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  「受難者としての金井美恵子」

 「働かざる者は、食うべからず。なんて凄くや。」という言葉を前にして、「けしからん言い草だ」と反応してしまう私のような男(マッチョ)は、おそらく金井美恵子の最悪の読者であろうし、じっさい金井の熱心なフォロウワーであったことはないと言えるのだが、こうした私の姿勢はフェミニズム的なものを根底においては嫌っている私のメンタリティーを反映しているように思う。

 フェミニズムって結局のところはナルシズムじゃないの、という懐疑を否定するつもりはないし、このような懐疑は正当性があるとも思っているが、もう少し話を詰めれば、レベルが高いのであれば認められるが、レベルの低いナルシストには全く同調することはできぬという、まあ、当たり前と言えば当たり前の判断をしているだけの話である。どちらかと言えば、アンチ・ナルシスのスタンスの方を好ましく感じるし、こうした嗜好は日本的自然の中においては(思想的にも)積極的な意味合いを持っていると思う。

 ところで「アンチ・ナルシス」という行為は、精神分析学においては、「去勢」と呼ばれるところのものと重なり合う。母と子の幸福な密着的世界に父の禁止が介入する、言い換えれば、「想像界」にまどろむ子を去勢という暴力によって「象徴界」に組み入れるというお馴染みの筋書きである。そしてフェミニズムの言説は、この去勢=暴力を巡って組織されている。フェミニズムが反制度的であるのは反去勢的であることと同義である。

 では反制度的であり、反去勢的であるがゆえに、金井信者でもないのに金井にこだわるのかというと、必ずしもそうとは言えない。私が金井にこだわらざるを得ないのは、金井の「受難者」としての資質に対してである。受難者は計算高いナルシストとは対極的な存在である。計算できないというよりは、計算に不可欠な余裕を奪われていることが受難者の存在論的な在り方だからである。

 「身を持って識る、ということが実は唯一の識り方でしかない」(「足首の夢」)と書く金井は、正しい認識の方法をオプティミスティックな道徳家の如く語っているわけでは全くなく、それとは逆に悲劇的としか言いようのない「愛そのものが内包する苦痛」を通してしか、人は具体的な生を学ぶことができないことを(おそらく誇りをもって)語っている。金井は本質的に「遭遇」の人である。そして遭遇とは、今一度繰り返せば、受難の劇のことなのである。「愛から、わたしたちは逃れる術がない。それは一種の異様な出あいであって、出あいの持つ意味はとことん極限へ行くことによってしか真実の意味をあらわしはしないのだ。」ここに書かれているような極限体験というか、快楽としての受難の光景を前にすると私は弱いのである。愛すべき馬鹿がいると、あっさりと敗北してしまう。そしてその敗北を悔しがりもせずに、密かに楽しんですらいる。

 幼児的と言えば幼児的である。先に記した「アンチ・ナルシス」云々という言葉を、もはやほとんど忘れてしまっている。“幼少年時がそれ自体幻惑されている時代”であるというブランショの言葉そのままに、「幻惑」の強度に貫かれる体験を肯定してしまっている。金井が愛着する幼少年時の痛ましさについて、あるところで蓮実重彦は「垂直に燃えたつ焔ですら」が触覚的環境となっていると書いているが、焔と距離なしに接してしまう生とはなんと甘美でかつ残酷であることか。

 かつて初期の詩篇「心臓乱舞」で「あたしも連続活劇の女主人公だ」と金井は書いたが、最新の『目白雑録』においても金井は「女だてら 柳腰にガンベルト巻いて」「スカートをまくりピストル」をぶっぱなし続けている。ここまでやるかと呆れつつも、爽快な悪口というやつが大好きな人間である私はついニヤリとさせられている。そして同時にその一方では、無邪気さをつけあがらせてなるものかとガキを目の敵にするオヤジの役回りを買って出たくもなる。冒頭に引いた「働かざる者は…」云々という台詞は、『目白雑録』に登場するピーコック・ストアの七夕飾りの短冊に「美人でスタイルのいい、頭が良くて優しい女の子が、僕の彼女になりますように。」と書いた馬鹿男と同じ程度にはふてぶてしいだろう。両者の言い分が通用するのは何十人という小作人を雇う大地主の家庭内かカルトな宗教団体の中においてぐらいだろう。経済市場の論理がこれらと同調するとは思えないが、こうした需要をも癒し系商品を通じて取り込んでゆくのも商売魂だろうなとも想像してしまう。また短冊男の方は別として、先の「働かざる者は…」という台詞の方はけっこう気が利いているので、洗練された女性のシティライフを演出すると謳う女性誌が商品価値を捏造しそうな気もする。と以上書いてきたようなことはまあ「目糞鼻糞を笑う」の類のことであるし、金井本人からも「マッチョ=馬鹿」という罵声が浴びせられるだろうが、当方としては、毒蝮三太夫のように、「見上げたクソ婆」と言うしかない。

(2004・8・24)
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