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  「Sweet Old Days」

 それにハマっている当事者たちは、ひたすら熱くなっているのだろうが、大方の者たちはよくは解せぬと首をかしげている現象があって、それは例えば『世界の中心で愛を叫ぶ』の大ヒットというものであり、原作の違例の売れ方に続き、映画化さらにはテレビでのドラマ化とよくあるパターンを踏襲している。また2001年のヒット映画『ウォーターボーイズ』は3年ごしで利益を稼ぎ出しているようだ。

 べつにこの2作品にハマっているわけではないのだが、これらの作品の世界の雰囲気に触れていると、佐伯一麦(59年生れ)、中沢けい(59年生れ)、恩田陸(64年生れ)という私の中ではひとくくりにされているほぼ同年代の3人の作家の世界を思い起こしてしまうのだ。

 この3人の作家に共通していることを、一言で言ってしまえば、それは「地方の進学校」の物語ということになる。よくは知らないで言ってしまうことになるが、『世界の中心で愛を叫ぶ』は地方の進学高校の男女の同級生の話のように聞いているし、映像(映画)としての『ウォーターボーイズ』は進学校的な側面は巧みに消されていたが、そのモデルとなったのは埼玉県の進学校の水泳部員たちだったはずである。

 そしてこの「地方の進学校」的なものが体現しているものは「70年代前半の青春」の世界であろう。『世界の中心で愛を叫ぶ』にしろ、『ウォーターボーイズ』にしろ、これらの作品のヒットに垣間見られるのは、現在の一部に70年代前半の雰囲気が回帰していることではなかろうか。

 例えば佐伯の『ア・ルース・ボーイ』は91年の三島由紀夫賞受賞作品であるにもかかわらず、そして佐伯の生年から佐伯自身の高校生活は70年代中頃から後半にかけてであっただろうが、佐伯がたまたま宮城出身であるがゆえに、都心部とのタイムラグによって、その世界は本人は意識していないのかもしれないが、「70年代前半の青春」しているのである。懐かしいけれどちょっぴり恥ずかしいのである。

 「ぼくは十七。いま、坂道の途中に立っている」という冒頭の書き出しやラストの一行の「ぼくは十八。アイ・アム・ア・ルース・ボーイ」にしろ、敵対する教師の言動にしろ、かなり古典的=クラシック(悪く言うとアナクロ)なものであるが、ジュブナイル・ノヴェルとしてはオーソドックスなものであるし、けっして悪い作品ではない。このジャンルは私の好きなもののひとつでもある。作品について言えば、新聞配達やトラウマゆえの性体験に対する忌避など、中上健次的道具立てのそろっている小説であるが、私はむしろ、神戸に生れそこなったがゆえにシニシズムを免れた村上春樹という印象を持っている。主人公は反進学校的なスタンスを取っているが、実際のところ彼は進学校的な価値観に捉われたままだし、彼のプライドは「県内随一の進学校といわれているI 高」に合格したことに支えられている。そしてそのことに彼は無邪気にも気がつかないでいる。

 どうも進学校の生徒というか、いわゆるエリートと呼ばれる人たちは、いたしかたないにせよ、ちやほやされてしまう境遇に置かれてしまうせいか、ナルシズムを培養させてしまう危険と隣り合わせになっているようだ。ナルシズムを否定するつもりは全くないが、それの表出の仕方には注意が要される。進学校の生徒は、どこかボディビルダーに似てきてしまうところがある。ボディビルダーは一般に言われるように、現代においてはきわめて珍しいストイックな精神の持ち主であろうが、反面もの凄く自堕落な側面も持っていると言えよう。何が自堕落かと言うと、ナルシズムの処理の仕方が自堕落なのである。あの不自然なモコモコ筋肉に軽薄な退廃(よく言うとバロック?)を覚えてしまうのは私だけであろうか。「ナルシズムの処理に失敗しちゃった人々」というのが私のボディビルダーに対する定義である。

 中沢けいのデビュー作『海を感じる時』もこの種のナルシズムが無防備に表出されてしまう部分を含む作品である。例えば次のような場面は、恥ずかしさに耐えながら読んだ記憶がある。

 県立のトップ校(またしても!) A 高に通うヒロインは、同じ中学出身で今はN高に通う川名という同級生と久しぶりに再会し、行きつけの喫茶店で話し込む関係を持つようになる。この川名という男が A 高に対する拭い難いコンプレックスを抱えており(高校受験の時 A 高行きたさに A 高志望の女生徒たちに志望校変更をするよう土下座して頼み回ったという)、私の中ではこの男子生徒が映像的にジミー大西の顔と重なってしまっている。この非秀才の男がある日喫茶店のテーブル越しにヒロインに向かって、意を決したように次のような会話を始めるのだ。「俺ね、中沢に言いたかったんだ」「何を」「中学ン時から、お前のこといいなあって思ってたよ」「あのなお前のこと好きなんだよ」と告白の儀式を開始し、さらには「男と女と主客転倒って感じだな」とお願いだからギャグのひとつでもいれてくれと頼みたくなるような展開を続けるのだが、作者である中沢は涼しい顔をして(本人はヒューモラスにこの場面を書いているつもりのようなのだが)このトーンを持続させてしまう。そしてとどめの一撃はヒロインの次の台詞である。「転倒してるついでに、あたしからキスしようかって言おうか」

