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  「ミルハウザーについてのノート」

 (A)スティーヴン・ミルハウザーの小説を読んでいて思い浮かぶのは、「王国対市場」というフレーズである。と書いた矢先から、この「王国」という言葉は、ミルハウザーの作品のタイトルに倣って「小さな王国」というふうに書き直すべきかもしれない。超越的な価値を体現すべきものとしての「王国」に対しては、いささかの関心もミルハウザーは抱いてはいないからである。またversusという形での対立や闘争もミルハウザー的な身振りとは言えない。登場人物たちと彼らの父親との親密な関係性を見ればわかるように、エディプス・コンプレックス的な(世代間)闘争からは遠いところで、ミルハウザーの世界は繰り広げられるからである。

 ミルハウザーにとっての「小さな王国」とは、言ってみればアミューズメント・パークのことである。ピュリツァー賞を受賞した『マーティン・ドレスラーの夢』に登場する「ヴァンダリン・ホテル」はホテルというよりは、「森の中のお城」というイメージが中核にある「ホテル世界に博物館が不可解に侵入している」と新聞や雑誌に評されもする「祝祭性」の漲る空間であるのだし、「バーナム」という名を持つ博物館もまた、世間から「我々を太陽の領域の外に誘い出し、健全なる営みから引き離し、現実生活に対する不満を植えつけるものである」と敵対視されるかなりキッチュな場所なのである(「人魚の館」のある博物館など想像できるだろうか)。博物館志向の強い作家といえば日本にも『沈黙博物館』や『薬指の標本』を書いた小川洋子がいるが、小川の場合ミルハウザーに比べれば、ずっとオーソドックスな抒情性に裏打ちされており(つまりそのぶんキッチュ性が減少するわけだが)、ミルハウザーの書いた評論のひとつ「『トニオ・クレーゲル』考」(ただし私は残念ながらまだ未読である)の主人公トニオが抱えている貴族的な抒情を、小川の方がより多く共有していると言える。

 「トニオ・クレーゲル」の名が出ると、たいていの人がまずは思い出すのが「芸術家対市民」というフレーズであろうが、この言葉はミルハウザーにはあまり似つかわしくないように思う。『トニオ・クレーゲル』の作者トーマス・マンが執着したヨーロッパの貴族性と違って、ミルハウザーの感性的基盤の大半を占めているのは、生計を立てる手段としてある技術家の職人気質だからである(ただし登場するのは仕事において放蕩する職人たちである)。『トニオ・クレーゲル』で描かれる次のような部分は、ミルハウザーの主人公たちの資質にも合致していると思う。「その噴水、その老いた胡桃樹、そのヴァイオリン、それから遠くの海―それはバルチックで、休暇になると、彼はその海の夏らしい夢をぬすみ聴くことができた―
こういうものが彼は好きだった。こういうもので彼は、いわば自分のまわりに垣を作った。そしてこういうものの間で、彼の内生活は展開して行ったのである」自分のまわりに作られた垣。これがミルハウザーのアミューズメント・パークなのである。

 (B)ミルハウザーの処女作『エドウィン・マルハウス』は10歳でアメリカ文学史上に残る傑作『まんが』を書いて11歳で死んだ架空の作家についての架空の伝記という人を喰ったような体裁をとった作品であるが、主人公のエドウィンがティーンエージャーとなる前に死亡したという設定はなかなか象徴深い。英語では12(歳)と13(歳)の間に明確な区別を設けているが、これは性的な成熟の問題と同時に就業、未就業といった労働活動への従事を巡る区分をも含んでいるのではないだろうか。

 12歳までの時間というのは、輝かしい「余暇」の時間なのだ(ミルハウザーにおけるアミューズメント・パークの頻出はこの時間と関連している)。ミルハウザー作品の多くの受難者たちが、底知れぬ退屈、つまりは真空を抱え込んでおり、それゆえに(生来の資質、とりわけブランショのいう「幼少年時の幻惑される資質」もあるとはいえ)いっそう強く妖しい情熱に囚われることになる。ミルハウザーの主人公たちは、人生の早い時期に何かに取り憑かれるという、ようするに恋愛の甘美さの焔を知り、その焔に囚われ続けるといった受難を生きた者たちである。唐突ではあるが次の一節を引用してみたくなった。

 白い一輪の蘭の花を持った男が、墜落している。黒靴を履き、正装して、一輪の蘭の花を持った男が、淋しい夜明けの街の血の色の空間を、墜落している。
 (略)
 彼の服の釦が小さく光る。どんな時代であろうと、悪い恋をしている男ならば、そのことの永遠の意味が、直ぐ分るだろう。その彼が、自分であることが。
  白い一輪の蘭の花を持った男が、墜落している。遠く、小さく、白い一輪の蘭の花を持った男が、墜落している。
 全てを明晰に知りながら、何かに身を任せるしかない彼が、発散しているのは、やるせなく激しい快楽の匂いだ。生きることが、滅びることである男の匂いだ。      (粕谷栄市「幻花」)
 ここには奇妙なトートロジーがある。「悪い恋」という言葉は同語反復ではないか。少なくとも私にとって「恋」というのは本性的に  「悪い」ものなのだ。それは災厄であり、受難の体験である。

 芸術の根底にはこの受難がある。つまりは遭遇という出来事の痕跡がある。マイナーな作家ながら、ミルハウザーが私の関心を強く惹くのは、受難の刻印を彼の作品に感受するからである。

 この作家については長めの論考(原稿用紙40〜60枚程度)を書いてみたいと思う。実現するのはだいぶ先のこととなるだろうが(予定通りに完成すると分量が長すぎるがゆえ、このホーム・ページ上での発表はないだろうと思う)。

 
(2005・7・30)
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