイたちのジョーク」である。引用するにはいささか長いので、ところどころ端折りながら紹介する。

 あるところにカウボーイの町があった。そこに1人の男が馬でやって来て、バーに入り、バーテンダーに尋ねる。「ところで、女どもはどこにいるんだい?おれはもう半年も女にありついてなくてね」
 それに対してバーテンダーは答える。「それが、この町にゃ女はいないんですよ。ですが、その件についちゃあ、わしらはちょっとした解決法を見つけたんですよ」
「へえ、そりゃなんだい?」
 バーテンダーは店の客に声をかけた。「さあ、みんな、このお客さんに見せてやってくれ」町の男たちはカウボーイを酒場の裏のスイカ畑に連れていった。
  町の男の1人が言う。「スイカをひとつ選んで、そいつに穴をあけ、あんたのチンポコをぶちこむのさ。こんな暑い夜にゃ、おそろしく気持ちがいいんだぜ」
 カウボーイはその話を聞き、控えめにいっても仰天した。だが、半年も女っけなしの身である。柵をよじ登ると、あたりを見まわし、器量よしのスイカを選び出した。ガラガラヘビみたいな縞のはいった、そいつがぐっときたのも不思議はないようなやつだ。カウボーイはポケットナイフを取り出し、そのスイカに穴をあけた。そのとき、突然他の男たちが息を呑み、たじろぐ気配が感じられた。カウボーイはふりむいてたずねた。「おい、どうしたっていうんだ?」
 ひとりが答えた。「あんた、火遊びをしちゃあいけないよ。そいつはジョニー・リンゴの女だぜ」

 そのオチをきいたレナードは「やれやれ。こいつは思ったよりひどいや。品ってものがない。それはまだいいとしても、全然おもしろくないじゃないか」と言うのだが、私は「参りました」と大受けしてしまった。

 このジョークを気に入った方は、この作品を堪能できることは請け合いである。

(2005・9・7)
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