 この場面を読んだ私の反応は、というと、

 うっひゃー。やっちゃったよ。中沢は
 「シリの穴がムズムズするような戦慄を味あわせてくれてありがっとよー」と叫び声を上げたくなるような火照りに全身を苛まれたのである。もしかするとこれは砂嵐吹きすさぶイラクの収容所において米軍によって新たに開発された巧妙な拷問のテクニックなのかもしれない。

 下積みのボクサーと車椅子に乗る少女との泥だらけの純情ラブストーリーといった設定のテレビドラマを見せられたって、もうコワくなんかないぞ。なんたって中沢のけい姉御がかましてくれたとんでもねぇーウハウハな場面(あるいはラムズフェルド極秘指令ミッションナンバー29・砂漠で海を妄想するビーム光線攻撃)に耐え通したオレだもの。

 と、稀有な文学だけが実現することのできる異次元の世界へと連れ去られる体験を身に被ってしまったのであった。

 そしてまた佐伯や中沢よりも五歳ほど年少の恩田陸も、70年代前半の雰囲気に強い親和を示す作家である。例えば恩田のデビュー作『六番目の小夜子』は N H K の30分枠の子供番組としてドラマ化されたが、恩田のこの作品はまさにかつての少年ドラマシリーズを先行するモデルとして書かれたような作品である。
 N H K のこのシリーズの第一作は72年の『タイムトラベラー』であり、以後80年代前半まで続いたようだが、私の中では70年代前半の香りとともに記憶されている。

 以上地方の進学校の3人組を取り上げてきたが、都立の進学校の方はどうであろうか。無理矢理トリオをつくるとするなら、松岡正剛(九段高校)、林望(青山高校)、井上一馬(国立高校)ということになろうか。何だかバラバラのようだが、臆面もなく抒情的な部分を自己陶酔的に語れるというところは共通しているようだ。こう書くと何だか馬鹿にしているようだが、そういうことができてしまう世代に属していることは羨ましいことだと思う。

 そしてこの都立三人組を系譜的に遡るならば、そこには都立日比谷高校の庄司薫がいる。そしてさらに薫君を遡っていけば、日比谷高校の前身である旧制一高へと辿り着くことになる。

 そうなのだ。
 今まで名前を挙げてきた書き手たちは、みな旧制高校的な香りを身に纏わせている人たちなのだ。

 じつは私が高校生の時、現代詩の世界に触れ始めた頃、その入り口のところには、本ホームページのトップページで引用した清岡卓行(「氷った焔」の作者)や大岡信や中村稔や谷川俊太郎(彼だけは一高出身ではないが父が哲学者の谷川徹三なのだから、一高的な空気を濃密に呼吸していただろう)がいて、そうした旧制高校的な雰囲気には惹かれていた。私の「根が下品なのはキラい」という性癖とそれは通じ合っているように思う。

 そしてこれは階級的な美意識(美学)というものであって(すべてを政治的な次元で語るつもりはないが)、自分の限界や弱点となる可能性を孕んでいると思う。例えば、すべてを政治的な次元で語りたがる傾向のある評論家スガ秀美(もちろん真の批評性とは政治性を有するものである)が、よく持ち出す現代思想の図式「黄金対糞尿」の対立においては、私は「糞尿」よりは「黄金」の方を選択する傾向がある。養老孟司風に言うならば、それが私の「壁」ということになる。(ついでに付言しておけば養老の「壁」は全共闘体験だと思う)スガからは多くのことを学んできたが、私とスガが生理的なレベルで異なるのはこの地点においてである。と言っても私はべつだん「黄金(上品)」原理主義者というわけではない。魅力的な下品さには惹かれてしまうこともあるし、積極的にそれに加担することもあろう。私は、むしろ、「中間地帯」というものを積極的に擁護してきたつもりだ。上品と下品、意識と無意識、健康と病、真面目と不真面目、明るさと暗さ、魂と身体、男と女、文化と自然等など、中間における葛藤およびそれに附随する快楽と苦痛に生の充実ぶりを認めてきた。じっさい具体的な生の現象は、そうした中間地帯で生起するものである。

 ところでここで話題となっている旧制高校的なものは、スガ秀美がその問題系を多く共有しあってきた、今は無き雑誌「批評空間」の初期のタームであった「大正的なもの」と重なり合う。「大正的なもの」とは、かんたんに言うと、明治末期の日露戦争の勝利によって、一応は先進国の仲間入りを果たした日本が、その勝利によって外の世界への緊張感を失い、空虚な繁栄と自閉的な洗練にかまけ、自分たちはイケてると自足し始めた思想的な停滞の時期に対する呼称である。「大正教養主義」とかああいった感じのもの。明治的な思想ゴリゴリだけがスゴいとは、私は言わないけれども、大正的なものに無批判に浸りきってしまうのは退嬰であると自戒しなければなるまい。

 私自身70年代前半へのノスタルジーについ心地よくなってしまう傾向があるので、「気持ちいい」だけの人生に正当なツッコミを入れたい。自己批判というものだって創造的なふるまいではあるのだ。経済活動だってそうでしょ。「技術革新」だとか「右肩上がり」というものだって、「現状」というものの否定や超克であり、今ある自分を否定し、さらに高いレベルの自分を創造する(顕在化させる)ことなのだから。

 もっともらしいオチがついてしまった。(若干恥ずかしい)

(2004.7.28)
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